3月17日 夕暮れ


「ゾロ」

呼び止められて振り返った。
夕暮れの街は沈もうとする太陽の光が眩しく満ちていて、声の主を確かめようとゾロは目を細めた。
「目つき悪イ」
制服姿のサンジが軽い足取りで寄ってくる。
「生まれつきだ」
「そんな赤ん坊、いるわけねえだろ」

憎まれ口をたたくサンジがゾロの隣に並ぶ。ふわりとした金色の髪がゾロの肩先少し上のあたりで揺れている。
一年ほど前、高校入学直後のサンジと初めて会った頃は、丸っこい頭が自分の肩の下くらいにあったはずだ。相変わらず手足の長いひょろりとした体つきだが、ずいぶん背が高くなった。

「ところで何でこんなといるんだ?迷子か?」
「迷子じゃねえ」
ゾロは即座に否定した。道に迷っているわけではない。れっきとした理由があって歩いている。

「免許更新してきたとこだ」
「ん?あれって誕生日の頃とかじゃねえの?」
「よく知ってるな」
「原付免許持ってンだぜ。そのくらい知ってる」
「あー、ちょうどその頃、出張があったりしてすっかり忘れてた。それで今日の午後、半休をもらって……」
「えっ?ナニ、失効?ダセー!」
サンジはゲラゲラ笑った。うるせエと怒ってもいい場面だとゾロは思うが、遠慮のかけらもなくあっけらかんと笑うサンジの顔を見ていたら、ま、いいかという気になった。

「それで?なんでここにいんの?方角、違くね?」
ニヤニヤ笑いを口元に残したサンジが問う。
「帰り道、工事してて。迂回路を通れと交通整理のヤツに言われる通りに来ただけだ」
「で、ここにいる、と?それにしたって変だろ。やっぱ道に迷ってんじゃねぇか。そんなんじゃいつになっても家に帰れねえぞ」
サンジはまだひとしきり笑った。
「しゃーねえな、迷子は。おれが連れ帰ってやる」

偉そうに言って、サンジはゾロの前に出た。沈みゆく西日に向かって一歩前を歩くサンジのシルエットは、頼もしい言葉とは裏腹に、夕日の加減で実物より細く頼りなげ見えた。ゾロは手を伸ばしかけて思いとどまった。光に溶けそうな後姿は触れたらなくなりそうな気がしたからだ。

こっちだ、というサンジについて大通りを渡り、いくつかの路地を通り抜けた。夕ご飯のにおいが空気中に漂う下町らしい風情の住宅地を突っ切り、しばらく歩くと川べりに行きあたった。ゆるいカーブを描いてゆったりと流れる川に橋がいくつかかかっている。

川沿いの道を並んで歩きながら、とりとめのない話をする。といっても話すのは専らサンジで、例えば、試験が終わりもうすぐ春休みだとか、この間電車に忘れ物をした友達につきあってずいぶんと遠い駅まで取りに行っただとか、その帰りにオリオン座というレトロな名前のとてつもなく寂れた映画館を見つけ興味本位に入ったところ、寂れすぎているせいで丁度何かのロケに使われており芸能人を見かけてラッキーだったとか、春の食材を使った料理を考案中でノートに書き溜めていてその中のひとつを今度試食させてやってもいいとか、そんな他愛のないことだ。

話を聞きながら、いつもよりサンジの元気がないような気がするのは気のせいだろうか、とゾロは思った。元気がないというか何か考えているような。相手が何を考えているのかなどは気にしたことはないが、サンジのことは気にかかる。

***

そういえばゾロとこうして話すのなんて初めてかもしれねぇな、とサンジは思っていた。

ゾロとはひょんなことで出会い、その後、偶然に会うことが数回。いつの間にかサンジの実家のレストランに客としてやって来るようになった。でもそれだけが接点だから、会った回数の割にはちゃんと会話をしたことはない。

いまだって、会話というよりサンジが自分のことを話すのをゾロは相槌をうちながら聞いているばかりだ。へぇ、とか。気の抜けたテキトウな言い方だが、不愉快ではない。一緒にいるのだって嫌じゃない。嫌じゃないどころか、近頃はふとした時に会いたいなと思ったりする。男なのに。自分も相手も。自分のこの気持ちは何なのだろう?

サンジは隣にいるゾロを見た。
姿勢の良い背の高い姿と肩幅のある体。格好良いなと密かに思う。けれど、それは理由にはならない。家庭の事情で、サンジは大人の男たちに囲まれて育った。年上の男性は特別に珍しい存在でもなく、おれも大人になったらああなりたいなと密かに憧れたりするような格好いい大人を何人も知っていているからだ。それに、ゾロに対する気持ちは、そういった純粋な憧れとはちょっと違う気がする。もっと知りたいとか、会いたいとか。まるでこんなの。

サンジは小さくため息をついた。
バカみたいだ。こんなこと。最近、モヤモヤモヤすることが多い。家のこと、学校のこと、勉強のこと、将来のこと、それからゾロのこと。自分でもどうしていいのか、どうしたいのか分からないことばかり多くて、考えても考えても答えが出ない。狭い水槽に閉じこめられてぐるぐる泳ぎ回っているだけで、どこへも行けない魚のようだ。

「あれ見ろよ」
ゾロの声にサンジは我に返った。知らず知らずのうちに俯いて考え込んでしまっていたらしい。先ほどまではまだ明るかったのに、いつの間にか日が落ちて辺りは夕闇に包まれて薄暗い。顔をあげてゾロの示す方を見る。ものの色が失われ、暗がりが優勢となっていく地上の景色の中、残照の空を映した川面が薄いオレンジ色に染まっている。思いがけない明暗のコントラストが美しい。

「すげぇ」
夕焼けを溶かした川みてぇ。
「夕焼けが溶けてるみてぇだな」
サンジが言おうとして気恥ずかしくて言えなかったセリフを恥ずかし気もなくゾロが言う。サンジは思わずゾロを蹴りつけた。
「いてぇな、何すんだ」

抗議の声をあげるゾロを見上げる。格好いいけど格好わるい。鈍感だけど鋭くて、年上なのにガキみたいな男。

二人の間を季節の変わり目の風が吹き抜ける。冬の終わりと春のはじめが入りまじった冷たいのにどこかほわりと甘いような空気がサンジの体をかすめ去る。サンジは体の力を抜いた。力を抜いた途端、体の中にすとんと落ちてきたのは、好きだ、という気持ちだった。

「バッカじゃねぇの!そんなクソ恥ずかしいセリフ、似合わねぇんだよ!」
「だからっていきなり蹴るんじゃねぇ!」
ムキになって怒るゾロがサンジの襟首を捕まえる。ゾロの手から逃れようとサンジはじたばたもがいたが、プロレス技の要領で背後からがっちり押さえつけられてしまい振りほどけない。

「クッソ、放せよ」
暴れるサンジを押さえていた力がふっと緩む。解放されたサンジの顔をゾロがのぞきこんだ。
「元気出たじゃねぇか」
にやりと笑うゾロを見て、サンジはもう一度反射的にゾロに蹴りをいれたが、予測していたのだろう、あっさりとかわされてしまった。

「足癖悪ィな」
「マジでムカつく!」

好きだ。
自覚した気持ちをどうすればいいのか、どうしたいのかも分からない。分からないことがまた増えた。ただ、気づいてしまった好きだという気持ちだけは、分からないことだらけの中で唯一、明らかで確かな事実だったから、認めないわけにはいかなかった。

「てめぇ、ほんと、口、悪ィよな」
「育ちが悪ィもんでね」

 

意識してしまったばかりの感情を持て余しながらも、目の前のゾロと今まで通りの言葉を交わすことのできる自分にサンジはほんの少しだけ安心した。

 

 

end