4月

明るい光が積もった雪を通してかすかに光り
こんなに青く清らかな松雪草が輝いている
過ぎ去りし悲しみには最後の涙
幸福の夢へは最初の憧れ                                                    

 

『四月』

 今日も負けた。

 最初は悪くなかったはずだ。先手必勝。竹刀を交わした瞬間から次々と技を繰り出して自分のペースに持ち込もうとした。最近少しずつ強くなってきた腕力で力任せに斬り込んだ。でも気がついたら何が何だか分からないうちに地面に突き転がされていた。こんな無様な姿があるもんか。屈辱だ。地面にはいつくばったままギリギリと奥歯をかみ締める。打ち据えられた腕やら脛やらが痛んでじんじんと痺れる。手のひらの中、土を握りしめる。チクショウ、今に見てろ。ぜったいに勝つ。強くなってやる。

「だらしないわね」
 対戦相手のくいなの声が響く。

 くいなとはこれが1405戦目だ。強い人間と戦いたくて仕方のないゾロは、道場での手合せとは別にくいなに何度も勝負を挑む。勝てたことはない。師匠は二人のこの勝負を苦笑しながら黙認している。稽古じゃなくて勝負だから、くいなの家の庭先か、神社の境内か、遊び場である原っぱか、そんな風に道場ではない広い場所で思う存分戦うことが多い。今日は東のはずれにある神社の境内だった。

 日の当たらない木陰の地面はひんやりと冷たい。くいなに負けるたびに嗅ぐことになるしめった地べたの匂いは悔しさと結びついてしまった。

 強くなるには練習しかない。練習すれば強くなる。でも、くいなと同じ練習をしていたらくいなと同じ強さにしかなれない。だからくいなの倍は練習しよう。そうすればくいなの2倍強くなるはずだ。
 ゾロは子供の知恵でそう思う。
 くいなよりも素振りをする。打ち込みをする。道場へは誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで居残る。負けたくない。今ここでくいなに負けてるようじゃ世界一になんてなれっこない。
 家が道場で師匠が親だからくいなはトクしていると言う奴らもいる。でもゾロは知っている。いつも涼しい顔をして圧倒的に強いけれど、くいなだってちゃんと努力しているのだ。ただ不思議なのはゾロのようにがむしゃらに一日中練習しているわけでもないところだ。勉強したり、家の手伝いをしたり、遊んでたりするときもある。

 師匠は言う。
「練習も大事ですが、それだけではいけませんよ。強さだけを求めても本当に強くなれません。いろいろなことを知ることも大事ですよ。なんのために強くなるのか。その強さはどうして必要なのか。自分の心によく聞いて、自分で考えて自分で答えをだしなさい」

 おれは何のために強くなるんだ?くいなに勝つためじゃ足りないのか?
 世界一になるためだけじゃだめなのか?
 わかんねえ。
 強くなるのに、どうして強さだけを求めちゃだめなんだ?
 そのあたりでゾロの思考は先へ進まなくなる。

 師匠は教えてくれない。

 くいなに勝ちたい。勝てるほど強くなりたい。もっと強くなって世界一になりたい。今のゾロにはそれだけなのに、師匠の言ういろいろなことって何だろう?あとはせいぜい腹が減ったら飯を食う。眠くなったら寝る。その二つが来て、それから?それから。

 ……あの黒くて大きな楽器を弾く金色の。

 まるで夢のように現実感のないきれいな音楽とそれを奏でる不思議な人間。
 優しく低く響く声とからかい気味の言葉。余裕めいた表情と煙草を吸う姿。自分を見つめる青い瞳。こちらがたじろぐほど瞳の奥をのぞき込んでくる。何かを探している人のように。
 時々、自分は目の前にいるのに、何を見ているのかと不思議に思うことがある。自分の後ろには誰もいないのに。おれはここにいるのに。見つめられているのに視線が合わなくて、自分が透明になったような気がする。気のせいかもしれないけれど。

……サンジ。


「あ、こんなところに」
 くいなが嬉しそうに声をあげる。境内の隅に小さな白い花が咲いている。
「なんだそれ」
 花には興味がない。くいながなぜそんなに嬉しそうなのか全く分からない。
「待雪草じゃない。知らないの?」
 呆れたようにくいなが言う。
「知るかよ」
 花をどうしようってんだと思う。食えねえ。役に立たねえ。
「春に咲く花だよ。ほら、花びらの先っぽに緑の模様があって可愛くない?」
 花を可愛いと思ったことはない。可愛いってのは動物の赤ん坊とかを指すもんじゃねえのかと思う。
「おかあさんが好きな花なの。スノウドロップとも言うんだよ。花言葉は希望なんだって」
「ふーん」
 女はよく分からない。普段くいなの性別を意識することはないが、こういうところは女なんだろうなあと思う。女らしいというわけではないけれど。
「摘んでいこうっと」
 しゃがみこんだくいながぷちんぷちんと花を摘む。ゾロはその後姿を見守った。役にもたたない花の名前を知っていて、腹の足しにもならない草を摘んだりしているのに、これがゾロより剣の強い人間の姿なのだ。

――強さだけを求めても本当に強くなれません。

 くいなの後姿を見ているとぼんやりと師匠の言葉が浮かんでくる。
 大きな身体だとか鍛えられた筋肉や威圧感、そういういかにも強そうなところは欠片もなく、むしろ頼りなげにも見えるのに、くいなはその華奢な身体の中に強さを秘めている。くいなの方が強いのは、きっとくいなはもう既に答えを持っているからかもしれない。ゾロより少しだけ年上で、ゾロより少しだけ背が高く、ゾロより手足の細いあの身体の中に、ゾロとは違うくいなだけの答えを隠し持っているのだ。それが何なのかは分からないけれど。

 花を摘み終えたくいなはすっくと立ち上がり、くるりとゾロに向き直ると
「はい」
と一輪の花を突き出した。ゾロは面食らった。
「ゾロにもあげるよ」
 黒々とした瞳がゾロをとらえた。いらねえ、と言おうとしてやめたのは、この役に立たない無駄なものの中にひょっとしたら強さの秘密があるんじゃないかとちらりと思ったのと、白い花のひっそりとした感じになんとなくこの花が似合いそうな人物を思い浮かべてしまったからだ。
「家に持って帰っておばさんにあげなよ。きっと喜ぶよ」
 右手に自分用の花を数本持ったくいなが屈託ない調子で言う。
「おう」
 もしかしたら生まれてはじめて嘘をついたかもしれない。 

「じゃあね、ゾロ。また明日」
 分かれ道でくいなが手をあげる。
「おう、じゃあな」
 ゾロも答える。

 去っていくくいなの姿を確認して、ゾロは自分の家とは違う道へと足をすすめた。

……これをあげたら喜ぶだろうか。びっくりするだろうか。それとも笑ってくれるだろうか。

 ぎゅ、と細い茎を握り締める。春を告げる白い小さな花。うつむき加減のスノウドロップ。
 強くなる。一番大事なその事とは全く別のところでいつでも考えている。会えないときも考えている。自然に足がはやくなる。駆け出す。走る。サンジのいるあの不思議な建物へ。周りの風景が流れていく。

 ピアノの音が聞こえてくる。
 サンジが弾いてる。
 角を曲がればサンジに会える。

 

 

 

 

end