いまかえりこむ

 

 目に映るのは、やけにのどかな青空とぽっかり浮かぶ白い雲、そして、降り注ぐ日差しをまばらに遮る木の緑。

 立派な枝ぶりの松の木の根元、ゾロは大の字で地べたにひっくり返っていた。行き交う人のほとんどない場所とはいえ、厄介事に巻き込まれ、追われている身としては無防備に過ぎると言えた。けれども、疲れ切った身体ではこれ以上動けなかった。図らずも負った傷口からはまだ血が流れているのを知っていたが、手当てなどは望むべくもなかった。ただ身体を横たえて、閉じてしまいそうになる瞼を無理矢理開けて天を仰ぐ。視界一杯の安穏とした光景が、自分のおかれた状況とあまりにもちぐはぐで笑えてくる。

 ―― ざまねぇな。

 自分の鼓動にあわせて怪我をした脇腹が容赦なく疼く。痛みは生きている証拠だ。痛いということは生きているということで、喜ぶべきことなのだろう。

 ―― ああ、クソッ。

 誰にともなく罵り言葉を吐けば、その言葉を口癖のように使っていた男のことが、不意に思い出された。

 この旅に出る直前、快楽を求めるにしては激しすぎる行為のさなかに、あの男は、激流に流されまいとするようにゾロの肩口に歯を立てた。ふだんは素っ気ない男の、取り縋るようにも見える必死な様子に、噛まれた痛みは昏い悦びとなって、いつにない快感をゾロにもたらした。痛覚の記憶とともに身体に刻まれた噛み跡を、あの男の執着の印としてそのまま残しておきたかった。だが、あの男が与えたものは、跡でさえ素っ気なく、ほどなく消え失せてしまった。所詮、仮初めだとでもいうように。

 

 定着することが出来るのなら、こんなことにはならないのだろう。しかし、ひとつところに留まれないのは性分なのだ。
 停滞するのは苦手だった。飼い慣らされるのもご免だった。この身ひとつあればよかったから、帰る場所などいらなかった。場所に対して執着を持ったことはかつてなく、今もそうだ。にもかかわらず、毎回、苦労しながらも、必ず同じところへ帰るのは、そこにあの男がいるからなのだ。

 ―― あの男が一緒にいてくれるのなら、帰る必要さえないのに。

 会えばいつも、あの場所から本人を根こそぎ奪うつもりで抱く。あの男が執着を見せるものたちから、力尽くで引き剥がして連れ去ってしまいたい。それなのに、ジジイが仕事がこの家がと、頑なな男は、ゾロにはよく分からないものにこだわって動こうとしない。連れて行くのに失敗し、毎度うちのめされた気持ちになってあの男の家を出る。二度と戻らないと啖呵を切れたら、どれほどさっぱりするだろうと、出来るわけもないことを思っては自嘲する。
 あの男は手放せない。離れたとしても失くせない。それでも、出かけずにはいられないのが自分の性で、先のことは何一つ約束してやれない。どこかで野たれ死ぬ可能性と、帰ってくる見込みは半々だから、出ていく時に口に出せるのは、

 ―― 行ってくる。

 それだけだ。
 待っていろとは言えない。待たなくていいとはなおさら。ましてや「待っている」とそう言ってくれるのを待っているなどと、口に出せるはずもない。つれない相手に告げるのは、「帰ってくる」の代わりの「行ってくる」だけで、それが精一杯の言葉だ。

 針のように細い葉の隙間からこぼれてくる日の光が眩しくて目をつぶる。
 閉ざした視覚と引き替えに、鋭くなった聴覚が周囲の音を拾い上げる。木々のざわめき、鳥のさえずり、虫の羽音、自分の鼓動。聞こえてくるのは、あたりさわりのない微かな物音ばかりだ。身の回りに漂う毒にも薬にもならぬ雑音の向こうに、自分に必要な、あるいは欲している音が聞こえないかと耳をすます。

 例えばもし。
 待っている、と聞こえたのなら、こんな所で無様に寝ている暇はなく、何としてでも立ち上がり、帰り着き、それから。
 何はともかく今度こそ有無を言わさず攫っていくのに。

 

  

 

end