デファクトスタンダード


サンジという名前の金髪コックがこの国にやってきて、それからおれと一緒に暮らすようになって半年たった。もともとの性格が柔軟で吸収力もあるのだろう。あるいは、生きていく為になんでもやってきた経験が、新しいことに適応する能力を育んだのだろう。
生まれ育った環境とまるで違うこの国に慣れるのは、こちらが思っていたより早かった。どこか無理をさせてやしないかと案じたりもしてみたが、命の心配をせずに日々を暮らせるなんて贅沢極まりないと不敵な顔で言ってのける。その表情に嘘はなさそうだった。言葉の習得も早かったし、あの国にはなかった街中に溢れる機械の操作もすぐにコツを飲み込んだ。PCだって英文のメールであれば今ではおれより早く打つ。

「なあ。これ、なんでこんな配置なんだ?」コックがPCのキーボードを見ながら、ふいに思いついたように言う。
「知らねえ。」おれにはどうでもいいことだ。おれはそういうのは気にならない、というか気にしたこともない。
周囲に対するセンサーというか目配りというか、観察眼というか。おれとコックはだいぶ違う、と思う。この男はこういった「どうして」ということが気になる性質らしかった。

「どうして」つまり理由と、「どうやって」すなわち手段を気にしろと、かつて言われたことがある。

コックの国へ駐在員として派遣され働いていた時のことだ。当時、おれの仕事のアドバイザー的存在だったエースからの助言だった。おれが余りにもそういった理由やら手段やらを無視したやり方で強引に事をすすめるのをみかねて、そんなんじゃビジネスで高みを目指せないぞと何度も注意された。あの頃よりも少しは考えるようになったが、自分の性にあわないことはなかなか身につかない。いまだに物事を深く考えるのは苦手だ。あるものはある、理由も手段もどうでもいい。目の前の事実をどう受け止めるか、それにどう対応するか、結局大事なのはそれだけじゃねえかと思ってしまうからだ。

「変な配列だよなあ。順番にABCってすりゃあいいのに。」
「変かもしれねえが、そういうもんなんだろ。気にすんな。」
「あまりにも無秩序だから気になんだよ。」
「秩序がなくても使うのに問題ねえじゃねえか。」
「そうだけどよ。」
「慣れて当たり前のことになったら、いちいち理由なんていらねえし。」
「まあな。いつか当たり前のことになりゃあな。それまでは、」コックが言う。「慣れねえよなあ。」声は小さかった。

思いがけないせりふに内心どきりとする。
それはキーボードのことだけではない気がしたからだ。

何に慣れていない?慣れたように見えてたのに、本当は違ったのか。
この国か?仕事か?言葉か?習慣か?
おれのそばにいることか?おれと一緒に暮らすことか?

今さらのように、この男に母国を捨てさせてしまったことを思い返す。あの国を出たのが全部おれのせいだったわけではないが、コックにこの国を選ばせたのはおれのせいだ。この男の人生を変えたという自覚はある。でもおれはそのことを後悔していない。罪悪感など持たない。持ちたくもない。そんな安っぽい感情やモラルを気にしていたら、この男を手に入れることはできなかった。

人に何を言われようと、どう思われようと、おれはこの男が欲しかった。この男と一緒に生きる人生が欲しかった。それだけだ。理由なんてないのだ。
勝手な言い分かもしれないし、自惚れかもしれないが、この男だって同じ気持ちだったはずだ。だからこうして今、一緒にいる。

慣れてもらわないと困る。俺のそばにいることに。

急に焦るような気持ちに襲われた。
どうでもいい話をしていて、今日という日が穏やかに終わるはずだったのに。
焦燥感に駆られたままコックを引き寄せて抱きしめて腕の中に閉じ込める。

「なんだよ?」おれの突然の行動に、戸惑い半分、からかい半分の調子でコックが尋ねる。直前の会話にどことなく漂った不穏めいた気配にもかかわらずコックの様子はいつもと同じで、こうされるのが嫌ではないと分かって少し安堵する。強く抱きしめても絶対にくにゃりとしない存在感のある堅い身体に安心する。生きて今ここにいる証拠の温かな体の重みを味わって、顔を上げさせてキスを仕掛ける。長い口づけのあとはもう些細なことなど考えられないように、いろいろとシタ。

理由などつまらない事を考えるなんてやめちまえばいい。