2月

もうすぐ湧き上がるよ。
にぎやかで楽しい感謝祭のお祭り騒ぎが。

『二月』

締め切られた部屋の窓を開けるとよどんだ空気が流れ出し、キンと冷えた2月の外気が入ってきた。あまりの寒さに身震いする。それから寒さに負けないよう自分自身に気合を入れる。

サンジは猛然とハタキをかけ始めた。
誰も使わない部屋は、ものが散らかることこそないけれど、ほこりだけが静かに、使われなかった時間の分だけ降り積もる。サンジはほこりをたたき出した。たった一週間使わなかっただけでも、このザマだ。もし自分がこうして部屋の掃除に来なければ、ここは一体どんな風になってしまっていただろう。
調度品に厚くほこりがたまり、死んだようになった部屋を想像して、うすら寒い恐ろしさで身震いがでた。
ハタキの次は掃除機だ。隅々まで丁寧に掃除機をかける。それからテーブルや家具類を拭きあげる。

掃除は好きだ。自分の手によって片付いてきれいに整っていくさまがはっきりと表れるのが嬉しいし、身体を無心に動かすと雑念が取り除かれて気持ちがクリアになる気がする。そうやって集中して作業しているうちに、掃除は終わった。

開け放しの窓から新鮮な空気が入ってくる。寒さはまだ厳しいが、日差しがどことなく明るくなった。
サンジは窓際に寄った。掃除後の一服。これはうまい。

2月だ。

相変わらず庭は枯れている。色味のない殺風景な景色。さすがに庭仕事は今日はいらないだろう。すっかり枯れたようにみえる木々ではあるが、今はまだ眠っているだけであと一ヶ月もすれば芽吹きが始まるはずだ。木は律儀に毎年同じサイクルを繰り返す。どんなに寒くても暑くても。生きている限り。

えらいよなあ。

生きているのに自ら動くことは出来ず、その場にとどまり時が来るのをじっと待っている。芽吹くときも、花が咲くときも、葉を茂らせるときも、葉を落とすときも。風も日照りも嵐も何もかもその身に起こること全てを受け止める。頭脳も意思も持っていないのに、季節にあわせてその身を正しく変化させる。精一杯自分にできることをしている。

待つのには木が一番いいんじゃねえか。
よくわからない考えが頭をよぎる。

やべえ、寒さで頭が変になったかも。
サンジは吸殻を携帯灰皿に押し込むと、窓を閉めた。

さて。
休憩ついでに温かい飲み物でもいれようかそれともピアノでも弾こうか。

少し考えて、ピアノが先だなと思う。
大きな楽器に近づきカバーをはずす。前屋根を開けて譜面台を引き出す。それからそっと大屋根を持ち上げ突き上げ棒を立てて支える。譜面立ての角度を調節し、鍵盤のふたを開けフェルトの敷布を取り去る。
あまり考えずに棚から楽譜を取り出してデタラメに開いた。

ちょうどいいな。
そのまま譜面台に楽譜をのせ指慣らしもせずに弾きはじめる。指先に冷たい鍵盤の温度が伝わってくる。冷え切った楽器から出てくるいつもりより硬い音には構わずに指を動かす。

謝肉祭。
暗い冬が去り春を迎えるお祭りを表現した曲は、きれいな旋律でありながら陽気な気分を漂わせたテーマが次々に変化していく。喜びを待ち望む気持ちが、長いクレシェンドに乗って、遠くから近づいてくるパレードのさざめきのように響く。湧き上がるお祭り騒ぎのにぎわいが華やかに力強く鳴り渡る。

一曲弾き終わり、視線を感じて顔を上げると窓の外に緑色の頭がのぞいていた。
なんとなく予感はあったのだ。

「坊主、よくきたな。」サンジは窓を開けて言った。
先ほどは感じなかった空気に混じる蝋梅の微かな香りに気がつく。まだ浅い、けれど確実に訪れる春の匂い。

「来るって約束したじゃねえか。」
「あんなあやふやな言葉、約束とはいえねえだろ。」
「約束はやくそくだ。」
「へえ。律儀なこって。」サンジはゾロから視線をはずし、遠くを見ながら煙草をくわえた。

何を見ているんだろう。ゾロはサンジの視線をたどるように頭をめぐらしたが、そこには何もなかった。葉をおとした木々があるばかりだ。
自分を見てもらいたい、とゾロは思う。だからこの男が興味のありそうなことを言ってみる。
「いまのヤツ、このあいだとちがう。元気な感じだな。」
「おお。謝肉祭がテーマだからな。」男は嬉しそうに視線をゾロに戻した。
「しゃにくさい?なんで2月に祭りなんだ?祭りは夏か秋だろ。春や冬にはやんねえだろ?」男の視線を自分にとどめたい。この男の視界に入っていたい。初めて見た時からゾロを掴んだあの青い瞳に自分を映したい。だからゾロは一生懸命しゃべった。自分にしてみればできる限り長く。

「よその国の風習だから、そこは目をつぶれよ。世の中いろんな種類の国があって、いろんな考えの人がいるんだ。自分の常識で物事をはかるんじゃねえよ。」
「ふうん。」ゾロにはよく分からない。
「ところで、おまえ。そんなカッコで外にいて寒くねえか?」
「別に寒くねえ。平気だ。」
「見てる方が寒い。」サンジは嫌そうなカオをした。それからふと思いついたように「そっちへまわれよ。」と窓から半分身を乗り出して腕で指し示す。「左側の扉な、そっから中に入れっから、部屋に入ってちょっと待ってろ。」そう言うと自分は引っ込んでどこかへ行ってしまった。

ゾロは言われた通りに部屋へ入った。細かい模様の入った毛足の短い暗色のじゅうたん。黒光りする重厚な家具類。壁際にしつらえられた大きな本棚には古めかしい背表紙の本がぎっしりと詰まっている。どれもこれもゾロには縁遠いもので、ものめずらしいと思うが興味はない。ただあの男が演奏していたピアノだけはゾロの興味をひいた。安っぽいところのまるでない存在感。つややかな黒い外見。曲線と直線が織り成すうつくしい形。ひきよせられるようにピアノに近づく。

中をのぞきこむ。宝箱のようだ。にぶく金色に光る箱の中に無数のワイヤーが整然と並んでいる。綿のようなもので出来たコマがずらりとそろう。

鍵盤を、押してもいいだろうか。
押したら、どうなるんだろうか。

「興味あんのか?」ふいに背後から男に声をかけられて驚く。あたたかそうな湯気のたつマグカップを二つのせたトレイを持った男がすぐ背後に立っていた。甘い香りがただよう。
「飲めよ。」テーブルにトレイを置くと、カップをひとつゾロに渡しながら言う。

色的には濃いしるこのようだが、匂いがちがう、とゾロは思う。恐る恐るカップに口をつけると、とろりとして甘いのに遠くのほうでかすかな苦味もあるような、不思議な味が広がった。

「洋風のしるこ?」
「ちげえよ。ホットチョコレートだ。口にあわねえか?寒いときは、こういうこってりしたものがいいんじゃねえかと思ったんだけどよ。」
「ふうん、はじめてだ。」
甘いものはあまり得意ではないけれど、なんだかこれは好きだ。はじめて経験する味わいに夢中になってカップを傾ける。

「おまえ、すっげえカオになってるぞ。」ゾロの様子をうかがいながら自分も飲んでいた男がおかしそうにぷっと吹き出す。
「カップ傾けすぎだ、あほ。カールおじさんかよ、口の周りにチョコついて。」
ゾロは我知らず赤くなりながらごしごしと口元をこすった。笑った顔が見れて嬉しい。でも笑われて恥ずかしい。相反する気持ちのせめぎあいでどうしていいのかわからないまま、むっと口元を引き結んで男の顔をにらみつけた。
男は笑顔のままでゾロに向かって手をのばした。反射的に首をすくめる。大きな手。親指の先がそっとゾロの頬と口の中間くらいに着地した。その指に頬の上をきゅっとなぞられる。ひんやりとした指先が冷たくて、こそばゆくて身をよじった。ぞくぞくする。

「ほれ、とれた。」指がゾロから離れていく。離れる指先の感触が惜しかった。ホットチョコレートが残り少なくなっていくのを見るのも惜しいと思う。同じ惜しいという気持ちなのにどこかが違う。
なくなるのはいやだ。
ゾロは単純だから失ったら取り戻せばいいと簡単に考える。小さな手をのばして男の手をつかんだ。

「なあ、もっとほしい。」
「おかわりか?」
「それも欲しいけど。」
「それも?」不思議そうに問い返された。うまく説明できない。
「とりあえず、おかわり作ってきてやる。手はなせ。」握り締めたゾロの手を、やんわりとはずすと男はその場を立ち去った。

へんなやつ。
台所でミルクパンで温めたチョコレートをマグへと注ぎながら、サンジは考えた。
あんな色の頭、世の中にそうそういるとは思えねえけどなァ。
仕上げに白いマシュマロを浮かべる。

いかにも子供らしくチョコレートの味に目を輝かせた。
子供らしからぬ強さでひとの手を掴んで目を光らせた。

マシュマロがじんわりと溶けていく。
ふたつとない珍しい色の髪の持ち主はユニークな性格をしているものらしい。

おかわりの一杯を持って部屋へ戻ると子供の姿はなくなっていた。
部屋の温度が下がった気がする。

来るときも突然だけどいなくなる時も突然だな。
ま、いいけどよ。
慣れてるし。

春の兆しが見えてきたかと思われた庭も、夕方になり日が翳ってしまうとまだ頑ななほど冬の様相だ。

薄暗くなってきた2月の庭を眺めながら煙草に火をつけた。
ほろ苦かった。

 

end