まつとしきかば

 

激しく寝乱れたシーツが、昨夜の情事を物語っていた。嵐の海に巻き込まれたと思った。自分ではどうにもできない大きな力がうねりとなって全てを飲み込み、サンジの何もかもを攫って行こうとした。飛びそうになる意識と躰を自分の下に留めておくために、何かに縋りついていなければならなかった。シーツを握りしめ、自分に圧しかかってくる男の鍛え上げられた肩口に歯を立てた。必死だった。手放してしまうのが怖かった。けれども、あれほど熱くサンジを抱いた男の姿は、今やどこにもなかった。冷え切った敷布の海からのろのろと這い出して、サンジは煙草に火をつけた。

 煙とともに肺を満たすのは漠々とした寂寥感で、それでもうつろなままの肺よりは随分ましな気がした。 

ベッドサイドテーブルの上にはメモが残っていた。
寝る前には部屋をきちんと片づけたのだから、置いたのはあの男だろう。

『行ってくる』

一言だけが書いてある。 

どこへとも書いてない。いつ戻るとも示してない。帰ってくるとさえ言わない。
いつもそうだ。
必要な情報を一切伝えない、ただ己の行動を宣言するだけの紙に一体なんの意味があるというのか。

煙草を咥えたまま、紙切れを指先でもてあそび、そっけない言葉を残していった男の事をぼんやりと考える。

ふらりと出かけ、どことも知れぬ旅をして、いつとも知れぬ間に出かけた時と同じようにふらりと帰ってくる男。
自分の信念以外には執着を持たずに、好き勝手に生きている自由な男。
それなのに、毎回、なぜだか律儀にメモを残しては、自分のところへ帰ってくる男。

飼い犬であれば、鎖で繋いでおけばいい。自分のものだと知らしめるために。飼い猫であれば、部屋に閉じ込めておけばいい。どこへも行かぬように。
けれどもあれは飼われるのを厭う野生の動物だ。手を出すことも、飼うことも、所有することもできない。ただ見守るしかできない。それさえも、自分の意思でしているだけで、見守っていてほしいと望まれたことなどない。ましてや待っていてほしいなど。 

―― 待っていろだなんてアイツの柄でもねえし、望まれてもいねえけど、おれの望みはおれのもの。せめて願うくらいはいいだろう。……無事に帰ってきてほしい、できればまた自分のところへ。

 

まつとしきかば。

 


不意に言葉が蘇る。
 

―― ああ、これは。
以前、近所に住んでいた独り暮らしの老婆が教えてくれた、行方知れずになってしまった猫が無事に帰って来るためのまじないだ。可愛がっていた外飼いの猫の姿が見えなくなるたびに、彼女はそう唱えていたものだ。 

「帰って来いと言ったって、誇り高い猫は帰って来やしないよ。却って帰るもんかとへそをまげちまうさ。それよりも待ってるよ、と言えばいいんだよ。待ってるよと聞いたなら、帰ってくるさ。情があるからね」

―― ありゃあ猫なんて可愛いものじゃねえが。それでも。

「まつとしきかば」 

ひっそりとつぶやいた呪文の言葉は、吐き出された煙草の煙とともに、少しの間、室内に漂って、そして消えていった。

 

 

end