6月


岸辺に出よう。
波は私たちの足先にくちづけ、
愁いの星は私たちの上で秘めやかに瞬いている。

『六月』


雨が降っている。

  雲が重く垂れこめた外は昼間であっても薄暗く、明かりをつけていない部屋もひっそりと薄闇に沈んでいる。雨音に耳をすませ、窓の向こうの雨に煙る景色を見ていると、雨に閉じ込められたこの部屋が、悪天の下、海を渡る船の船室のように思えてくる。窓ガラスをつたう水滴は風に吹き上げられ飛ばされた波しぶき。足元が揺れるような気がするのは、今しがたまで弾いていた曲のせいだろうか。

  サンジは窓辺近くに置かれた一人用のソファに目をやった。
   古びたアームチェアの上で子供は丸くなって眠っている。ゆるやかに揺蕩う旋律に眠りを誘われたのだろう。 

―― 風邪ひかねえように、何か掛けてやるか。

  健康そうで病気とは無縁に見える子供だが、雨のせいで気温が上がらず今日は肌寒い。サンジはハーフケットを持ってくると、子供のそばへ歩み寄った。

  憂いの欠片もなく幸せそうな寝顔が無防備にさらされている。若草のような短髪。その触り心地は、この間確かめた。つるっとした額、くっきりとした眉山。子供のくせに通った鼻筋。起きてるときは、たいてい真一文字に引き結ばれている口元が、寝ている今は緩んでいる。
   サンジの前で寝ている時だけ緩んでいる。そんな男を知っている。

―― 似てると思うのは気のせいだ。

  サンジは頭をふって、子供にハーフケットをかけてやろうと身をかがめた。その時、ぱちりと子供の目が開いた。

「悪ィ、起こしちまったか?」
「寝てねえ」
「寝てただろうが」
「ちょっと目を閉じてただけだ」

―― どうして、居眠りをする奴は必ず自分は寝てないと言い張るのか。

「あー、わかったわかった。目ェつぶってただけなんだな」
「おう。でも今の曲、ゆっくりしてるし目つぶってきくと暗いから眠くなるな」

―― だから、寝てたんじゃねえのかよ?

  サンジは可笑しくなった。笑いをかみ殺していると子供が言った。
「今度は立って、目ェ開けて聴く」
   そのまま椅子から下りると、子供はピアノのそばへ行き、促すようにサンジを振り返った。
「なあ、もう一回弾いてくれよ」
「しょうがねえな」 

  子供のリクエストに応える形でサンジは先程の曲を再び弾き始めた。

  出だしは船が静かに岸を離れるようにゆっくりと。そして伴奏に寄り添うように慎重に流れていく物悲しい主旋律、繰り返されるフレーズ。途中、水面をはねる明るい水しぶきのように音がきらめき、それから波を立てることなく静かに船は去っていく。

  文句なく切なく美しい旋律なのに、暗くて重たい飲み込めない何かが胸につかえるような気がして、手放しで素直に好きだと言うことが難しい曲だ。子供はこういう曲は好きじゃねえだろうなあ。

  演奏を終えて子供を見やると、サンジをじっと見つめている子供と目が合った。
「好きだぞ」
   サンジの心を読んだかのように言われ、一瞬動揺してしまう。
「おれ、この曲、好きだ」
   本当のところを言えば、動揺したのは、好きだというその言葉が自分へ向けられたものなのかと思ってしまったからだ。あり得ないことなのに。

「そっか、好みが渋いな。おっさんみてえ」
   できるだけその話題から遠ざかりたくて、サンジは茶化すように言葉を継いだ。子供は単純にサンジの言葉に口をとがらせた。
「おっさんじゃねえ」
「へーへー、まだお子様だよな」
「子供だけど、お子様なんかじゃねえ」
「確かにお子様っていうより、小僧とかガキって方が似合うよな」
「バカにすんな」
   言いながら子供はサンジにむしゃぶりついてきた。受け止めようとして反射的に伸ばした腕が鍵盤にあたって、耳障りな音をたてる。子供はびっくりしたように、サンジの腕の中で顔をあげた。

「なんだ、今の音」
「なんだも何もねぇよ。ぶつかって音が出ただけだろ」
「変な音だった。壊れたんじゃねえのか」
   子供は鍵盤を覗きこむように顔だけ振り向けた。サンジは苦笑した。
「そうじゃねえから心配すんな。繊細な楽器だけど、これくらいじゃ壊れねえよ。大丈夫だ」
   サンジが言ってやれば、腕の中にいる子供の緊張が解けるのが分かった。それでも子供はピアノを見つめたままだ。何か気になることがあったらしい。

「なあ。これよく見ると、古いな」
   ピアノの白鍵は黄色を帯びてまだらに変色し、お世辞にもきれいとは言い難い。外観は指紋ひとつなく磨かれ、開いた蓋からうかがえる中身の部分も整然として美しく見えるのに、鍵盤だけが黄ばんで古ぼけて見える。
「年代ものだからな。鍵盤がこんな色してんのは、表面に本物の象牙を使ってあるからだ。年月がたつと自然にこんな風になっちまうんだとよ」
「ぞうげ?」
   子供は向き直ってサンジを見た。
「おう、象の牙だな。今は使われちゃいねえが、古いピアノには割と使われてたから特別珍しいことはねえけどよ」
   子供に回していた腕をそっと解き、サンジは煙草のパッケージを取り出した。「……珍しかねえけど、このピアノにはちょいとした謂われがあってな」
箱の中から一本取り出して、口先にひっかける。
「聞くか?」
「おう。知りてえ!」
   好奇心に輝く子供の顔を見て、サンジは煙草に火をつけた。煙をゆっくりと吐き出しながらおもむろに語りだす。


「おれジジイの爺さんのそのまた爺さんってのが、その昔、船乗りだった」
   サンジは子供の反応を見た。疑いもせず、笑いもせずに、じっとサンジの話を聞こうとしている姿があるだけだ。
「つっても、ドンパチは日常茶飯事。強さが全て、欲しいものは奪うってのがルールだったってんだから、船乗りと言うよりは海賊だな。物騒なことだよなあ」
   サンジは煙草を口にして、長々と吸い込むとまた話を続けた。
「ある日、座礁した船を見つけた。そいつはマストの先が海面に出てるだけで、船体のほとんどは海に沈んでた。潜水の得意な奴らが潜って確認してみりゃ、すっかり朽ちた幽霊船だ。沈んだ船は縁起が悪い。それでも、お宝を抱えてんじゃないかってんで、船腹を探ってみたら、金銀財宝が入ったお宝箱を見つけた。それと一緒に何十本もの象牙」
   子供は目を瞠った。
「当時は交易品として高値で取引きされてたらしいから、難破した船は商船だったのかもしれねえ。でもな、ご先祖サマたちは海賊だ。まともな商売をしねえ奴らがそんなモノ持ってても何の役にもたたねえってんで、宝箱だけいただいて、象牙はそのまま海へ投げ捨てた」
「捨てた?全部?」
「いいや。全部ってわけじゃねえ。おれのご先祖サマは、何か思うところがあったんだろうな。少しだけ、象の牙を手元に残した」
「え、じゃあそれが?」
「これさ」
   サンジは白鍵に指を置いた。 

「その後、象牙は代々伝わってきた。でも、そのまま持ってるのもナンだってんで、今から100年くらい前、音楽好きの当時の当主が作らせたのがこのピアノなんだと。おれに言わせりゃ、そんなのは音楽好きじゃなくて、モノ好きってんだが。まあ、それはともかく難破船に積まれてた象牙を使って作った楽器なんて、ちょっとシャレてるだろ。ひょっとしたら怨念がこもっているかもなあ」

  吸殻を携帯灰皿に押し込んでパチンと蓋を閉めた。それから芝居がかった暗い声で続ける。
「……だから、こいつを弾くと、この世のものではないモノが引き寄せられるってハナシだ。ほら、おまえの後ろに!」
  ギャーという子供の悲鳴を期待して、飛び掛らんばかりに脅かしたのだが、子供はまるで動じなかった。
「おまえ、少しは驚けよ」
  すっかり当てが外れてサンジはがっかりした。
「なんでだ?驚くところ、なかったぞ?おれ、幽霊怖くねえし。サンジの脅かし方も全然怖くねえぞ」
「なんだよ、つまんねえな」

  海賊、幽霊船、沈んでた宝。
  子供の冒険心を刺激するそんな話を幼い頃にジジイから聞いて、自分はすごくゾクゾクしたのに。ゾクゾクというかワクワクというか。自分が感じた高揚を、この子供も感じて共有できるんじゃないかと思ったのだが、それは違ったようだ。

「どうせ法螺話だとか思ってるから怖くねえんだろ」
「思ってねえ。ただ、おれ、海賊は嫌いだ。あいつら悪いヤツだろ」
「悪いヤツら?まあ、確かにそうだけどよ。なんだおまえ、悪党より正義の味方やヒーローが好きなクチか」
「当たり前だ」
「ってことは、海賊とか幽霊なんて話より、巨大ロボなんかが出てくる話とか怪獣とかの方が好きだったか」
「おう。ロボもカイジュウも好きだぞ」

―― 単純で真っ直ぐで正直で、清く正しく育てられた典型的な子供だってことだな。

「じゃあ、将来は、正義の味方、お巡りさんになりたいですって思ってるだろ」
  ややからかい気味に言ってやれば「いいや」と即座に否定された。
「おれ、将来は海に出て世界一になりてえ。世界一強い剣豪」

  子供はきっぱりと言った。既に己の将来の目標を定めてしまった人間特有の迷いのない口調だった。この若さで自分の未来をただ一つに決めてしまうのは、サンジには空恐ろしい気がした。まだその前途は数多の可能性に満ちていて、何にだってなれるのに。どんな未来だって思いのままのはずなのに。いつかその決心を後悔しないとも限らないのに。こうと思い込んで決めてしまうその潔さは、羨ましくて眩しいと思うと同時に危ういと思う。

  我知らず考え事をしていたサンジは、子供の言葉で現実に戻った。
「おれ、そろそろ行く」
「そうか。気を付けて帰れよ……っておまえ、傘はどうした」
止まない雨の中へ身一つで出ていこうとする子供に慌てて声をかける。
「走るから大丈夫だ」
「そういう問題じゃねえだろ。濡れて風邪ひくぞ。傘、貸してやるからちょっと待て」
「いらねえ。遠くねえし」
「遠くねえって、どこなんだ」
「シモツキ。じゃあな!」
  言うなり子供は外へと飛び出して行ってしまった。止める間もなかった。子供の姿は雨に消えてすぐに見えなくなった。

  子供は来る時も帰る時も突然だ。前触れもなくやってきて、あっという間に去ってしまうなんて、まるでつむじ風だなと思って、ふと気づく。そういえば、アイツ、この雨の中、傘も持たずに来てたのか。それにしては濡れてなかった気がするが。走れば大丈夫だとか言うくらいだから、濡れても犬みたいに身体を振って水気を飛ばしてオシマイにでもしたんだろうか。

  その姿が容易に想像できて頬が緩んだ。

  いつの間にか、子供に会うのを楽しみにしている自分がいる。

 

 

 

 

end