5月

安らぎと恍惚に満ちた夜。
北の故郷に感謝を捧げよう。
5月
それはなんとすがすがしく鮮やかに澄み渡るのだろう。

 

『五月』

 

子供の頃、夜と昼の境が曖昧な薄明が長く続く情景を見たことがある。それは美しく幻想的な光景だった。日はあるのに明るくはない。飲み込まれそうな闇も無い。暗い夜が来ない。寝室に追いやられてからも寝るのが惜しくてベッドを抜け出して窓の外を飽かず眺めた。あまり数の多くないサンジの幼い頃の記憶だ。あれは今ぐらいの時期だっただろうか?

白夜。
ピアノに向かう。この曲はその一度見た光景を思い出させる
沈みそうで沈まない太陽のように、行きつ戻りつする旋律が続いていく。音は本来の場所とは違う調性へさまよいだし、ほんのひと時気まぐれに戻り、また消えていってしまう。戻る場所があると知っているからふらりと出て行くのか、それとももっと居心地のいい場所を求めて出ていくのか。帰ってきたと思わせてまた逃げるようにして去っていってしまうばかりか、ありえないような世界を一人さすらったりする。最後にはようやく終着へ向かい本来の場所で静かな眠りにつく。

……演奏に集中していたせいで曲の世界に入り込んでいた。

昼とも夜ともつかない、夢か現かも分からないような百夜の世界がこの世の中のどこかに存在していて、そこでの5月は夢のように淡い情景に彩られた日々なのだろうと思う。この曲のように。
こことは違う。
ここの5月はもっと色鮮やかで生き生きとしている。日差しは眩しくまっすぐに降り注ぎ、新緑は深緑へと変わり、日ごと濃くなる生命力溢れる力強い緑の。緑、の……。

ぴょこり。
開け放した明るい窓辺に緑色の頭が見えた。短い毛を生やした丸い頭が日の光を浴びて温かそうにほわりと揺れる。もの思いにふけっていたサンジはそれを見た途端、この世界に引き戻された。
触りてえなとサンジは思った。短い髪の毛はまだやわらかく、チクチクとするであろう手触りもなんだか気持ちがよさそうだ。

窓際へ近づく。

あともう少しで本人の姿が見えるというところで、ぐぐぐぐぐというとんでもない音が響いた。

―― こいつぁオレにとっちゃ、一番聞き逃せねえ音じゃねえか。

明らかに腹の虫であるところの音を聞きつけ、サンジは内心ニヤリとする。
辿り着いた窓辺から見下ろすと、恥ずかしかったのか窓の下にしゃがみこんで少しだけ赤くなってる子供がいた。赤くなってるくせに気まずさの裏返しなのか攻撃的にこちらをキッと睨んだりしている。

―― アホだなあ……。

サンジの口許に笑みがうかんだ。

「よう。なんだ、腹減ってんのか?」
サンジの言葉にちょっとだけ考えるそぶりをした後にゾロはこっくりとうなずいた。
「そういや今日は飯あるぞ。にぎりめし、食うか?」
自分の昼食用にとおにぎりをいくつか持って来ているのだ。ぱあっとゾロの顔が輝いた。見た人間もつられて笑いたくなるような表情をする。
「中、入るか?それとも外にするか?」
サンジは聞いた。
「外で食う」
「よし、今準備して持ってってやるからそこで待ってろ」
サンジは部屋に引っ込んだ。キッチンでお茶の用意をし、昼食の包みと一緒に盆に乗せて庭に出る。

いない。

―― まさかまた黙ってどこかに行っちまったんじゃねえだろな。

壁際に置きっぱなしになっている古ぼけたベンチに荷物を置いて庭を探す。

「おい!」
呼びかける。
「おーい、ちびぞろ!」
「ちびじゃねえ!」
ガサガサッと葉をかき分ける音とともに庭木の陰からゾロが姿を現した。どうやら隠れていたらしい。
「まだまだちびじゃねえか。生意気言うな。それとも小せぇからコゾロがいいか?」
「おれの名前はコゾロじゃねえ!」
ムキになって食って掛かる様子がおかしくて、ついからかいたくなる。
「じゃあマメゾロ」
「なんでだよ!?」
「緑色でつやっとしてて小さくて、マメって感じだよなぁ?」

―― 生き生きとした生命力にあふれていて、これからどんどん大きくなる感じとかな。

「おれはちゃんと名前を呼んでるのに、サンジはなんでふざけるんだよ」
「年上つかまえて、呼び捨てにしてる段階でちゃんとじゃねえだろうが」
ゾロの広いおでこをサンジはピンと指先ではじいた。
「むー」
ゾロは下唇を突き出して不満の表情をしてみせる。
「はははっ」
思わず頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「なにすんだよ、サンジ」
抗議の声があがるのもかまわずに、ぐりぐりと髪の感触を楽しむ。
小さい頭、柔らかい髪。子供特有のひなたのにおい。無邪気でまるでなにも知らない幸せな子供時代のにおいがする。
「やめろよ、サンジ」
ゾロがサンジの腕をつかむ。小さい手なのに意外なほど強い握力に驚かされる。熱いくらいの掌の感触は、子供ゆえに体温が高いせいなのだろう。

「ほれ、おまえ腹減ってるんだろ」
何か言いたげなゾロに気付かない態で弁当を置いたベンチへ促す。
「ほらよ」
おしぼりを渡し、サンジは盆の上の包みを解いた。中から出てくるのは今の季節の飯、豆ごはんのおにぎりだ。白いご飯とつやつやしたグリンピースの緑のコントラストが目に鮮やかで、それを見たゾロはよだれをたらさんばかりに身を乗り出してきた。

「ははは。マメゾロがマメご飯って見事に共食いだよなあ」
「マメじゃねえ!」
反論してはみるものの空腹には勝てなかったのだろう。
「いただきます」
大きな声で食前の挨拶をするとガブリと豪快にかじりついた。

「うめえ!」
からかわれた不満が一瞬でゾロの中から消えてく。それくらい衝撃的に美味だった。「口にあったか。そりゃあよかった」
サンジの笑いがやわらかくなる。
「なあ、これサンジが作ったのか?」
「ああ。季節の飯っていいだろ?4月はたけのこご飯、5月はコレだよな。あと秋のくりご飯。その季節になったら一度は作らないといけない気がするんだよなあ」
「すげえうまい」
言葉で言われなくてもその食べっぷりで分かると思う。

「今まで食った豆ごはんと全然ちがう。この豆、何か特別なマメなのか?」
「いや?マメは普通のマメだな。エンドウ、ってかグリンピースな。分かるか?まァ、うまく炊くためには多少コツってのはあるけどな」
「コツ」
「ああ。このマメは若いときは丸ごと食える位サヤも軟らかいんだけどよ、成長してくるとサヤは硬く筋張っちまって食えねえんだ。だから、剥いて中身だけを食うモンなんだけどな。でもいい風味が出るから、サヤを全部捨てちまわねえで少し一緒に入れて炊くといいんだ」
「ふうん」
料理方法になど本当は興味ねえだろうなあと思うのに、思わず語ってしまった。
「それでこんなにうまいのかぁ」
「腹減ってるし、外で食ってるからじゃねえか?」
そんなありきたりな理由じゃない、とゾロは言いたかったが、噛むので忙しくて言葉にはできなかった。気付くとおにぎりは最後の一つになっていた。そういえばこれはサンジの昼飯だったはずなのに、持ち主は何も食べてない。しまったと思ってゾロはサンジを見上げた。

「いいぞ。食っちまえ」
「サンジの分なくなっちまう」
「気にすんな。ってか、子供が遠慮すんなって」
「うまいんだからおまえも食えよ」
「なんだよ、そりゃ。作ったのはおれだぞ?」
「もらったからには、おれのもんだ。半分やるからサンジも一緒に食え」
「ははは。おまえ面白いなあ」
ゾロが最後の一つを半分に割り、片方をサンジの手に押し付けるように渡したときにグリンピースが一粒こぼれた。笑いの残りを引きずったままサンジが拾い上げたその指先を、ゾロがぱくりと咥えた。

「あ?!」
サンジが驚いた声をあげる。
ゾロは咀嚼することもなく、そのままごくんと飲み込んだ。
「落ちたモン、食うな!」
「だってもったいねえ。それに落ちて3秒以内ならセーフだろ?」
「そんなルールねえよ」
「もう食っちまった」
「腹こわすなよ」
「大丈夫、問題ねえ。そのためにコレしてるし」
ゾロは大真面目な様子で、身に着けている腹巻をポンとたたいた。
「いや、それに腹痛除けの効き目はねえよ」
「え、そうなのか?」
「ぶっ!」
そんなこと初めて知ったというようなゾロの心底驚いた表情に、サンジは堪らず噴き出した。
日のあたる明るく温かい場所で、無邪気な様子でハラマキで、自分の作ったメシを素直にうまいと言う子供。なんだか幸せな気持ちになり、一度声に出して笑い始めたら止まらなくなった。
「大丈夫か、サンジ」
「笑いすぎて腹がいてぇ」
「腹がいてえんだったら、腹巻貸すぞ」
「いや、だから、それにそんな効能ねえって」
目に涙を浮かべて文字通り腹を抱えて笑うサンジが、揺れる自分の身体を支えようと思わずといった調子でゾロの肩に手をかける。手をかけてその小さな肩に額を預けるようにして、けらけらと笑っている。
そのせいで、ゾロの目の前には金色の頭が現れた。いつもは見上げるほど高い位置にあるまぶしい金色の髪の毛。今なら手が届く。笑いで震えるその髪をゾロはそっと触ってみた。ひんやりしていると想像していたのに、意外にもそれは温かかった。気持ちよかったからなでてみた。何度も。サンジが笑いやんでゾロから離れるまでずっと。

サンジはなかなか笑いやまなかった。

 

夜、自室の暗がりでサンジは思い返す。
今日はいったい何度名前を呼ばれただろう?
いったいどれだけ笑っただろう?
暗がりにほんのりと明かりが灯るように、昼間の光景が温かさとともに胸の内によみがえる。
あの時、サンジは頭にゾロの小さな手がそっと触れるのを感じていた。恐る恐る、でも何かを確かめるように確かな意思を持って、その手はサンジの髪に触れていた。そうやって温かい掌に触れられるのは悪くなかった。初めてでもなかった。でもやっぱり何かが違うと思った。それでも。
そうだとしても、このマメゾロが触るのをやめるまでは、このままこうしててもいいんじゃねえかと思っていた。

 

ある日、どこからともなく表れた緑色のマメゾロには驚くほど心を揺さぶられる。

 

 

 

end