ひとつ傘の下

【下校】

 

学校から最寄り駅までは、ゆるい坂道を下ること15分。

サンジは放課後、校舎の2階にある図書室の窓際の席に座る。読書家でも勉強家でもないサンジが図書室へ行くのを不思議がる友達も多いが、なんと言ったって司書の先生はとてつもない美女だ。レディ大好きのサンジとしては同じ部屋で同じ空気を吸えるだけで幸せだ。幸せな空気を肺いっぱいに吸い込み窓からの景色を眺める。

その席からは昇降口から校門へと続くあたりがよく見えた。三々五々、生徒達が下校していく。見るともなしに見ているとぽつりと窓ガラスに水滴がかかった。雨が降り出したのだ。そういえば、大気が不安定なので夕方は雨が降りやすいと天気予報で言っていた。雨に追い立てられるように急いて走って校門を出て行く者、折りたたみ傘を広げて帰る者、だいぶ数少なくなった生徒の下校の様子はさまざまだ。サンジは置き傘があるので雨が降っても慌てずに眼下の景色を楽しむ余裕がある。
雨足が少しだけ強まる。昇降口に緑色が見える。

 ―― あー緑。緑は疲れた目に優しい色だから、ついうっかり見ちまうんだよなー。

サンジは思う。
緑色は空模様を推し量るように上空を見上げる。雨雲は空を流れていくが止む気配はない。緑色はそのまま外に踏み出した。サンジは席を立った。

「また明日ね、ロビンちゃん」
司書の先生に声をかけ図書室を飛び出る。2段抜かしで階段を駆け下り、1秒で靴を履き替え、傘をひっつかんで走り出す。

「おい!」
校門を出るかでないかの所で緑色の背中に蹴りを入れて呼び止める。緑色はつんのめったが転ばなかった。
「何しやが……」
振り向きざまに言おうとする緑色のセリフにかぶせるようにサンジが口を開く。
「てめぇ、今、帰りか?」
虚をつかれて一瞬、緑色が黙ったところに言う。
「おれも今帰るところだ。一緒に駅まで行こうぜ」
そして緑色の返事も聞かずに歩き出す。下校となれば否が応でも駅へは行かなければならないのだ。そして緑色はイヤではないようだった。大人しくサンジの横に並ぶ。

雨は降っている。サンジはまさに今、気付いたとでもいうように隣を歩く男に言う。

「傘、ねえの?」
「ねえ」
答えはシンプルだった。
「なんでだよ。そん中、入ってんじゃねえの?」
サンジは、男が担いでいる竹刀袋を指さした。
「アレは晴れた日用だ」
「この際、それでもいいんじゃね?」
「日傘が濡れちまうだろうが」
「てめぇが濡れるよりマシだろが」
「バカ言え」
男は偉そうに言った。
「アレは、オマエ専用の傘だから粗末に扱えねえ」
「アホか!」

聞いた瞬間、サンジは反射的に叫んで緑色を蹴り飛ばした。
「何しやが…」
「クッッソふざけたこと言ってんじゃねえ!」
またしても緑は最後まで言えなかった。サンジの頬が赤いのは、怒りのせいだ。

「だったらなあ、テメエの傘をさすか、さもなくばオレの傘に入るかどっちか選べ!」
サンジは自分の傘をぐいと突き出した。何が「だったら」なのかサッパリ分からないが、有無を言わせぬ気迫がある。余計な事は一切聞きたくないというオーラをまとってサンジは続けた。
「いいか?このままだとテメエは間違いなく立派なマリモになる。そして、このままだと間違いなくオレが悪者になる」
「なんでだよ」
「考えてもみろ。テメエが傘無しで濡れてる隣でおれは傘があって濡れない」
「ああ」
「他人がこの光景をみたらどう思う?」
「知らねえよ」
「『友達甲斐のないヤツ』『少しくらい入れてあげればいいのに』『一人だけ傘使って利己的』って思うだろうが」
「そうか?」
「そうなんだよ!てめぇはおれが不親切、意地悪って思われてもいいのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、つべこべ言わずにどっちか選べ!」
決断の早い緑色の男は即座に選んだ。答える代わりにサンジの傘の下にひょいと頭を入れる。
「世話になる」
緑の男がそう言うのにサンジ答えず横を向いた。
不承不承いやいやながら致し方なく傘に入れました、といった体だ。
それなのにサンジは相手が少しでも濡れないようにと緑色に気付かれないようにちょっとずつ相手方に傘を差し掛ける。傘を持っていない側の自分の肩が傘の庇護から外れて濡れてしまうのもいとわずに。

「おまえ」
緑の男が口をひらく。
「傘、ちゃんと持てよ」
「持ってるじゃねえか」
「片寄りすぎだろ」
「文句あんのか」
「もっとそっちへ傾けないとおまえが濡れる」
緑色はそう言って傘の手元部分を向こう側へと押しやった。自然、手元を握っているサンジの手を包むような形になる。重なった手の感触が熱い。

サンジは文句を言おうとして、言葉が続かなかった。うっかり緑を見た途端に目が合ってしまったからだ。傘の下、そこだけ外界と切り離された正八角形の狭い空間。見慣れた通学路の景色が急に輪郭を失い遠ざかる。視線をそらすタイミングを逃した。傘にはねかえる雨の音だけが耳に付く。

「……濡れてる」
緑が空いている手でサンジの濡れた方の肩を引き寄せた。その拍子に横並びだった二人の位置が向き合う形となった。

―― 振り払え。蹴り飛ばせ。今すぐ。殴り飛ばしたっていい。

サンジの頭の中では次の行動の指令が下る。それなのに身体は魅入られたように動かない。いつもはあれ程回る舌さえ動かない。本心を隠すのに実に頼りになる空言の数々が、頭など使わなくても勝手に出てくる戯れ言の数々がひとつも出てこない。見上げることも見下ろすこともない同じ高さのただ真っ直ぐな視線がサンジを捉えて放さない。濡れた制服のシャツの肩、かばうように置かれた大きな手の触れている部分だけが痺れたように熱い。全ての動きがあり得ないほどゆっくりと目に映る。片手で傘を、もう片方の手でサンジの肩を支えたまま音もなく緑が動いた。ひどく真剣な面差しがまるで吸い寄せられるかのように近づく気配をサンジは瞬きもできずに見つめた。唇が触れあう直前のごくわずかのためらいの間。
耐えられなくてサンジは思わず目を閉じる。

 

「おーい、サンジ―!」
「うっわあああああ!!」

 背後からいきなり声をかけられて、驚きのあまり傘を放り投げサンジは飛び上がった。反射的に緑を蹴り飛ばす。心臓が口から飛び出しそうだ。

「何してんだ、おまえら?」
隣のクラスのルフィが坂を駆け下ってきたところだった。
「いやいやいやいや、何でもない。何もしてない」
サンジは顔の前でバタバタと手を振った。緑がむくりと起き上り黙ったまま転がった傘を拾い上げ、律儀にサンジに差し掛ける。

「そっかー。おれはまた、おまえらがチューでもしてんのかと思った」
「ななな何言ってやがんだ、してねえよ!」
サンジは叫んだ。
本当ならば、正しい答え方は「しねえよ!」であるが、動転しているサンジはそこまで頭が回らなかった。そしてルフィは頭は回らないが核心だけは突く男であった。

「『してねえよ!』ってことは、これからするんだな!」
「しねえ!」
「そうなのか?すればいーじゃねーか」

あっけらかんとした様子でとんでもない事を口にするルフィにサンジが言葉を失っていると、それまで沈黙を保って二人のやり取りを聞いていた男が口を開いた。

「……おまえがいたら出来ない」
「それもそうだなー。」
ルフィはあっさりと引き下がった。その挙句、
「おっと、おれ今日は早く家に帰んなくちゃならねんだ。じゃ、またな!」
そう言い捨てると現れた時と同じ唐突さで坂を下っていってしまった。 

「いったい何なんだよ……」
サンジはルフィの後姿を茫然とながめ、陽気な後姿が見えなくなってから大きなため息をついてその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆う。
いまだに心臓は収まる気配もなくドキドキしている。このドキドキが安堵によるものか、期待していたのに未遂に終わった出来事のせいなのか自分でもよく分からない。

細かな雨粒が丸まった背中に降りかかる。高ぶった気持ちをなだめるような少しだけひんやりとした感覚が心地よい。

「仕方ねえよ。ありゃあ、ああいうヤツだ」
立っていた男も傍らに身をかがめた。サンジを雨から守るように傘の屋根が低くなる。

「まあな」
相槌とともにサンジはゆっくりと顔を上げた。
少し困ったようないつもの同級生の顔がそこにあった。つむじ風のようなルフィの行動は張りつめていた空気を消し去ってしまった。目が合っても今は平気だ。顔を見合わせ二人して思わず笑う。同じことで笑い合えるのは悪くなかった。

それでも。

―― 期待した。緊張した。覚悟した。
ルフィが現れなかったら、きっとあのまま……。それを思うと残念な気持ちがする。

だから、大事な秘密を分け合う小学生のように二人でしゃがみ込んだまま、ひとしきり笑ったあとの気軽さでサンジは言ってみた。

「なあ、ルフィ、いなくなったけど?」
同じことで笑えて、同じことを考えていたのなら多分通じるだろう。通じなかったらまた当分図書室通いをして偶然を装って一緒に下校するように画策しなければならない。

緑は一瞬サンジを見た。それから、その手を傘ではなく、もっと自分が支えるべきものに使おうと思ったようだった。両手を空けるべく傘のシャフトを肩と頬で挟むように抑える。そのせいで傘の陰が深くなった。外からの視線が遮断される。

ひとつ傘の下、しゃがみ込んだ影はしばらくそのまま動かなかった。

  

 

end