dive

 

 海に飛び込む。

 そのあまりの躊躇いのなさに自分とは違う生き物だと思い知る。

 息を止める、着水の衝撃に備える、そんな些細なことであったとしても、人間だったら誰しも何らかの覚悟あるいはカクゴめいた緊張をする。
勇気
だとか気合だとか潔さだとかで片付く問題じゃない。それは純粋に陸上生物の本能レベルの問題だ。もって数分。あの中じゃ生きられない。海ってのは、結局のところアッチ側なのだ。

 それなのに、陸の続きでもあるかのように、平然と飛び込みやがる男を一人だけ知っている。こちらもあちらも無く、むしろ、あちらこそが自分の還る場所とでもいうかのように。

 

***

 

 コックとのいざこざなんて珍しくもないが、その時はいつもと違っていた。距離を保つため、適切な間合いを測るための争いではなかった。距離を無くすためにおれはコックの間合いに切り込んだ。コックは拒絶した。あろうことか海へと逃げ込んだ。ふざけんな。逃がさねえ。おれは海に飛びこんだコックを追って、暗い水の中へ入った。ここでとり逃したらコックは手に入れられない、そう思ったから無我夢中だった。ヤツは逃げるつもりだったはずだ、半分は。残りの半分は、おれの本気具合を確かめたかったのかもしれない。分からないし、逃すつもりはなかったからどうでもいいことだ。


 夜の海を泳ぎ回り、追いかけまわし、漸く手の中に捕まえた。
 捕まえた、と思う。自分の手に掴んだコックが、それが自分にとって都合のよすぎる夢なんかじゃないと確かめたくて抱きしめる。口づける。

 それから。

 さらに確かめるために海から引き揚げる。

***


 海水をたっぷり吸った濡れた服の身体で二人、もつれあいながら甲板に倒れ込んだ。足元の定まらない水中から上がってくると、踏みしめることのできる木でできた硬い足場にひどく安心感を覚える。身体が重い。いつもは意識したことさえない重力を感じる。海の中では相手に分があるが、空気の底、船上では同格だ。海中で暴れた名残か口づけの余韻か、上がり切った息のまま身をおこそうとした相手にその隙を与えず、身体を抱えひきずり倒した。
 甲板に鈍い音が響く。仰向けに転がったコックの身体の輪郭に沿って、濡れた服から滴る海水が、あっという間に水たまりをつくる。
 さっきまで鬱陶しく曇った夜空だったのが、風が出てきて雲が散り始め、遅い月が顔を出し周囲を照らしはじめる。おれを見上げるコックの白い顔。それから、今は妙に黒ずんでみえる髪が濡れてうねってその頬と額に幾筋か張り付いている。
 顔をよく見たいと思う。邪魔な髪を指で払う。思いがけず慎重な手つきになって我ながら驚いた。そんな風に触れるのは初めてで、コックが慄くかのように目を見張る。
 間近で見る瞳。 
誰も持ち得ない色合いの目が、今何を映しているのか確かめたくて覗きこむ。
 コックの髪の間から弱々しく青くちかりと光るものがある。夜光虫。こんなところにも海。海に侵されている。優しく触れたいと思った気持ちが急激に遠のいて、どこか嫉妬めいた凶暴な気持ちが忌々しく湧き上がる。

 身体に乗り上げて押さえつけ唇をこじ開けて舌を絡めた。
 無反応だったのは一瞬で、応えるようにというよりもむしろ挑むかのように動き回る舌を追いかければキリがなかった。何時の間にか俺の身体に回されたコックの長い腕、その腕の先についている掌が、まるで離れるのを嫌がるかのようにおれの頭を摑まえるから口内の浸食は深まっていく。

 触れたい場所は至る所にあって、とりあえず肌に張り付いたシャツをズボンから引き出してその隙間から手を入れた。なめらかな感触。腰の辺りから襟元へと身体のラインをたどって手を這わす。海に浸かったせいでどこかひんやりとした皮膚、その下に潜む熱い血の巡る肉体。手探りで腹筋、肋骨をなぞり胸の突起にたどり着く。そこだけがほかとは違う感触を味わうように撫で付けてみれば、てのひらの下の身体がわなないた。
 コックが身動ぎしたはずみで一旦終わってしまったキスに口さみしくなり、物足りなさを埋め合わせるように喉元に食らいつく。
 くぐもった声が頭上から聞こえる。抗議かもしれない。今さら聞き入れる気はない。
 首筋をなめ上げれば潮の味がする。さっきの海の名残だ。その身に纏う海が気に入らない。衝動的にコックのシャツの前を開く。湿った音をたてて布切れがいびつに裂ける。まだ濡れている肌が夜目にも白く浮かび上がる。呼吸に合わせて上下する胸板。その表面に残るものを一滴たりとも残さぬように舐めとることにする。
 首元から鎖骨、肩先を噛んで胸元へ戻り、等しく並ぶ肋骨の骨の形に添って舌を這わせて、平らな腹部の真ん中、整った形のへその窪みへ。
 ベルトをはずし穿いているものを剥ぎ取り、普段は人目にさらさない部分までさらけ出させた。唇や舌や手が触れるごとに発せられる喘ぐようなうわごとのような言葉にならない声音を、どこか上の空で聞きながら、舐めて舐めて舐めて舐めつくす。

 そうしてようやく潮の名残もなくなるほどになったのに、この男の身体から温かく滲む体液は海の水と同じ味がして。

 チクショウ、海で出来てやがんのか、この男は。底が知れない、飲みつくせない。溺れるしかない。

 目もくらみそうな焦りと苛立ちと恐ろしいほどの渇望が一緒くたになった欲望に急かされるまま手を伸ばし、背骨の終わりから始まる入口の奥を探る。
 硬い身体の内側にひそむ驚くべき軟らかさ。指先に伝わる温度のあり得ないほどの熱さ。誰も知らないこの男の隠された中身を全て突きとめたくて、暴きたくて、執拗にまさぐって、そして強引に潜り込んだ。

 思い知らせてやりたかった。
 おれの抱く欲求も欲望も思いも全部。
 分からせたかった。
 言葉なんて形には到底できそうにない感情をありったけ全て、この男の中に流し込みたかった。流し込んだら、この男にさえ分からせることができるんじゃねえかと、そんな馬鹿げたことを考えるほど余裕がなかった。

 この男が蹴り飛ばしもせずに、おれの行為を受け止めている。
 ただそれだけに縋って、繋げた部分から少しでも奥へと分け入っていく。

 そんなおれの焦燥をなだめるかのように、長くしなやかな腕と足がおれにからみついた。拒まれていない、抗われてもいない。嬉しいはずなのに満ち足りた気分には遠く、ただどうしようもなく焦りが募るばかりだ。

 海に飛び込む覚悟をどれほどしていても、たとえ一緒に潜ったとしても、どうやったって溺れるのはおれだけなのだと。

 そうして、果てた先で、おれの名前を呼ぶ遠い声を聞き、自分が沈んだ海の深さを知った。

 

 

 

 

end

 

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余裕のないゾロ

【dive】
1. 飛び込む、潜る   2. 潜り込む   3. 潜水する、急降下する 
4.
手を突っ込む、探る 5. 没頭する、打ち込む