fulfill

その日の不寝番はおれだった。

招かれざる客や思いがけない漂流物を警戒するため暗い夜の海を見張りながらも、朝までの数時間を展望室に備え付けられている器具を使った鍛錬に費やすのが、不寝番でのおれの習慣だった。
いざというときに夜目がきかないのは致命的だから、明かりをつけるようなことはしない。窓から差し込む月の光だけを頼りに、数を数えながら錘のついた器具を一心に振るう。暗い中、誰にも邪魔されず、たった一人で体を動かすことが出来るこの時間が、身体を鍛えるのには最も集中できた。

サニーは寝静まっていた。
自分で決めた一連のトレーニングを終えたところで一息ついていると、ひっそりとした気配が梯子の辺りに潜んでいるのに気がついた。これはコックだ。見ずとも分かる。普段は騒々しいくせに、こういう風に一人でいるときの気配は意外なほど密やかで、誰とも違う気配だからすぐに分かる。
それにしてもこんな時間に何があったのかと怪訝に思っているうちに、靴音を小さく響かせて、ヤツは展望室へ現れた。微かな月明かりを反射してか、暗い部屋でもヤツの髪と顔の部分は妙に白く明るく浮かびあがって見える。ポケットにつっこんで隠れているが、本当だったら手も白く見えたことだろう。それにしても、手のありかがポケットの中ということは、手ぶらだということだ。確かに食器の音も食べ物のにおいもしない。差し入れ以外でおれのところに現れるのは珍しい。

「なんか用か」
こんな時間にこんなところまで来たくせに、全く口を開こうとしないコックに、おれは声をかけた。朝から晩まで忙しなく立ち働いているコックは、いつもなら今頃はボンクで眠っているはずの時刻だ。おれが気にすることじゃねぇが、明日の朝も早いだろうに、大丈夫なのだろうか。

「寝れねぇンだ」
平坦な声音でそっけない返答があった。
予想外の返答に、 おれは密かに動揺した。今日、おれが見張り番なのをコックが知らないはずはない。それなのにどうしてここに来るんだ。
眠れないのであれば、とりあえず甲板で煙草でも吸っていればいい。夜の波音に耳を傾けながら。あるいはバーで飲むのでもいい。薄暗いアクアリウムの青い水槽を眺めながら。キッチンで食器を磨くでも、おれには見当のつかない下ごしらえでも何でもすればいい。さもなくば、本を読むでも。眠れない夜の時間のつぶし方なぞいくらでもある。けれど、ここへ来る理由は何一つないはずだ。

「寝れねぇ」
コックはもう一度言って、こちらへ一歩を踏み出した。カツンという乾いた靴音が妙に部屋に反響して聞こえた。コックが近付く気配に、じり、とおれは一歩後ずさった。

―― 何しにきた。帰れ。一晩くらい寝なくてもどうってこたァねぇ。ふざけんな。

コックを遠ざける言葉が頭の中に渦巻いた。この男がふざけた態度だったら、いつものようなつっかかる様子だったら、けんか腰の口調だったら、いくらでも言えたはずなのに。その声に何か感情がのっていれば対応の仕様もあったのに。
読めない状況に、柄にもなく焦りがつのる。

何がしたいのか分からないコックに、何を言えばいいのか分からずに、気圧されるようにじり、ともう一歩下がりかけて踏みとどまった。コック相手に逃げるわけにはいかない。床を踏みしめて深く呼吸をした。

「寝れねぇなんて、ガキみたいなこと言ってんじゃねぇよ」
自分が思っている以上に、おれは狼狽えていたらしい。口をついて出た言葉は、相手を探るにも撥ね付けるにも役にたちそうにない無意味なもので、自分の対応のあまりの拙さに歯噛みしたくなった。

「腹でも空いてんじゃねぇのか」
やけっぱちで付け足した言葉は単なる戯れ事で、コックが、いつもみたいにおれの言葉に噛み付いてくれりゃいいという打算もあった。もっとも、コックの様子から、そんなことは期待できそうにないということは、気付き始めていた。
おれの言葉にコックは足を止めた。
しばらくの間、おれの言ったことを考えているような沈黙が訪れる。

「ああ、そうかもな」
コックの返事はまたしてもおれの予想を裏切った。

―― てめぇはコックだろうが。腹が減ってンなら勝手に食え。

反射的に喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
この時間、この場所へ来たということは、おれに用があったと言っているのに等しい。

『寝れねぇンだ』
その単純な言葉の裏にひそむ意味合いに気付かないふりをしていたのも限界だった。何を言ったところで、ことを先延ばしにするだけの悪あがきでしかないことが自分でも分かっていた。斥ける選択肢は最早なかった。

いつの間にか、おれの間合いに入り込んでいたコックが手を伸ばす。ヤツの白い指先がおれの頬に触れた。瞬きもせず真っ直ぐにおれに向けられた視線を真正面から受け止める。腹をくくる。おれは、何も持ってない。己自身以外何もない。コックのように与えるべき何かを持っていない。それでもコックがおれに何かを求めるのであれば、おれが拒めるはずもない。

「満たしてくれよ」

聞こえた低い声に、目の前の身体を引き寄せて抱きしめてくちびるを重ねた。

空腹を、ヤツの中の空白を、満たすことができるのなら、いくらでもくれてやる。

end