されど船は進む

 好きなものを好きと言えるのは幸せだ。

 女の子は大好きだ。だから誰はばかることもなく好きだ、と言える。いくら言っても言い足りない。言わずにはいられない。言っても全く恥ずかしくない。当たり前のことだからだ。自分の気持ちに素直に従うことは無理がなく心地よくて幸せだ。

 けれど。

 あれを好きだ、と口に出して言えないものもある。

ロロノア・ゾロ。緑色のマリモ剣士。

 サンジが大事にしていた魚の形をしたレストランにある日現れた男は、自分の夢のためだけに明らかに力量に差のある戦いを挑んでその胸に袈裟懸けの大傷を負い、そして生き残った。傍らで見ていたサンジの胸も大きくえぐって。

 全治二年と診断されたゾロの胸の傷は、それからずいぶん長い間ぐずぐずと血をにじませていたけれど、やがて縫合のあとに新しい皮膚が再生し、いつしか乾いた傷跡となった。

サンジの胸はあれからずっとじくじくと鈍い痛みを放っている。激しく痛むわけではない。目にも痛々しい傷痕が生じたわけでもない。けれど、かすかに確かに治ることのない痛みだけがいつまでも胸の奥に残っている。

 その痛みが何であるかということにサンジは割と早い段階で気が付いた。

 恋情。出口のない。 

 それを自覚できる程度には、誰かを慕い想いをためたことがあった。人を好きになるときは理屈ではないこともわかっていた。どうしても囚われる。引き寄せられる。そういう気持ちだ。自分では制御できない。
 この感情が消せないのも知っていた。いつしか消え去ることはあったとしても。ただひたすら消えるのを待つしかないのだ。時間がかかる。

 船上生活が長いサンジは幼い頃から「船内が調和を失った時は帆の調和も乱れる」と言い聞かされて育った。クルーの和こそが航海の要なのだと。
 だから狭い船の中、仲間同士の和を乱す恐れのあるそんな恋愛感情は隠し通そうと自分の気持ちを自覚したときから決めていた。
仲間の夢をのせたこの船が好きだったからだ。自分の夢も乗っている。下りる気はない。
悟られるわけには、いかない。

 船が進む。

 サンジは自分自身の行動を制御して、気持ちを巧みに偽っている。
 自分より年下の気のいい連中は気づかない。
 この船では年長者である自分と唯一同じ年齢の男には気づかせない。

 広くはない船での共同生活だから、どうしたって係わらないわけにはいかない。少し気をぬくと知らず目で追ってしまうこともある。

だからそんなときは。

 目が離せないということは、不思議な生態の生物に対する純粋な好奇心だとうそぶく。
 喧嘩をふっかけるのは相手が気に食わないからだと自分に言い聞かせる。構ってほしいから、ちょっかいを出したいから、などでは決してなく。
世界一への目標にむかって鍛錬を欠かさないひたむきな姿をみてすげえ奴だという称賛の代わりに「鍛錬バカ」と言い、甲板で無防備に昼寝している意外と幼い寝顔をみてほほえましいという思いが沸けば「クソ」と舌打ちする。
サンジの作った食事をほお袋いっぱいに咀嚼している姿を見て、幸せな気持ちになる時は「チクショウ」と悪態をつく。

 偽ることは日常となった。
 胸の痛みは治まらない。

 気持ちを偽れば偽るほど、出口を見つけられない思いが膿んだように身体を侵食し、痛みが深くなってゆく。
それさえも気のせいだとやりすごす。
 慣れたものだ。慣れなくては。
 夢への旅は先が長い。

 知られてはならない。誰にも。とりわけ本人には。

 船は日々冒険を繰り返し前へ前へと進んでいく。 

 底抜けの度量と度胸を持つ冒険好きの船長が率いる羊頭のこの船は、なにもかもが極端で激しい。楽しさも困難も日常でさえも。もっとも困難や苦労は楽しみと裏腹なので、サンジは辛いと思ったことはないのだが。

 船長をとりまく一切があまりにも激しくてまぶしくて顕わで、だからこそ毎日が底抜けに明るくて楽しい。

 ありとあらゆることが太陽のような船長の日のもとにさらされ、明らかにされて秘密なんてない。喜びも楽しみも悲しみも苦しみも全てを皆で分かち合う。
 そんな船だ。

そんな船で秘密を抱えることになるなんて。
 隠し事をすることになるなんて。

 ばかみてえだなあ。
 サンジは思う。

 こんな思い、海に溶けちまえばいいのに。
 あるいは、空へと立ち上って霧散してしまえばいいのに。この煙草の煙のように。
 ぷかりと煙が宙にうかぶ。