春暁

宴が本格的に始まる前、芝生甲板で寛いでいたナミの元へ食前酒としてカクテルが届けられた。

 「『シュンギョウ』です」

 使う言葉が大げさすぎて嘘っぽくさえ聞こえるナミに対する美辞麗句(それが本心からなのは、今はもう分かっているけれど)をひとしきり並べ立て、最後にカクテルの名を告げると料理人は宴の準備に戻ってしまった。これ以上の時間キッチンを離れたら、宴が始まる前にご馳走がなくなってしまうことがこの船ではありうることをよく分かっているからだろう。そのせいでいつもは聞くカクテルの中身や謂われを聞きそびれてしまった。 

ゆるやかな丸いカーブを描くグラスに満たされた淡い緑色の液体の中に、薄紅色の花が浮かんでいる。八重の桜。飲む前にナミはグラスをかざして繊細でうつくしい色合いを楽しんだ。 

――さすがサンジくん。 

祝い事に相応しい上品で雅な風情のあるカクテル。

 ふと見ると、寝ているとばかり思っていた緑色の髪の男が、同じ様なグラスに口をつけているところだった。 

「へー。意外!あんたがそんな可愛らしいもの、文句も言わずに飲むなんて」
「仕方ねえだろ。コックが置いてったんだから」

ゾロの大きな手にかかるとグラスは小さく見える。あと一口呷ればなくなってしまうだろう。

ナミが見ている目の前で、ゾロはグラスの中の花を指でつまんで口の中に放り込むと、もしゃもしゃと咀嚼した。ナミは思わず吹き出した。

「花を食べるあんたって……!」
「コックが出したものは食う」
「あら。なんか惚気にも聞こえるわね」
「何言ってんだ」

ゾロが呆れたように眉をあげた。機嫌は損ねていない。泰然とした様子の男を見ていたら、不意打ちの質問をしたくなった。動じない男が虚をつかれる様子が見たかったのだと思う。

「両想いってどんな気持ち?」
ナミは尋ねた。
前後の脈絡なんてまるでない。ふと思い立ち、聞きたいから聞いた。それだけだ。
目の前の可愛げのない男は、驚くことさえしなかった。

「そんなもん、知らねえ」

照れたり、慌てたりなんてこと、してくれたら面白いだろうと思っていたが、流石にないだろうとも思っていた。むしろ「さあな」とはぐらかされることを想定していた。あるいは「まあな」とふてぶてしく肯定されることを想定していた。けれど、知らないとは。

「知ってるくせに。絶賛両想い中なくせに、あんた何言ってんの、バチが当たるわよ」
ナミはまくしたてた。

この男は本当に腹が立つ。サンジくんが甘やかしすぎているせいだろうか。いや、それもあるけれどもともとが図太いのだ。図太い男をサンジくんが増長させたのだ。

「だって、あんたサンジ君のこと好きでしょう?」
「ああ」
「サンジ君だってあんたのことは好きだって知ってるんでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ、両想いでしょ」
「そうなのか?」
「まったく何なのかしら、あんたたち!」
「あんたたち?」
「まえに、サンジくんに同じ質問をしたことがあるの。そしたらおんなじ答えが返ってきたわ」
「はははっ」
可笑しそうにゾロは笑った。2年前に比べて格段にオトナっぽくなり風格めいたものまで漂わせるようになった男だが、そうやって笑うと不思議に幼く見える。
今は遠いイーストブルーの片隅で、仲間になったばかりの頃のまだ少年ぽさを残した面影が蘇る。面影は蘇るけれど、あの頃とは違う顔で笑う。今の方がやわらかく笑う。前に進むためには、立ちふさがるものを全て斬り捨てる覚悟をもった男なのに。命がけの修羅場をくぐってここまで来ているのに。

ーー いつの間に、こんな笑い方が出来るようになったのだろう。

あの頃は向こう見ずで無鉄砲で、強く願えば何でも出来ると思っていた。守りたいものはあったのに守れるだけの力がなくて、大事なものを守るためには自分を犠牲にするしか方法はないと思っていた。残される人の気持ちを考えてなかったから、怖いものなどなにもなかった。人を好きになることも知らなくて、大切にしてもらえることの心地よさも知らなかった。

今は違う。
この男もたぶん。 

「よく分かんないわねー、あんたたち」
「いつもは分かり易いって言ってんじゃねえか」
「あー、そうよ。すっごく分かり易いわよ。お互いがお互いをものすごく好きだってことがね!」
ナミはぐいっと盃を傾けた。口中にふわりと広がる桜の香り、優しげなフレーバーとは裏腹に辛口の飲み口。好みのテイストだ。サンジくんに言ってもう一杯もらおう。

「なに急に怒ってんだよ。せっかくの酒が不味くなるぞ」
「あんたが小憎らしいのが悪いんでしょ」
「おれのせいかよ」
「悪いのはぜんぶあんたのせいって決まってるじゃない。だからサンジくんのところへ行っておかわり貰ってきて」
「ったく、人づかいの荒いヤツだな」

文句を言いながらゾロは渋々といった様子で立ち上がった。
ナミの目にはいそいそと立ち上がったように見えた。 

―― ホント、分かり易いったら。でも、ま、いいか。

 

グラスの中、八重桜の花びらが笑むようにはらりと綻んだ。

 

 

end