『深夜、2時。』

 
    
深夜、2時。
唐突に、目が覚めた。

理由は、雨と風の音が凄かったからだ。
いや、それだけじゃない。
それだけなら、目など覚めない。普段なら。
おそらく、今夜はいつもより少し、酒の量が少なかった。
そして、他人の気配が在ったからだ。

6畳一間の安アパート。
酔い潰れた悪友たちが、男も女も関係なく、折り重なるようにして雑魚寝している。
『今夜は大きな台風が来るらしいから、みんなで集まってゾロんちで飲もう』とかいう話になったんだそうだ。家主のオレに、なんの断りもなく。
次第に強くなる雨風を窓越しに眺めながら、今夜はバイトを入れていなくて良かった、と思っていたら、いきなりコイツらがドカドカと押し掛けてきた。
オレがバイトだったらどうする気だったんだ、と聞いたら、そんときはそんときだ、と返された。
いつものことながら、行き当たりばったりな連中だ。

さんざん食って、さんざん飲んで、さんざん騒いで。
仕事から帰ってきたらしき隣室のオッサンから『うるせェぞ!』と怒鳴られて、すんません、と謝ったけど謝っただけで。
そのうちに、ひとり、ふたりと潰れていって、オレも途中から記憶がない。
潰れるほど飲んだ記憶はないから、単に寝落ちしたんだろう。

ぐうぐうと、暢気な寝息が聞こえてくる。
大きな鼾は、誰のものだろう。
強い風が、ガタガタとボロアパートの窓枠を揺らす。
吹き付けてくる雨の音に誘われるように、ゆっくりと目を開ければ。
視界に入ってきたのは、ぼんやりとした蜂蜜色。

(――…ああ)

暗闇に慣れ始めた目が、朧気な輪郭を捉える。
白い頬、閉じた目蓋を縁取る金色の睫毛、紅い唇。
端正な顔立ちを和らげるような、くるりと巻いた眉。
普段は とにかく口煩くて騒がしい男だが、こうして寝ていて口もきかねェと、人形みてェだ、と思う。

コイツは、いつの間にか仲間の中に居た。
最初から、つるんでいたワケじゃねェ。
大学に入学してから暫くの間、ひとり、ふたりと仲間が増えていく中で。
いつからコイツが オレたちとつるみ始めたのか、そのあたりの記憶は曖昧だ。
ただ、なんとなく、いつのまにか。
この男には、そんな言葉が似合う。

女には美辞麗句、男には罵詈雑言。
その両方が嘘臭く、本心なんか見えやしねェ。
チンピラまがいに顔を歪めてヒトを罵ったかと思えば、次の瞬間 ガキみてェな表情をして笑う。
短気で喧嘩っぱやいくせに、驚くほど思慮深くてクレバーな面もある。
オレとは反りが合わねェから、顔を見りゃ舌打ち、会話は喧嘩、罵り合いに小突き合いが当たり前の仲だけど。
でも、互いに、なんとなく分かっている。
友情、なんて気安くはない。
信頼、なんて嘘臭い。
うっすらと、曖昧な。
言葉に出来ねェような、曖昧な感情。

ごう、と 風が唸りをあげ、雨粒がバシバシと窓ガラスを叩く。
安アパートが みしりと揺れて、こりゃ ちっとヤベェんじゃねェか、外に停めっぱなしのチャリは無事だろうか、などと思う。
かと言って、外を見に行くのも面倒で。
ただ、なんとなく。
目の前の白い顔を眺めていると、
――不意に。

ぱちり。

そんな擬音など聞こえるはずもないのに、確かに聞こえた気がした。
突如 暗がりに現れた、澄んだブルー。
普段、明るい場所で見慣れているはずの それは、いつもより数段 濃い蒼で。
得体の知れない深い色合いに、思わず小さく息を呑む。

「…」

意識のはっきりしない表情をして、蒼い瞳がオレを捉える。
紅い唇が微かに開いて、言葉もないまま また閉じる。
何故だろう、其処には確かに、声すらなかったのに。
直接的な言葉を告げられるより、ずっと深くオレの胸を刺した。

ザアア、と 雨風が吹き付けていく。
暴風を受けて、ぎし、と 部屋が大きく軋む。
人形のように無表情な、どこまでも深い蒼。

触れた時間は、ごく僅かだった。

少しカサついた、薄い唇。
温かさを感じる間もないほど一瞬だったはずなのに、吐いた息が発火しそうに熱い。
気怠く開いた蒼い瞳には、感情もなにも見えないのに。
一体、自分が。
どういうつもりなのかも、解らないのに…――

小さく開いた、紅い唇。
引き寄せられるように、もう一度 唇で触れる。
柔らかな其処に、ただ押し付けて離す。
目の前の男は、身動ぎもしない。
表情ひとつ、変えない。
ただ黙って、物憂げにオレを見つめるだけ。
たぶん、オレもそう。
きっと、顔色ひとつ変わっちゃいない。
だって、どういう表情をすればいいのかわからない。

確かなことなんざ、なにもない。

ギシ、と大きく建物が軋む。
その音に驚いたように、蒼い瞳が微かに見開く。
オレのキスには、顔色ひとつ変えなかったくせに。
ちょっと悔しい気持ちになって、些か乱暴に唇を重ねる。

「…、っ」

喉の奥で、微かに息を呑み込む音。
薄く開いた唇の隙間から、一気に舌を押し込む。
温かく濡れた、この男の内側。
柔らかな舌を舌で探れば、拒みもせず応えてくる。

雨粒が、バラバラと窓ガラスを叩く。
吹き付けてくる風が、ミシミシと窓枠を揺らす。
暴れ狂う台風が、これでもかと力を誇示してみせる派手な物音。
そんなものに比べたら…――、
よほど、些細で、微かな音でしかないのに。

ひっそりとした、淫靡な湿った水音。
思いのほか大きく耳に響いて、誰かに気付かれやしねェかとヒヤヒヤする。
行き過ぎる台風の物音の中、暢気に寝息を立てている仲間たちの姿。
オレの背後で寝ているはずの女から、微かな気配を感じるのは気のせいか?
ひょっとして、起きているのか?
確かめたい、だが、
――…このキスを止めたくない。

抱き合うわけでもない。
手を握り合うわけでもない。
身体同士は距離を保ったまま、不自然に顔だけを近づけ、窮屈に唇を合わせる。
柔らかな舌を舌で探り、絡めて吸う。
微かな煙草の香り。
白い瞼を縁取る、金色の睫毛。
オレは、なにをしているんだ?
そんな疑問すら、どうでもよくなっていく。

――…その時。

「ん、ンっ」

不意に背後から聞こえてきた、女の小さな咳払い。
蒼い瞳が ハッ、と丸くなる。
白い瞼が、ゆっくりと瞬いて。
紅い唇が、ス、と離れていく。

「…、」

声を、かけることも出来ず。
ただ固まったままのオレの前で、細い身体が そっと寝返りをうつ。
目の前に横たわる、しなやかな背中と まるい金色の後ろ頭。
――…急に、雨の音が大きくなった気がした。

******

「いや~、晴れたな~!」
「本当!空が真っ青!」

それでも、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
仲間たちの声に目を覚まし、窓の方に目をやれば。
何人かが外へと身を乗り出して、真っ青な空を見上げている。

「お、ゾロ!起きたか!」
「…おう」
「いや~、昨日の台風はスゴかったなぁ!」
「帰ったら、アパートが吹き飛んじまってたらどうしよう!」
「そりゃ心配だな。早く帰れ」
「うわあ、冷てェ!」
「ゾロが冷てェ!」
「ちょっと男子、アンタたちも少しは片付けなさいよ!」
「ハ~イ」

女たちに叱られながら、野郎どももノロノロと片付けを始める。
オレも一緒に空き缶を集めながら、何気ない風を装いつつ、素早く周りを見回す。

(…、アイツは…)

「サンジくん、こっち燃えるゴミ?」
「ああぁ、ありがとう!いいんだよう、後片付けなんざ野郎共にやらせとけば~!」
「いいのいいの、みんなでやった方が早いでしょ。缶を濯ぐの、手伝うよ?」
「ああん、なぁんて優しいんだ!でも大丈夫、手が濡れちまうからオレがやるよ」
「じゃあ、サンジくんが濯いでくれた缶、私がビニール袋に入れるよ」
「そう?ありがとう、助かるよ」

小さな流し台の前に立つ、細い後ろ姿。
朝陽を受け、金色のアタマがキラキラ光って眩しい。
隣に立つ女と会話を交わす時だけ、チラチラと横顔が見える。
クソ、アイツこっち向かねェかな。
あの、深いブルーだとか。
紅い唇とか、物憂げな表情だとか。
あれは、全部、本物だった、って。
間違いなくテメエだった、って、確めてェのに…――

「あ、もう8時過ぎてんじゃん。やべェ、オレ1限あるんだ」
「あ~、オレもだよ。うあ~、めんどくせェ~」
「片付けも終わったし、んじゃ お開きにすっかあ」
「そうすっか~。ゾロ、ありがとな~」
「悪かったな、突然押し掛けて」
「イエ、ドウイタシマシテ」
「うわ、ゾロ棒読み」
「全然『どういたしまして』とか思ってねェヤツだ」
「早く帰れ」
「あはは、本音でた!」
「ありがとな、ゾロ!」
「おう」

苦笑しながら立ちあがり、ノロノロと身支度して玄関へと向かう仲間たちの姿を見送る。
ひとり、またひとり。
狭い玄関で押し合いながら、ヨロヨロと靴を履いて次々に外へ出ていく。

(、あ)

サラリと揺れる、金色の髪。
俯いた、白い項。
細くて長ェ足に、小洒落た靴を履いて。
振り返りもせず、仲間たちの待つ外へと足を踏み出していく。

「じゃあな~、ゾロ!」
「お邪魔しました~!」
「後で、また学食でな!」

飲んだくれて明けた朝の気怠さを纏いつつ、ぶんぶんと手を振りながら、皆が通りの向こうへと歩いていく。
適当に、それに手を挙げて応えながら。
仲間たちと笑いながら歩く、細くしなやかな背中から目が離せない。

アイツが、振り向かない理由。
照れくさくて、とか。
どんな表情をすればいいのか分からなくて、とか。
気恥ずかしくて、とか。
――…そうじゃない。
決して、そんなんじゃない。
むしろ、『理由』なんてもんすら何もないのかもしれない。

台風が行き過ぎた後の強い朝の陽射しを受けて、かったるそうに歩くアイツは、あまりにも普段通りで。
言うならば、まるで、なにもなかったかのような。
ゆうべのアイツと今 そこに居るアイツは、まったくの別人だったんじゃねェか、なんて。
そんな、馬鹿げたことを。
本気で思ってしまうほど…――

(…、クソ)

ざわり、と 台風の余韻を残した熱い風が、オレの身体を払っていく。
なにもかもが、曖昧なまま。
ただ強烈に、アイツはオレのココロを ゆらりと灼いた。

end.
(2019/01/25)