『21時のキャロル』

 

駅から直結のそのビルは、少し前までは周辺で一番高い建物だった。ここ数年で新しく背の高いビルがどんどん建ち、すっかり老舗ビルの様相を呈してきたものの、その分落ち着きがあって、大人に人気のスポットになっている。サンジのよく行くバーが、そのビルの最上階から2階下にある。1階のエレベーターホール手前にある喫煙エリアで煙草を揉み消し、サンジはエレベーターに乗った。できた当時は高層階まで早く着くと話題になったエレベーターも、今やロートルっぽい雰囲気を醸し出している。落ち着いた照明の箱がゆっくり滑らかに動くから、サンジはここのエレベーターが好きだ。最上階まで行ったとして何分もかかるわけではないから、煙草が我慢できないほどではないのだが、なんとなくいつも乗る前に1本吸うのが習慣になっている。
 目的の階で降りるとカレーの匂いがして、サンジは腹に手を遣った。エレベーターのすぐ傍にカレー屋があるのは卑怯だ。午後9時近くになって夕飯を食べていない腹には応える。

 散々な日だった。
 何日も前からディナーの約束をしていたナミに、定時で鞄を持って会社を出ようとしたまさにその瞬間に、キャンセルされた。もっとも、先に延期を申し出たのはサンジのほうだ。「友達が失恋しちゃって、泣いて電話が掛かってきたのよ」なんて言われたら、そんなの「行ってあげてよ」と言うに決まっているではないか。泣いている女の子(に違いない)はナミが傍にいると安心するだろうし、ナミは優しいからそんな友達を放っておけるわけがない。だから、恨むべきはその子を振った男だ。なんてことをしてくれたんだ、こんな日に。
 その後、同じ会社で1年後輩のウソップに会ったので「飲みに行かねェか」と誘ったが、これも断られた。ウソップとは何回か一緒に仕事をして気が合って、プライベートでも時々遊ぶ。サンジと同じく、独身の一人暮らしで彼女ナシ(だが最近、取引先の受付の女の子に一目惚れしたらしい)のため、今まで誘って断られたことはない。しかし今日は「母ちゃんが田舎から出て来てんだ」ということらしい。お詫びにと、ウソップやナミとよく行くバーのドリンク1杯無料のサービス券をくれた。恨むべきはウソップで、お母様は悪くない。
 仕方がないから独りで行くかと思ったところで、電話が鳴った。サンジは医療機器メーカーの営業で、新製品を売り込んでいた病院の外科医ローからの連絡だった。「今からなら話を聞いてやってもいい」と言うので、サンジは資料を抱えてすぐに行った。熱意を込めて丁寧に説明したし、ローからも細かい仕様についていろいろと質問があったが、反応は芳しいとは言えなかった。1年前に入れたという他社製品より、もちろん自信をもってすすめられる機能はあるが、まだ新しい他社製品を廃してまでかと言われると、厳しいかもしれない。これは今後どうなるかわからないし、ぜひ導入してくださいという意味で、ローは恨まないでおく。できれば、もっと早い時間に呼んでほしいものだが。

 そんなこんなで、サンジがバーの前に到着したときには、心身ともにくたびれていた。それなのに。
「えーっ! 休みかよ!」
 フロアはすべて飲食店で、ほかの店はいつもどおり開店しているようなのに、目的のバーだけが真っ暗で、扉が閉ざされている。黒地にトルコ石のような青で『CAROL』と書かれた看板も、今日は出ていない。なんかもう、じゃあどうしようと次を考える頭が働かない。扉の前で突っ立っていると、内側から扉が開いた。無人だと思い込んでいたから驚いて、サンジは咄嗟にできもしない空手の型っぽいポーズを取ってしまった。
「うおっ! お前、何やってんだ」
 出てきたのはこの店のバーテンダーのゾロだ。サンジの攻撃的なポーズに怯んでいる。サンジは慌てて型を解いた。
「え、いたの? なんで今日休み?」
「あー。オーナーの都合」
「そっかー。せっかくサービス券もらってきたけど、しょうがねェな」
 ひらひらとウソップにもらった緑色のチケットを振ってみせる。連動したように、サンジの腹がぐううと鳴った。ゾロが笑う。
「笑うなよー。腹減ってんだよー」
 単に腹が鳴ったのを笑っているわけではないとわかったけれども、サンジは間延びした声で言い訳をした。照れ隠しだ。

 サンジがCAROLに最初に来たのは、ウソップと一緒だった。ウソップはナミに教えてもらったらしい。
 ナミはこの店のオーナーと、どういうわけか懇意にしている。オーナーのブルックにはサンジも会ったことがあるが、可愛い女の子を見ると紳士的な仕草で「パンツ見せてください」と下品なお願いをする変態爺だ。だが、実は音楽業界では名の知れた作曲家らしい。CAROLという店名は女の子の名前かカクテルの名前かと問うと、「クリスマス・キャロルなど、耳にされたことがあるでしょう。お祝いの歌ですよ」と言っていた。
 控えめな音楽はオーナーが選んでいるという。店はそれほど広くはないが、席はゆったりとしてテーブル同士が離れている。バーテンダーは強面で不愛想だが、腕は確か。高層階だから夜景も綺麗だ。女の子を口説くのにもってこいな雰囲気だけれど、サンジはここでそれをしたことはない。(それを言ったら、サンジが口説きたいレディ第1位のナミ、およびウソップやゾロに、派手にツッコミを入れられるだろう。なにしろナミのことは口説きまくっている。だからサンジは懸命にも口に出しては言わない。)
 気に入って何度か来店していたが、ある時、サンジが仕事で終電間際になったときに、歩いているバーテンダーを見かけた。声をかけると、意味不明なことを言われた。
「帰るところなんだが、駅が見当たらねェ」
「駅って? 何駅?」
「そりゃもちろん、ウエストブルー駅だ」
 ウエストブルー駅。それは、バーのあるビルと直結している駅だ。そしてその時にサンジとゾロがいたのは、ウエストブルーから3駅先のイルシア駅。
「……あのう、バーテンダー君はさ、店からここまで歩いてきたわけ?」
「当然だろ。駅がねェんだ」
 堂々と言われて、サンジは頭を抱えた。ビルを1階まで下りればすぐそこにある駅から、どうやったら真顔で3駅も歩いてこられるのだろう。
 そして、頭を抱えている間に、終電が出てしまった。サンジが「ホゲー!」と叫ぶと、ゾロはバカにしたように鼻で笑って、同時に腹をぐううと鳴らせた。
「なんだよもー。お前、腹減ってんの?」
「減った」
「うーん……。じゃ、うち来るか? タクシー代持ってくれたら、メシ作ってやってもいいぜ」
 料理が得意なのは、店でも何度か話題に出た。バーテンダーが話に入ってくることはなかったが、興味深そうにしているのをサンジは何度か目にしたことがあるのだ。だからそう提案したら、ゾロはすぐに乗ってきた。残り物で作ったパスタと、風呂とソファと毛布を提供した。イルシアからサンジの部屋までのタクシー代を考えれば、安いものだ。
 それを機会に、店員と客から友人に近い関係にランクアップしたのだが、同じようなことがその後にも2回あった。ゾロは、2度目は4駅、3度目は7駅分も歩いていた。サンジはそのたび、大いに頭を抱える。バカなのか? バカなんだな?

 そんなわけで、ゾロが腹を鳴らすことはあったのだが、サンジはおそらく初めてだ。いつもと逆転な立場にゾロは笑ったのだろう。
「サービス券、今日使わせてやるよ。あと、カレーでよけりゃテイクアウトしてきてやる」
「え、マジで? いいの?」
「いつもの礼だ」
 寛容なゾロが、今のサンジには救いの神に見える。本来なら遠慮するところだが、サンジはもう動きたくなかった。「お言葉に甘えます」と言うと、ゾロはカウンター近くだけ照明をつけて、サンジをそこに座らせて、出て行った。
 カウンターに突っ伏した状態で煙草を吸う。左側の壁面は景色がよく見えるよう、窓が大きく取られている。そこから近くのビルが見えた。明かりが不規則に灯っている。まだ仕事してんだな、お疲れさま、と見も知らぬ明かりの向こうの誰かへと呟く。あと10秒あれば泣けると思ったが、タイミングよく扉の開く音がした。扉を背にしたサンジには見えはしないが、カレーのいい匂いが近づいてくる。
「ああ、だりィか? ソファのほうが良かったか」
「んーん。カレー食ったら復活する」
 コトンと皿が置かれる音に、サンジは体を起こした。テイクアウト用ではなく、普通に店で出される皿でもらってきたらしい。白い皿に、エレベーターホール近くにあるカレー店の名前が入っている。それが、2皿並べられた。
「お前も食うの?」
「当然」
 ゾロがカウンターの外に座っているのを見るのは、初めてだ。新鮮だが、それよりも腹が減っていたので、サンジは手を合わせてスプーンに巻かれたナプキンを外す。カレーを掬うと、さらに香りがふわっと立った。
「うわ、うっま」
 具材の溶け込んだまろやかな味と、香辛料の具合が絶妙だ。そこからは黙々と口に運んで、残り半分ほどになったところで、ようやく一息ついた。夢中になっていて、脳が手と口の動きに集中していたようだ。唐突に耳の働きが復活して、皿とスプーンが触れるカチャカチャという音が聞こえてくる。そういえば、控えめで邪魔をしないのに心地のよい音楽が、今日は店休だから流れていないのだと今になって気付いた。
「あのカレー屋、いっつも食欲そそるのに、行ったことなかった。もったいねェことしたなァ」
「おれはたまに行く」
 そう言って、ゾロは一匙を口に入れた。ゾロの一口分はものすごく多い。それをぽいぽい口に入れてはもぐもぐ食べるから、頬がぷくりと膨らんで『大きな小動物』みたいになる。だから食べるのも早くて、サンジがまだ半分しか食べていないのに、ゾロの皿はいま空になった。
「水いるよな?」
 食べ終えた皿を持って立ちあがったゾロの服の背中を、反射的に掴んでしまう。ゾロが怪訝な目を向けるのに、サンジは慌てて手を離した。
「……あれ? 何だろ、ごめん」
 言い訳が一つも浮かばず、サンジはごまかすように皿に向き直った。溜息のような声が斜め上から落ちてきたのは無視して、カレーを口に運ぶ。
 ゾロがカウンターの中から水を出した。氷がグラスに触れて涼やかな音を立てる。カウンターの内と外の、いつもの位置。だから、隣に座るのは新鮮でドキドキした。それなのに、カレーに集中していてせっかくの機会を無駄にして、つい引き留めてしまいそうになったなんて、言えるわけがない。
「サービス券のドリンク、何でもいいか」
 皿を洗いながらゾロが言うのに、サンジは頷いて、カレーを食べるピッチを上げた。

 CAROL以外のバーではあまりカウンターに座らないから、ほかのバーテンダーも同じなのかどうかはわからないが、ゾロがバースプーンを持つ手には、何とも言えない色気がある。指先からフェロモンが出ているみたいで、サンジはゾロがカクテルを作る手を、ついつい見てしまう。いつもは白シャツと黒ベストなのが、今日は私服の薄いセーターで、それはそれで様になるのだから、厄介だ。
 食べ終えて水を飲んで、差し出された手にカレー皿を渡すと、入れ替わりにカクテルが出てきた。
「おお……これは意外な」
 驚いたサンジに、ゾロはしてやったりといった風に口端を上げる。下から透明な赤、イチゴミルクのようなピンク、白の3層になった、かわいらしいカクテル。こういうのはまったく予想していなかった。
「何ていうカクテル?」
「スパイラル」
 上から見ると、白い層にうっすらと渦巻き模様が描かれている。その形状には、もちろん心当たりがあった。サンジの眉毛だ。
「――喧嘩売ってる?」
 もしくはからかっているのかと問えば、ゾロは「まさか」と笑った。裏のない笑顔なのにホッとして一口飲むと、見た目どおりのかわいらしい甘さだ。カレーの辛い口になっていた舌にやさしく乗って、喉に落ちていく。アレみたいだ、と頭に描いたものがその日にぴったりで、ハッとゾロの顔を見れば頷いて返された。
「ロウソクはねェけどな」
 ゾロがそう言うので、確定だ。このカクテルは、ショートケーキに似ている。
「知ってたのか」
「知ってるもなにも、――ああ、あれ見ろよ」

 ゾロの目線を追って窓の外を見ると、さっき眺めていた近くのビルの、規則的に並んだ窓の照明が『オメデトウ』の文字を描いている。
「うわっ! 何だあれ!」
 思わず窓に走り寄ると、一瞬すべての明かりが消えて、ビル全体にバースデーケーキのような形が描かれた。ちゃんとロウソクもあるし、イチゴのような赤い部分もある。ビルの足元にはケヤキのイルミネーションが並び、白と青のLEDが、ビルのケーキをレースのように飾っていた。
「すげっ! えっなに、何どういうこと!?」
 ゾロもカウンターから出てきて、「へェ」と言いながら、興奮するサンジの隣に立った。
「ナミとウソップが何かやるっつってたけど、こりゃすげェな」
「ふぁっ!? ナミさんが!?」
 言っている間にバースデーケーキも消えて、今度は赤いリボンのプレゼントの箱のような形になる。
 夢見心地なのに、サンジはふと我に返って、あれはいくらぐらいかかるんだろうかと現実的なことを考えてしまった。顔に出ていたのか、ゾロが答える。
「あのビルの持ち主、ここのオーナーらしい」
「おおお……」
 なんだか、ナミがどうしてオーナーと仲良くしているのか、わかった気がした。

「お前、誕生日、コースターに書いてたじゃねェか」
 ナミたちからのプレゼントに中断していた会話を、ゾロが続ける。確かに、サンジは書いた。8桁の数字と、11桁の数字を並べて。でもほんの小さく、それもコースターの裏に書いたのだ。気づかれていないと思っていた。
「電話かけてこなかったし」
「今日もしここに来なかったら、かけようと思ってた」
 ビルの照明が、またオメデトウを経て、ケーキに変わる。ゾロの伸ばした左手がサンジの右手を掴んだ。わずかに握り返す。ゾロが緩やかに指を絡める。
「誕生日おめでとう。プレゼント、何がいい」
 この上、まだプレゼントをもらっていいのか。
 誕生日なのに、今日は散々な日だ。ここに来たときは、そう思っていたのに。1時間も経たないうちに、腹も心も満たされて、まだ欲張ってもいいんだろうか。そう考えながらも、繋いだ手のぬくもりに、欲張ってみたくなる。
「じゃあ、うちに来いよ。……夕飯はもう食ったし、いつものソファはナシで」
「なんだ? 床に寝てキッチンマットにでもなるか。それとも、立ったままで洋服掛けか」
 遠回しな言い方をすれば、捻って返される。
「べ、ベッドで、」
「ベッドで?」
「抱き枕……」
「了解。いつまで?」
「いつまで!? えーと、起きるまで……」
 なんなのこの羞恥プレイと思いつつも、浮かれているせいか、それすら楽しみたくなってしまう。ゾロは真顔で平然としている。でも絶対楽しんでる。悔しい。でも楽しい。
「わかった。じゃあ、目が覚めたら手ェ出していいか」
「ふぇっ? 何言ってんの!?」
 かと思えばいきなり直接的な言葉を投げかけられて、サンジはうろたえた。いいように翻弄されている。悔しい……のに嬉しいって、なんだよ、もう。

 繋いだ手を振りほどいて、カウンターの席に戻り、カクテルの残りを一気に飲む。上等なケーキを一気食いしたようで、贅沢だ。かわいらしい見た目に反してアルコールの度数は高いようで、ぽうっと首や顔が熱くなってくる。とてもいい気持ちだ。
「やっぱり、抱き枕は10分でいーよ」
 だから、サンジはそう言った。ゾロが窓際から戻って来てサンジの横に立ったので、その耳元にそっと囁く。
「続きのおねだりは、ベッドでする」
 ゾロの表情が崩れた。
 勝った! と喜ぶサンジは、その一言のせいで後でさんざん泣くことになるとは、――まあ、それも作戦のうちってことで。

 

(2016/04/13)

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Honey Leafのあみさんが、サン誕SSとして書きました、という4月13日付のmemoに「(実はこっそり某サイト様のサイト誕を祝ってもいているのですが、伝わるかどうかは不明)」と書いてあったのを読んで、「サン誕にサイト誕の合わせ技をあみさんのお話で祝ってもらうとは、なんという羨ましいサイトオーナー…!」って思ったのですよ。で、さっそく読んでみたらですね、……んんん?バーの名前がキャロル?それって、それって、Bar Carol?…ってことは、拙宅名……?!と、なりまして。それとなく尋ねてみたら、なんと、まさに拙宅のサイト誕をお祝いしていただいたのでした!お話をご覧になった方はお気づきと思いますが、Barcarolleのスペルが全部入ってるのですよ。さすがあみさん、細やかです。そして、常日頃はゾロのことを罵らずにはいられないワタクシでさえ「なんていい男だ」と、うっかり言ってしまうほど、ゾロがいい男です。さすがあみさん。へこんだサンジさんの心に、ゾロの優しさがすうっととおるように、あみさんのお話はいつも、心にじんわりしみていきます。大好きです。あみさん、ありがとうございました。