『酒呑み、 大いに笑う。』

 昼日中から酒壜に手を伸ばすことについては、欠片ほどの後ろめたさもないが幾許かの緊張感はある。背後からの攻撃、とりわけ高い位置からの踵落としには要注意。みすみす喰らうような無様は滅多にないが、ほんの僅かでも気を弛めると、あのなげやりみたいに長い脚は、途端に活き活きとしてゾロを狙うのだ。
「……」
 それがここ数日、すっかり鳴りを潜めている。
 テメェごときが昼間っから呑んだくれるだなどと100年いや1000年早いわッ、とかなんとか怒鳴り声とともに靴底が飛んでくるものと決めてかかっていたゾロは、拍子抜けするほどあっさりと確保できた酒に、ラッキーと喜ぶどころか、むかっ腹を立てた。チッと舌打ちするや、その壜を元あったところにガタガタ戻し、代わりにいかにも高そうな別の酒を手に取って、どうだとばかりに向き直る。どんよりしたブルーの片方だけのまなざしで、けれども彼はその一部始終を見ていたはずだ。
「おい」
「あァ?文句あンのか、クソコック」
 乗って来やがった、と内心でニヤリわらったゾロに、フーッと紫煙をくゆらせた“クソコック”は冷蔵庫のある方へ顎をしゃくってみせた。予想外の反応だ。
「その酒ならツマミはチーズだ。ルフィは青カビのが苦手だから、テメェが好きに喰え」
「――」
 手にした酒壜を苛立たしげに放り出すと、無言でゾロはその場を後にした。いつもは凶暴どころではない男が、辛気臭いの何の、あんな目付きで見られてはせっかくの酒が不味くなる。難無く手に入る酒では美味さが半減してしまうくらいには、このささやかなバトルが染み付いてしまったというのに、俯き加減で無口な料理人が、どこか造り物めいて、いつもの彼と違いすぎて――それがとにかく不快だったのだ。
 
 事の起こりは、そうたいしたことではない。きっちり仕留めたと思っていた魚が、夕メシ用にと捌き始めた途端、死にものぐるいで暴れ始めた。それくらいは、ままあることだ。
 けれどもこの魚の、背びれや尾びれならともかくも、胸びれだけがあれほど凄まじい切れ味をしていようとは、さすがに想定外だったというしかなかった。俎板から落下しそうになったところを咄嗟に両手で捕まえたまではよかったが、両の掌はスパッと一文字に裂けて、キッチンの床にはぼたぼたと滴る血があざやかな赤を散らせて、という全くもっての大惨事。
 料理人にしてみれば、不覚どころの話ではない。どうにか他の連中から隠し通したいところだったろうが、たまたまその場に居合せたのが、よりによってチョッパーとあっては、観念するよりほかはなく――
 言い渡された料理禁止令の期間は、まさかの半月。いくらなんでも長過ぎると必死の訴えも、衛生上の観点から許可してあげられない、の断固たる一言の前には引き下がらざるを得ない。
 
ようやく5日が経過したところだが、サンジは既にあのザマだ。その鬱陶しいこと、あからさまな挑発にさえ乗ってこないようでは、最早ゾロにとっては屍と大差ない。幸い、海は凪いでいるし、釣り糸を垂らせば魚も釣れる。調理方法は丸焼きの一択で、ちっとも飽きがこないといえば嘘になるが、命に係わることでなし、せっかくだからたまにはゆっくりしてればいいのよと、女どもは忠実なる僕に、にっこりと微笑む。
(それができねェから、今のあいつァ厄介なンじゃねェか)
 理解には程遠いにしても、それなりの把握はしているという因果な間柄だが、そもそも誰かを宥めるとか慰めるといった発想自体を、ゾロは持ち合わせていない。19という歳は、背伸びをするからオトナよりオトナだが、つま先立ちの分だけ足元を掬われやすいのだと講釈をたれられたことがあるが、それがどうした。
 何処で何をとは言わないが、あの腑抜け具合だ、命じられればあのバカはしゃぶりもすれば咥えもするだろう。それを好きに折り曲げて揺さぶって鳴かせてやれば、それでいくらか気が紛れるはずだとでも言うのならば、それこそ、子供騙しもいいところだと、ゾロは口をひん曲げる。おととい来やがれ、だ。
 
 そんなことを仏頂面の下でカリカリ考えているうちに、うっかり迷ってしまったらしい。ここだけの話だが、いまだに油断するとさして広くもないメリーの船内でさえ、現在地点が危うくなることがある。
 さっき出ていったはずのキッチンの入口に、知らぬ間に突っ立っていたゾロは、複雑な心境で、よくもわるくもない酒を1本くすねてきた。誰の姿もなかったことに安堵しつつ、そのまま出て行きかけて、これではまるで不在をこそこそ狙ったようじゃねェかと眉をひそめる。冗談じゃねェと足を止め、ドアを背にどっかと座り込んでしまうあたり、我ながらガキ臭ェと自嘲しつつ、くいと呻った。いついかなるときも酒は美味いが、昼酒はまた格別だ。
 風に当たってでもいたものか、いくらもたたぬうちにお馴染みのいけすかない気配が自分の前をそのまま――憎まれ口も蹴りのひとつもなしに――横切ってキッチンへ戻っていくのを苦々しい思いで感じながら、いつしかゾロはうつらうつらしていたらしい。
 
 だから、夢だ。
 焦れったいほどゆっくりと、黒スーツの長過ぎる脚が、民族舞踊の厳かさを漂わせながら、完璧な弧を描きつつ真上へと上がっていく。日頃から大道芸人が裸足で逃げ出すレベルの給仕ぶりだが、躯全体がまるで1本の槍のようにまっすぐ床に突き刺さっているように見える180度開脚の片足立ちでも、全く危なげがない。今さらもいいところだが、柔軟性は言わずもがな、よほど平衡感覚に優れているのだろう。
 美味いメシを喰わせることに執念とも思える情熱を傾ける料理人としての本分と海賊仕込みの図抜けた戦闘能力。それをくだらない女性崇拝と減らず口でだいなしにして、あのふざけた眉のように行儀の悪い脚でグルグル掻き回しながら、ギリギリのバランスで煙草をふかしているこの金髪男が、認めたくはないがゾロには気にかかって仕方がないのだった。
 夢でよかった、とゾロはしみじみ思った。真正面から見惚れていられる。
 
 そう思ったのも、つかの間。
「――ッ!」
 避けきれないとみて、刀の切っ先をそちらに向けた。頭ではなく躯が出した答えだ。
 何かを突き貫く手応えがあった。錘のように刺さっているものの正体を見ようと、目を眇める。
「……何だ、これァ?」
「目ェ開けて寝こけてンじゃねェぞ、クソハゲが!」
 ツカツカと黒い箸のように近付いてくる脚の持ち主は、無論あの男だ。
「……」いつもの調子でまくし立てられても、急には言葉が出てこない。「……テメェ」
「やれやれ、待ちくたびれちまったぜ」目の前にしゃがみ込むと、サンジはフーッと煙草の煙を吹き付けてきた。「そいつは昨日ウソップが持ち込んだクソ美味ェ貝なんだが、とんでもなく殻が固ェ。叩き割ったら最後、身の部分までがどうやっても喰えねェような固さになっちまう。閉じこもってる貝殻から出てくるのをじっと待つしかねェんだが、臆病だから物音ひとつで脅えちまって手に負えねェ。一晩寝ずに睨めっこして、お、ようやくチャンスかと待ち構えてりゃあどっかの呑んだくれが――」
「ちょっと待て」キリのなさそうな科白を遮る。「ってことは、さっきテメェが妙におとなしかったのは」
「おーよ、よくも邪魔してくれやがったな」コン、と頭上に踵が落ちた。「ンなわけで、こっちも忍耐の限界だ。じっくり待ってなんざいられねェから、ちょっと出てきたところでテメェの方に飛んで行くように、入れてた桶を蹴り砕いて差し上げましたが、何か御不満で?」
 
 無言で、ゾロはこめかみを揉んだ。夢などではなく、即座に一撃を繰り出せるよう、姿勢をキープしてチャンスを窺っていたらしい。あの角度からの攻撃なら、薙いだりはせずに突くだろうと、そこまできっちり読まれているとなれば、言い返す気力もない。
「で?」
「あァ?」
「本当に美味ェんだろうな」刀の一振りで、くにゃりと滑り落とす。「ウソの奴にでも焼かせるか」
「アホ抜かせ!」フンと不服げに鼻を鳴らして、サンジは背を向けた。「そいつはナマで喰うのが最高だ。酒の肴としちゃ絶品で――テメェごときにゃ勿体ねェが仕方ねェ」
 何斬ってきたかわからねェ刀で仕留めたもンなんざ、他の連中に喰わせられるか、と暴言を吐く。どこまでもひねくれた男だ。喰えねェ奴、とぼやく。ぁンだと、と殺気だった声。
「残らず喰わねェと、オロスぞコラ!」
 そりゃ願ってもねェな、と声を上げて笑う。昼酒最高。
 
 
 
 
 
END.
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2014.11.11
 火辻(ひつじ)様より頂戴いたしました。
この方の書くどこまでも対等な二人、譲らない二人、深く結びついている二人が大好きでした。
ありがとうございます。心からの感謝を込めて。