『misty』


街の変化になど興味を持たないゾロだったが、骨組みだけの建物の中にきらりと幻のような金色を見かけた時からその店のことは気になっていた。

 ゾロの自宅近くの、バス通りに面した十坪ほどの小さな店舗。閑静な住宅街の中の五階建てマンションの一階部分、学習塾とコンビニに挟まれたその場所は、ラーメン屋に始まりカフェだったり小料理屋だったり焼き鳥屋だったり、ほぼ居抜きでころころと看板だけが何度も新しく掛けかえられてきた。立地の良さに甘んじた経営から長続きしないのだと言うのはもはや地元住民共通の見解だ。だから初めて骨組みだけになったそこを見たとき、ほの暗い空洞の奥の光にゾロは何がしかの、はっきりとした強い覚悟を感じ取ったのだった。
 毎日通るその中に何度か見かけた金色はいつも、遊ぶように楽しげにちらちらと揺れていた。
 春とは名ばかりの、三月半ばのことだった。

 

 一ヶ月に及ぶ新入社員研修を終えてゾロが地元に戻ってきた五月、その店はすっかり出来上がりしっくりとこの街に馴染んでいた。
 黒と深い緑色を基調にした落ち着いた外壁、さざめく波を模した看板に鮮やかな黄色い抜き文字で刻まれた店名は、『Barcarolle』。綴りを頭に叩き込み、自宅に帰ってから学生時代に使っていた電子辞書でその意味を調べた。舟歌、という意味らしい。完璧に陽気なテーマパークでだけ乗ったことがあるあの細長いゴンドラの船頭の、橋の影の下で朗々と歌い上げられて響いた歌を思い出した。似合いだ、と思った。
 ゾロがそこを通るのはほとんど朝と夜だけだ。暖簾はおろか開店閉店を示すプレートすらもドアにはかけられていなかったから、ゾロにはいつその店が開いているのか一体どんな料理を出す店なのか、まるで見当もつかなかった。
 ただ、大きなガラスがはめ込まれた木のドアの向こう側で金色は相変わらず躍るように揺れていた。

 
 
 大学の剣道部を引退して以来、休日には幼い頃から通い続けている道場で指導がてら竹刀を振ることにしている。午前は小学生、午後は中学生を見るが、五月の半ばのその日は定期試験が近いとかで中学生の指導が休みだった。常であれば道場に一番近い牛丼屋で腹を満たしてから街にでかけてぶらぶらするところだが、配属先が決まって僅か二週間、さすがにそんな余裕はなく、真っ直ぐに帰途につく。実家暮らしではあるが両親は成人した息子になど構うことなく奔放に飛び回っているから中途半端なこんな時間に自宅で飯などありつけるはずもない。コンビニで弁当でも買って帰ろうと決めて『Barcarolle』の前に差し掛かったとき、音もなくドアが開き中から金色が流れ出てきた。思わず足を止める。
 海のような青いシャツに黒いベストを着た金髪の男は銜え煙草で、小脇に抱えていたイーゼルをドアの横に置きそこに黒い板を乗せた。初めて見るものだった。白墨で書かれているのはメニューなのだろうか。異国の言葉だ。男はほんの少し髭の生えた顎に拳を当てて思案顔でそれをしばらく眺めたあと、うん、とひとつ頷いた。ゾロは、そんな様子をじっと見つめていた。
 不意に男が振り返り、ゾロと目を合わせた。皺ひとつない青いシャツのいくつかのボタンが気安い様子で外されていることに初めて気が付く。営業時間外。そんな言葉が脳裏に浮かんだが、男はポケットから取り出した携帯灰皿にゆっくりと煙草を押し付けてからゾロに向かって柔和な笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
 年の頃は意外にもゾロと同じぐらいに思えた。落ち着いた店の印象ほどには年は重ねていなさそうだ。少し肩の力が抜け、改めて小さな黒板を眺めてみる。果たしてゾロが食べられるようなものがあるのだろうか。随分時間をかけて検めたが、やはりわからない。
「メニューが読めねェ」
 ゾロを客として迎え入れる準備があるらしい男に正直にそう言うと、男もまた自分で書いたのであろうその板に目を遣りこくんと首を傾けた。
「あァ…、うーん、やっぱそうか?この方がレディに受けがいいと思ったんだがなァ。やたらカッコつけるもんじゃねェな、何しろ味で勝負だ、うん、書き直そう」
 ひょいと黒板を脇に抱えた男が急にぺらぺらと喋り出す。途端に随分と幼い印象になり、ゾロは俄かに混乱した。眉根を寄せて訝るゾロを気にする風もなく、男はもう一度ゾロを店へと誘う。
「どうぞ?」
「…何が食えるんだ」
「何が食いたいの?」
「箸で食えるものがいい」
「はは、お安い御用。なんでもできるぜ?」
 にっかりと笑った様子は夢を語る少年のようだ。
「ちなみにおにぎりの具は何が好き?」
「…エビマヨ」
「オーケー、覚えておく」
 屈託のない言葉にゾロはすっかり警戒を解き、もう遠慮などすることなく男の長い腕が開いたドアの向こうへと脚を踏み入れた。
 店内は少し潮の匂いがした。ぐるりと視線を巡らせる。流木を思わせる重厚なカウンターテーブル、壁の丸窓、隅に置かれた酒樽の上には根菜の入っているであろう麻袋。どことなく古い帆船の一室を思わせる趣きだ。
 キッチンに立った男は磨き上げられた銀色の水差しから透明な青の厚いガラスのコップへ、流れるような動作で水をそそぐ。隙の無い洗練されたその仕草に、ゾロは、つい先刻には夢に生きるこどものようだったこの男が本当は社会人として駆け出しの自分とは違う、自ら築いた居場所に覚悟の旗を掲げた一端のコックなのだと知らしめられた。
 カウンターに腰かけたゾロの前にことんとコップが置かれる。カランと氷が鳴る。

 

「Barcarolleへようこそ」

 

 艶を帯びた甘く柔らかな低音。気まぐれに変容する海のような男。深い青の瞳は、幻などではない確かな光を湛えている。

 

 

 

 

fin

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どうですか?どうですか?!うつくしいですよね…。

まやのさんによれば「タイトルの『misty』は、ゾロへ、みつけたのはいいけどそんなに視界良好じゃないはずよ?という忠告の意味を込めて。」だそうです。 

ワタクシ、サイトっぽいものを作ってみたんですけど…とまやのさんへご報告差し上げたのが3月半ば。黒と緑を基調にしたお店の様子はサイトデザイン。青地に黄色の文字のBarcarolleの看板はバナー。実に細やかにワタクシのサイトを描写してくださってるのですよ。すごくないですか?
まやのさんのお話は、二人の在り様にリアリティがある上に描写がうつくしく、いつも目の前に情景がありありと浮かびます。この素敵な二人が恋に落ちるのですよ。たまらないですよね。素晴らしい。こんなお宝を頂けるなんて、ワタクシ、ストーカーの如くまやのさん宅へ通い詰めてよかったって心から思いました。
まやのさん、ありがとうございました!