平日の夜の店内に客は二組だけだった。窓際の席に週に一度は訪れる常連の初老の夫婦、そこから少し離れたデーブルに初めて見かける若い女性。常連の夫婦は、来る曜日こそ決まっていないが来店の時間帯とメニューは常に同じだ。夕食のピークの時間が過ぎた頃にやって来て、ゆったりと時間をかけて食事をし、ラストオーダーの少し前、閉店まで30分を残す頃に礼儀ただしく店を去る。

「ごちそうさまでした。今日もおいしかったわ」
「ありがとうございます。お気をつけて」

 品のよい奥方の挨拶に、サンジは親しみをこめて礼を述べ店先で送り出した。睦まじく寄り添って立ち去る二人の後ろ姿を目で追う。目の前の通りはひっそりとしていた。今夜はこれ以上誰も来そうにない。

 あの日以来、閉店時間が近づくと少しだけ緊張する。考えまい、意識すまいと思っても、今日はアイツが来るんじゃねェかとか心のどこかで思ってしまう。

――― 何時までだ。

 聞かれて閉店時間を告げた。やり取りはそれだけで、約束をしたわけでもないのに。今まであの男のことなど思い出すことなく過ごせていたのに。忘れていたのに。

 サンジは頭をふった。まだお客様が残っている。営業時間中につまらないことなど考えてる場合じゃない。

 店内に戻り、一人だけの客となってしまった女性の様子をさり気なくうかがう。食事はデザートもコーヒーも済んでいて、帰り支度でもしたいのか、膝上に乗せたバッグの中をしきりに何やら探っていた。

「コーヒーのおかわりでもいかがですか、レディ?」

 明らかに食事を終えたと思しき女性にラストオーダーを問うのは野暮な気がしてサンジは控えめに声をかけた。バッグの中に手だけでなく顔もつっこむ勢いで慌てた様子で探し物をしているのは、閉店時間を気にしているがゆえの焦りのせいかもしれない。時間を気にせず、まだゆっくりと店にいてくれてかまわないという気持ちを込めて発したサンジの言葉に、赤いフレームの眼鏡をかけた黒髪の女性客は顔をあげると意を決したように口を開いた。

「あのっ、すみません」
「何でしょう」
「わたし、お財布を忘れてしまって」

 女性は半べそをかきそうな表情でサンジに訴えかけた。事情を口早に説明する彼女によれば、家を出てからこの方、交通費は定期券とICカード、買い物は携帯電話の電子決済で済ませていたため、財布がないことに今の今まで気づかなかったのだという。話を聞く限り、紛失や盗難ではなく単純な忘れ物であったことにサンジはひとまずホッとした。財布を忘れて外出すること自体はあり得そうなハプニングではあるが、食べ終えた後に気付くなんてさぞかしバツの悪い思いをしたに違いない。

「気にしないで、レディ。そういうことならお代はいらないよ」
「でも、そういうわけには」
「もしもどうしても気になるなら、また来てくれたらいいから」
「わたし、この街は今日たまたま用があって来ただけで、また次にいつ来れるかはお約束できないんです」

 生真面目な性格なのだろう。女性の答えは、聞く人が聞けば鼻白みそうなほど真正直だった。そうじゃない。サンジは笑みを浮かべた顔で首を振った。

「たまたま来た街で、偶然おれの店を選んでくれたなんて光栄だなァ」

 黒髪眼鏡の女性は、そう言うサンジをまぶしそうに、同時に疑わし気にながめた。この店に来たことがあればサンジの女性に対する甘い態度には慣れているが、初めてなので戸惑っているのかもしれない。

「だけどね、おれの店の身上は食いたい奴には食わせてやる、だから」

 笑顔のままで優しく、きっぱりした口調で言う。

「今日、おれの作ったメシを残さず食べてくれた、それだけでおれは満足なんだ。だから約束とか義理とかじゃなくて、いつか機会があったとき、食べたいと思ったときに来てくれたらおれは嬉しい。一人でも大歓迎だし、お友達と一緒でも歓迎するよ」
 サンジはやわらかく笑った。
「また来てね、はそういう意味だよ」

 


 申し訳なさそうに何度も頭を下げる彼女が立ち去ると閉店時刻は過ぎていた。表の明かりをおとして後片付けの作業にとりかかる。しんとした店内に、水道の音、食器が触れ合う音、テーブルを拭きあげる音、自分が生み出す音だけがやけに大きく響く気がした。目の前のことをいつも通りに、いつものことを丁寧に。そう思うのに気が散って作業に集中出来なかった。食いたい奴には食わせてやる。それは大事な信念だが、ほんとうは食わせたい奴がいて、そいつをずっと待っている、とか。

 サンジはいったん手を止めて煙草のパッケージを取り出した。火をつける。立ち上る煙とともに慣れた煙草の味が口の中に広がる。

――― こんなもん、よく口にするよな

 サンジの口元からひょいと煙草を抜き取って一口吸い、顔をしかめたあの男にそう言われたことがある。その言いぐさにサンジはカチンとして言い返した。

「こんなもんって何だ。てめェこそ、おれがいなけりゃロクなもん口にしねェくせに。酒酒酒。時々カップ麺、パンの耳、コンビニ飯……」
 あげつらえば、まあな、と意外にもあっさりと肯定されて拍子抜けした。

「おかげで今はずいぶんといいもん、口にしてるけどな」

 言われた言葉の意味に目を見張るサンジの口元に、返す、と奪われたばかりの煙草がむぎゅとつっこまれる。

「てめぇ……」

 予期せぬタイミングで吸うことになった煙にゲホゲホとせき込むサンジの頬がゾロの大きな手に軽く叩かれる。

「だからまあ、これからも頼むな」

 ふざけた行動をしたくせに、サンジを見つめる目はひどく真剣で言葉に詰まった。おう。そう返すのが精いっぱいだった。あの男の真面目な表情とその肩越しに見えていた白々と明けゆく空が記憶の底から蘇る。言うつもりのなかった言葉を口にした忸怩たる思いも。

 

 考えてみれば、あの男と約束らしい約束を交わしたのは、それだけかもしれない。

 

 

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