誰かいますかと確かめるのではなく、いることを確信して早く開けろとの確かな意思を持ったノックの音を聞きながら、サンジはゆっくりと煙草に火をつけた。

 雨の音が強くなる。

―― そういや、マリモは傘さすの下手だったな。
 どうでもいいことを脈絡もなく思い出す。竹刀を担ぐ要領で傘をさす癖があったから、傾いだ傘の剣先やシャフトを伝う水滴で髪や肩がいつも濡れていた。堂々としているのに呆れるほど抜けた部分があって、目が離せねェなと思っていたのだ。男なのに。

 しつこいノックの音は止まない。

―― あいつ、あきらめ悪かったもんなあ。
 学生時代、体育会の剣道部に所属していたマリモは、素振りのような地味な基礎練習も怠らず、常にトレーニングをしていた。人から何を言われようと諦めることなく一番強くなるという目標を掲げ努力していた。揺るぎなく妥協なく真っすぐに自分の夢に向かう姿がまぶしかった。その姿にひかれた。どうにもならない環境にもがき、みっともなく足掻きながら現実と折り合いをつけて生きてきた自分とは違うと思った。惹かれて憧れて傍にいたいと思い、そして傍にいたいと思う感情に欲情が混じることに気付いて厳重に蓋をしたのだ。

 不意にノックの音が止んだ。突然訪れた静寂は騒音よりも耳に響いた。サンジはきつく目をつぶり、煙草のフィルタを噛みしめた。開ける、開けない。会う、会わない。決められない。

 つかの間の静けさのあと、さきほどとは全く違う調子のノックが再開された。苛立ちを込めて無秩序にただ叩くのではなく、規則正しくリズミカルに繰り返されるノックの音。音量は小さいながらも、長短一定の間隔で間断なく続く音にサンジは観念した。自分も相当意地っ張りではあるが、あの男も絶対に折れない。この分だときっと一晩中でも叩き続けるに違いない。サンジは大股で店内を突っ切りドアを開けた。

「遅ェ」
 偉そうなゾロの物言いに、遅いのはてめェだと言いそうになり咄嗟に言葉を飲み込んで別の言葉を舌にのせる。
「……こんな時間に何の用だ」
 遅い、だなどと待ってもない人間に言う科白ではないからだ。サンジの辛辣な口ぶりなど意に介した様子もなく、ゾロは当然のように言い放つ。
「メシを食いに来た」

 久しぶりに見たゾロは、仕事帰りと思しき姿で顔つきもずいぶん大人びて見えた。スーツを着た姿は、大学四年次の就職活動の時期や社会人になりたての頃、ほかの仲間と一緒の飲み会でも見た。当時は借り物を着ているみたいで全く似合っていなかった。けれども目の前の男は、あの頃とは違っていた。身につけたスーツがサマになっていて悔しいが格好よかった。先ほどの可憐なレディが憧れをこめてこの男を見つめ、仲良く寄り添う姿が容易に想像できた。自分とは違う世界で違う時間を過ごしてきたということをひしひしと感じた。それなのに、肩先の生地は濡れて色を濃くしていて、相変わらず傘をさすのが下手くそで、そして何よりもあの頃と同じように、この言葉を言えばサンジが拒めないのを知っていて、不遜なほど堂々としていた。知らない男のようでいて、よく知っている男だった。

「……わりィけど、今日の営業は終了。この間、閉店時間言ったろ?」
 扉を開けてしまった今、こんな言葉に意味がない自覚はあるが、憎まれ口のひとつくらい言わなければサンジの気持ちがおさまらない。
「聞いた」
「だから、」
「過ぎてちゃダメなのか?」
「てめェ、ウチはメシ屋だぞ。メシ屋に時間外に来て、食わせてくれってどういう了見だ。メシを食いに来たんじゃねェのかよ?」
「メシ屋ならどこでもいいわけじゃねェ」

 思いもよらないゾロの言葉に、新しく取り出した煙草がぽろりと落ちる。
「おまえのメシを食いに来た」
 まっすぐな視線を向けられて、逃げ場も言い訳もなくなったところで、ゾロの腹が盛大に鳴った。ダメ押しだ。

「……入れ」

 ほかの選択肢などなかった。

***

「メシを食いに来た」と言ったくせにリクエストもなく「任せる」と言っただけのゾロに、サンジは手近の材料で手早く料理を用意してやった。随分と会っていなかったせいで最初こそぎこちなかったが、料理を介せばあの頃の遠慮のない関係にあっという間に戻っていく。気安い関係だった。気心が知れていて、多くの言葉はいらなくて、でも相手が自分をどう思っているのかはまるで分かっていなかった。

 ゾロは、サンジが呆れるほどの熱心さで食べた。こんなにガツガツしているゾロを見たことがなかった。食べ方がきれいなので下品ではないが、皿でも舐めそうな、というよりもむしろ皿ごと食べ尽くしそうな勢いだった。近くの椅子に座ったサンジは煙草の煙がゾロへ流れないよう気を付けながらその姿を眺める。自分が作ったものを食べる姿が好きだった。

「そういや、さっきかわいこちゃんが来たぞ?」
「ああ?」
 サンジがゾロに話しかけると頬袋をふくらませたままのゾロが怪訝そうに聞き返す。 
「黒髪眼鏡の、てめェと同期だってレディ」
「ああ、たしぎか」
 自然な名前呼びに親密度が知れた。
「彼女か」
「何が?」
「たしぎちゃん。かわいーじゃねェか」
「別にそんなんじゃねェ」
「そうか?今日、一緒に来るはずだったんだろ?あんな可憐な子と毎日顔をつきあわせて働けるなんて幸せだよなァ」
「……ごちそうさん」

 ばちんと両手を合わせる仕草は懐かしいものだったが、食べ終わりを告げる言葉は、この話題もお終いだと言外に告げていた。プライベートに立ち入るなってことだよなとサンジは自分の軽率な物言いを自戒する。

 ゾロには適当に酒をあてがい、サンジは厨房に入って銜え煙草で皿を洗った。以前とは違うことを肝に銘じなければ。会わずにいた時間は人を変える。それにしても、どうしてゾロが今更、店に来る気になったのかが全く分からない。本当に食いに来ただけか?可憐なレディとの婚約報告は?あんなにも執拗なノックをしてまでサンジに会おうとした理由は?

 後片付けを終える頃、答えはゾロしか持っていない以上いくら考えても無駄だという身も蓋もない結論に到達した。バカバカしい。煙草を吸おうとして、ついさっき口にしていたのが最後の1本だったことを思い出した。間の悪いことに、厨房のキャビネットに常備している数箱のストックは在庫をきらしていた。最後のパッケージを手にしたとき、普段の喫煙ペースであれば今日はしのげると踏んでいたのだが、予想外のことが多すぎて知らずと本数が増えていたらしい。

 空のパッケージをくしゃりと握りしめたサンジがため息をついたのを見たゾロは、ポケットから自分の煙草を取り出し、パッケージをふってサンジに一本を差し出した。サンジは目を丸くした。

「おまえ、いつから?」
「あー……、」

 言い淀むゾロをサンジはそれ以上追及しなかった。サンキュ、とだけ言ってありがたく受け取る。単なる偶然だとしても、銘柄がサンジの愛用品と同じであることが、一種の絆のようで少しだけ嬉しい。愛用のライターで火をつける。ゾロも一本を口に銜えたのでライターの火を差し出せば、サンジを一瞬見つめたあと無言で火に煙草を寄せた。

 かつて、煙草を「こんなもん」と言ったゾロを、一体何が、あるいは誰が喫煙者にさせたのか。きっとこれもサンジの知らない間に起こった何某かの出来事による変化で、サンジには関係のないことなのだろう。詮索めいたことは言うべきではない。

 黙ったまま相手の紫煙の行方をたどりながらぼんやりしていが、サンジは、ふと思いついてゾロに尋ねた。

「さっき、途中でノックを変えただろ。あれって何か理由があンの?北風と太陽?」
 まだ半分も吸っていない煙草を惜しげなく消し、ゾロは怪訝そうに聞き返した。
「北風と太陽?」
「そういう話があるだろ。イソップ寓話だかウソップ寓話だか?北風のような厳しいやり方じゃなくて、日の光みたいに穏やかなやり方の方が効果があるってやつ。おまえ、最初は力任せにガンガン叩いていたくせに、急に穏やかなノックに変えたじゃねェか」
「あー」
 ゾロはガリガリと緑色の頭をかいた。どことなく目が泳いでいる。
「柔よく剛を制すっての?マリモも知恵がついたなーとか思って、おれ思わずドア開けたんだけど」
 茶化した調子でサンジが言うと、ゾロが明らかにがっかりしたような表情で言った。
「……おまえ、分かっててドア開けたわけじゃねェのか」
「分かる?何を?」
 きょとんとするサンジに、ゾロはぼそぼそと呟いた。モールス信号。SOS。
「エスオー…って、あああ?!アホか!」
 サンジは思わず大声を上げた。言われてみれば、長短3回ずつノックが繰り返されるあれはモールス信号のSOSだった。
「アホはおまえだ、アホ眉毛!そのくらい気付け!」
 負けじとゾロも言い返す。
「モールス信号は知ってるけどよ、アレがそうだと誰が思うんだよ!だいたいおまえ、最初はドアを叩き壊す勢いだったじゃねえか。警察呼ぶとこだったぞ」
「おまえがケータイもノックも無視するからだろうが」
「無視したわけじゃねェよ。応答しそびれたっていうか。それより、なんでSOSなんだよ。迷子遭難かよ」
「迷子でも遭難でもねェ」
「じゃあ、なんだよ」
「いざという時だからだ。いざって時にSOS使って何が悪い」

『いざという時に食べたいものは何ですか』
 いつかラジオで聞いた問いかけが蘇る。

「たかがドア開けないくらいで大げさな」
「そんなことじゃねェ」
 どきりとした気持ちを押し隠して軽くあしらおうとしたサンジをゾロは遮った。
「いいか」
 思わぬ至近距離にゾロの濁りのない強い目。
「おれはずっと飢えていた」
 聞き捨てならない事を、宣言するかのように言う。

「おまえのメシを当たり前に口にしていた頃はまるで気づいちゃいなかった。いるのが当たり前で、食わせてもらうメシがうまいのが当たり前で。社会人になってもまたいつでも食えると勝手に思っていた。約束もしたし」
「覚えていたのか」
「忘れるかよ」
「じゃあ、どうして、」

 来なくなってしまったのか。この街へ、この店へ。知りたいと思っていたその答えを、ゾロは今言おうとしているのか。

「ここにいるおまえは洋食屋のコックだ。食いたいやつに食わせてやるって、来たやつ全員に食わせてやるだろ。おれのことも他のヤツもいっしょくたに」
「そりゃ、コックだし」
「それが、面白くねェ」
「……」
 話が思いもしなかった方向へ行こうとしている気がしてサンジは混乱した。

 堰を切ったようにゾロは言いつのる。
「メシが食いたくてここに来て、おまえがこの店で生き生きと働いているのを見て、おれは誇らしいような気がしていた。自分一人の力で早々に夢を実現したおまえをすげェなと。同時に、おまえが誰にでも分け隔てなくメシをふるまっている姿は面白くねェってムカついてもいた」
「……」
「ここへ来れば腹が満たされる。でもここでのおまえを見るとムカついた。だから足が遠のいた」
 サンジはゾロが喋るのを聞いて言葉を失った。

「おれは分かってなかった。おまえにムカついてたンじゃなくて、いっしょくたにされるのが面白くねェってことに。ずいぶん長い間気付いていなかった」
「……まさかおまえ、それで今日、わざと営業時間外に来たとか言うんじゃねェだろうな」
「時間内に来たら、客扱いするじゃねェか」
「おまえを客扱いしたことは、」
「ねェとは言わせねえぞ」
 拒絶されるのが怖かったから近づきすぎなかった。失いたくなかったから手を伸ばさなかった。食べたければ食べにくる、それだけの関係であれば、適切な距離を保てば、学生時代によくつるんだ仲間としていつまでも関わっていられると考えていた。

「だいたい今日だって、たしぎと一緒に来てみろ。てめェ、おれのことロクに相手しねェだろが」
「ちょっと待て」

 気を落ち着かせたいのに、こんな時に限って煙草がない。情けない気分でゾロをみやると、パッケージをサンジの手に押し付けた。喫煙の習慣のなかったゾロが吸うようになった理由、サンジと同じ銘柄である理由、それが意味することに思い至ってサンジの顔が赤くなる。見られないよう顔を背け、とりあえず火をつけてニコチンの煙で肺を満たす。こんなゾロは今まで知らなかった。こんな風にサンジのことを考えていたことも知らなかった。

 サンジが煙草で落ち着くのを律儀にも待ってはくれたものの、ゾロは口を閉じるつもりはないらしかった。

「おまえが『メシはちゃんと食え』と言っていたから、メシは食っていた。でも常に飢えていた。理由が分かるか?おまえのメシじゃなかったからだ」
 ゾロが椅子から立ち上がり、サンジへ一歩足を踏み出した。

「飢えは非常事態だろ。いざって時じゃねえか。これがいざという時じゃなけりゃ、いつがそうなんだ」

 そういいざま、素早く伸びてきたゾロの腕がサンジを引き寄せる。何が起こったのか把握できないうちに、サンジはゾロの腕の中にいた。背中に回された腕が逃がすまいとサンジをしっかり抱き込んでいる。

「いざという時に食いたいものはおまえが作ったものだ。おまえが足りねえ。腹が減って死にそうだ」
 サンジの肩のあたりで絞り出すように発するゾロの言葉をサンジは呆然と聞いていた。手を伸ばすことを諦めていた広い背が目の前にある。サンジはそろそろと腕を上げ、触れてもいいものかどうか逡巡した。厚みのある身体はサンジの動きをどうとったのか、ますます強く抱きしめてくるから身動きさえできない。

「いつだって来ればよかったんだ。おまえのメシはおれが、約束したんだから」
 声が震えてしまわないように、それだけを考えてサンジはやっとのことで言葉を返した。
「おまえは求められたら与えちまうヤツだから。あれは、おれが勝手に押し付けただけの約束なんじゃねぇかって、」
「そんなことねェ」
「おまえも求めろ。求めてくれ」
 サンジの肩に額を押し付けて乞うように言うゾロの切羽詰まった声の調子に、サンジは奥歯を噛みしめた。強い腕の拘束をなんとか解く。腕の中から抜け出してしまったサンジを半ば不満げに半ば不安げにうかがうゾロを真正面から見つめる。求めていいのか。おれが。この男を。

 かすかな雨音が二人だけの店内に満ちていく。この場所でずっと待っていた。声に出さず求めていた。

 サンジはゾロに向かって手を伸ばして両の掌で頬を挟んだ。見開いた相手の瞳に自分の姿が映っていることに満足して、ゾロのくちびるに自分のそれを重ねた。

end

 

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