いざという時に食べたいものは何ですか。

 そんな質問が、ふと、耳に引っかかった。厨房の片隅の、古びたラジオからするすると流れてきた軽快な男の声。町のちいさな洋食屋のコックという職業柄故だろうか、『食べたいもの』という単語を聴き逃さなかった自分に、サンジは銜え煙草の口の端をちいさく上げた。

 

 昼食時の混雑がひとまず引いた店内はがらんとしずかだ。外は生憎の雨もよい。ひとり厨房で夜のメニューの仕込みをしながら、何気なくラジオのスイッチを入れたことに、特に意味はなかった。さわさわと窓の外からしずかに届く雨音に、ひとりきりの店内がひたひたと浸食されるような気がして、何か他の音を混じらせたくなったのかもしれない。闇雲にスイッチを入れたラジオからは、サンジの知らない古いロックのメロディーが流れだした。そのすこし野暮ったく懐かしい旋律は悪くなかったので、そのままちいさな音量で聴き慣れないラジオを流しっぱなしにしていた。

 

 大量の玉ねぎを焦がさぬようにじっくりと炒めながら、ラジオから耳が拾ったことばについてぼんやりと思考を巡らせる。いざという時。そりゃどういう時だ。自分の店をオープンさせた時とか?新作メニューを初めて店に出すとき?どう転んでも、コックという職業にまつわることばかりが浮かぶのだから、全く自分はコックが天職なのだ。

 

 ラジオからは軽快な男の声が、今はもう会えない仲間たちとよく一緒に食べたカレーですねわたしは、なんて笑う。その声のあかるいさみしさに、サンジはおもわずラジオの方をじっと見た。そこには古びたラジオがあるだけで、声の主の姿が見える訳でもないのに。苦笑して手元を見下ろす。飴色になった玉ねぎが鍋底でつやりとまとまっている。カレーなら、うちに喰いに来ればいいのにな。思い出の味には敵わないだろうけれど、あんたのいざという心意気を応援する最高の味を提供するんだけど。

 

いざという時がどんな時かよりも、自分の喰いたいものの方が難しい。喰わせることならば得意なのだが。いざという時に食べたいもの、ということばに真っ先に浮かんだのは、サンジの作った料理を実に美味そうに口に運ぶ緑頭のムカつく野郎の顔だった。何故アイツなんかを。おもいもよらないところからおもいがけない顔をひょこりと覗かせるのだから、記憶というのは実に忌々しく儘ならない。

 

 その時不意に、スラックスの尻ポケットに無造作に突っ込んでいたスマホがぶるぶると震えた。鍋底をかき混ぜる木べらの動きはそのままに、取り出してみれば画面にはマリモの三文字がちかちか着信を知らせている。一連の出来すぎた偶然にサンジは銜え煙草の端を無意識に噛み締めた。

あの男が電話を寄越すなどほんとうにめずらしいし、そもそも随分と久しぶりだった。

 

 受話のボタンをタップして、うすっぺらな機器を耳元に添えた途端に。

『…何だ。』
 ちいさな文明の利器から流れ出た意味不明な低い第一声に、サンジは脱力しつつ応じる。
「てめェからかけてきておいてなんだってなんだよ。」

『仕事中じゃねえのか。』

「ちょうど一番暇な時間帯だぜ。それがわかっててかけてきたわけじゃねえんだな。」

 努めて軽い揶揄い口調でさらりと答える。

『そうか、』

 ゾロは淡々と当たり前のように受け流す。微妙に会話のキャッチボールが出来ていないような気がするが、マリモ相手だから仕方がない。サンジはいい感じに仕上がった玉ねぎの鍋の火を一旦消す。短くなった銜え煙草を押しつぶし、新しいものを銜えつつ、手近なスツールに腰を下ろした。愛用のオイルライターで火を点ける音が、きっと受話器の向こうにも聴こえているだろう。新しい紫煙を深く喫い込んで吐き出したタイミングで、再びゾロの声が聴こえた。愛想の欠片もない野郎の低い声は、ぶっきらぼうなのになんだかやわらかい。気のせいだろうか。機械を通した仮想の音声だからかもしれない。

『何時までだ。』

 ことばの足りないざっくりとした質問に、適当に見当を付けてサンジは自分の店の営業時間を告げる。そういうことを訊かれているのでなかったら、ばかみたいだよなあなんてちょっとおもうけれど、ゾロはそうかと簡単に頷いて唐突に通話は途切れた。

 

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