昼食時の喧騒が嘘のような午後のひととき。誰もいない店の厨房で、サンジはラジオのスイッチを入れた。いざという時に食べたいものはという質問が聴こえたのと同じくらいの時間帯。名前も知らないDJの男の、若くはなさそうだが軽快な声が流れ出る。スラックスの尻ポケットのスマホは沈黙を守っている。ばかばかしい。あの日のように、また、あの男からの連絡が来るのではなんて、期待などしていない。していない、つもりだ。言い訳のようにぐるぐる考えていることに気付いて、サンジは、ふ、と自嘲気味に煙草の煙を吐いた。考えている時点で、期待しているのだ。おれは。
――何時までだ。
 問われて、閉店時間を告げた。それきり何の音沙汰もない。当然こちらから連絡などするわけもない。まるで待っていたみたいで癪だ。
――今日のテーマは、「約束」です。
 軽快な声が告げる。どきりと、する。あいつは約束を大切にする男だった。ここへ来ないのは、別に約束などしていないからだ。閉店時間を訊かれただけで、妙な期待をした自分が馬鹿なのだ。
 ラジオからは、軽やかな、けれどどこかものがなしいメロディが流れた。曲が終わると、軽快な声がしずかに告げた。
――この曲を届け続けること、これがわたしの仲間たちとの約束です。あなたはどんな約束をお持ちですか?
 耳に心地よく響くDJの声が、今日はやけに耳障りで、サンジはラジオのスイッチを切る。喫い慣れた煙草が苦い気がして、ためいき交じりに煙を吐いた。
 おれの飯を、これからも頼むと、まるで約束みたいに。
 多分、自分だけがあのことばを覚えているのだろうと、サンジはおもう。あの男にとっては、約束とも言えない何気なく軽いことばだったのだろう。
 友人たちは皆、大学を卒業した後、この街を去った。地元へ戻ったり、就職先の新天地へ向かったり。しかし、サンジが自分の店を持つという夢を実現させる場所は、この街でしかありえなかった。サンジには帰るべきふるさとも、家族もなかった。そういう柵を切り棄て振り切るために大学へ進学し、この土地に住みついたのだった。そして、どこにも行かずこの街で、ずっと。きっと、待っていたのだ。そうと知らずに、ずっと。
「おれが勝手に期待してるだけで、約束なんて端っから無ェんだよなあ。」
 自らに言い聞かせるように、サンジは声に出してつぶやいた。
 帰る場所に、なりたかった。失いたくなかったから、手を伸ばさなかった。こうして自分の店を持ち、夢を現実にしたようなふりをしているけれど、結局自分はなにひとつ手に入れられなかったような気がした。

 平日に有給を取って、たしぎはあの街で開催中の刀剣展を見に行ったのだという。刀の第一人者であるミホーク教授の講演会が開催された日に。ゾロも関心はあったのだが、その日はどうしても外せない会議が入っていたのだった。
「とてもよかったですよ。展示を見るだけでも行くべきです。」
 昼休みの社員食堂で、前のめりに熱弁を振るう同僚のたしぎは、刀マニアという意外な趣味があり、ゾロと話が合うのだった。日替わり定食を食べながら、ゾロは話を聞く。
「あと、とてもおいしい洋食屋さんで晩御飯を食べたんですけれど、わたしお財布を忘れてしまって。でも、やさしい笑顔がとてもすてきな店主のコックさんが、ごちそうしてくださって。食べたいひとに食べさせるのが店の身上だからって、いつかまた機会があれば来てくれたらうれしいって……天職ってああいうひとのことだとおもいます。」
 あいつの店だと、ゾロにはわかった。女にはとことん甘いあの男らしい対応。しかしきっとそれが男の客だったとしても、同じようにタダ飯を喰わせるだろう。あれはそういう男だった。
 学生時代のゾロも、よく飯を喰わせてもらった。てめェは放っておいたら酒酒酒で碌なモン喰わねえからな。厭味ったらしく言うくせに、笑みを孕んだまなざしはひどくやわらかかった。あいつにとっておれが、特別なのだと、錯覚してしまいそうなくらいに。
「それで、明日の外勤、あっち方面じゃないですか?直帰にして、帰りにその店に寄りませんか?」
「なんでおれに言うんだ。」
「明日の外勤一緒じゃないですか。人数多いほうが店に貢献できるかと……ちょっと、ロロノア、話は終わってません、」
 ゾロは無言で席を立つことで話を切り上げた。食器を下げると、そのまま喫煙所へ向かう。ポケットから抜き出す煙草のパッケージは、あの男がいつも銜えていたのと同じ銘柄。
「……こんなもん、よく口にする……、」
 煙に紛らせて、いつかあの男に向けていった科白を吐き出した。あの男の料理を食べるのが当たり前で、いつだって口にできるものだとおもっていた頃のゾロには、喫煙習慣など無かった。この煙草の香りはいつだってあの男の気配だった。
――腹減ったな。
 昼食を食べたばかりだというのに、そうおもった。喰いたいものを、長いこと喰えていない、曖昧な飢餓感が腹の底にくすぶっている。
 あの日以来、連絡ひとつできていない。


夕方から降り出した雨は、夜になっても止む気配はなかった。平日の夜とはいえ、閉店まであと一時間弱というところで、ぱたりと客足は途絶えた。今日はもうおしまいかなとおもったその時不意に、店の扉が開いた。

「いらっしゃい……あれ。」
 顔をのぞかせたのは、見覚えのあるレディ。自慢じゃないが女性の顔は忘れないサンジだが、財布を忘れたインパクトのあるレディなら尚更だった。
「あの、この前は、ありがとうございました。お代を、」
「あの日の分はもうチャラです。今日の分ならば頂きます。夕食はお済みですか?」
 雨に濡れているからか遠慮がちに戸口に佇むレディを、気にしないでと促した。
「連れがいたんですが……はぐれてしまって。なんででしょう。」
 なんでかは知らないが、連絡したらどうかと言ったら、今日はスマホを忘れてきたと言う。うっかりもここまでくるとすごい。
「お財布はあります。」
 急いでそんな風に言い添える。連れのことは諦めるという。面白いひとだ。真正直で、好感が持てる。
「わざわざまた来てくれるなんて、光栄です。普段来る場所じゃないんですよね?」
「ええ、今日はたまたま仕事で近くまで来て……でも、ついでだからってだけではないんです。ほんとうにおいしかったので、お代を返したいという気持ちもあったけれど、単純に、また食べたいなあっておもっていて。」
 生真面目に説明してくれるのを、サンジはにこにこと聴いた。
「うれしいです、レディ。ありがとうございます。連れの方まで誘ってくださったんでしょう、」
「はぐれちゃって来てませんけど。」
「夜だし天気も悪いしね。この辺りは学生街なので、こういう店が多いから。」
「そういうこと抜きで、多分ただ迷ってます。」
 妙に確信を持って言い切るから、おもわず笑って気安い問いのことばが出た。
「そんなに方向音痴なんだ?」
 女性もくだけた笑顔になる。
「ええ、信じられないレベル。」
「はは、おれの知ってる奴にもいましたよ、そういう絶望的な方向音痴。そういうやつに限って本人に迷子の自覚が無いんだよね。」
「そうですそうです。この街に、学生時代住んでいたらしいのに。」
「……へえ、」
 何気ないお客さんとの会話が、知っている手触りにすり替わって、サンジは曖昧に口を噤んだ。
――恋人と連れ立って訪れた旧友に、結婚式の招待状を渡される、とか。
 くだらない妄想が頭を掠めた。妄想とも言い切れない。ありそうな話だ。努めて平静を装って、メニューを差し出す。

「ごちそうさまでした。」
「わざわざ来てくれてほんとうにありがとう。お連れの方、いいのかい?」
「ええ、どうせまた明日会社で会いますから。連れといっても、今日も仕事で一緒だっただけで……同じ会社の、同期なんです。」
 控えめな笑顔が、野の花のようだった。明日会えることを当たり前のように言う。あの男が日常に存在する場所は、とっくにここではないのだ。そんなこと、知っていたはずなのに。

 結局件のレディが最後の客になった。閉店の準備を、と、おもったサンジのスラックスの尻ポケットで、スマホが着信を告げた。気付いていながら気付かないフリをして、サンジは店の扉に閉店の札を掛けて錠をおろす。規則正しく着信のバイブレーションは続く。誰からの電話だとしても、そのまま切れてしまえばいいと願った。ふつり、と、止まる。その途端、出なかったのは自分なのに、ひどく狼狽した。新しい煙草を銜えて火を点け、煙をひとつ吐いてから、スマホの画面を確認した。不在着信一件マリモ。
「なんだってんだろうなあ。」
 もうずいぶん会ってもいないし、互いに連絡ひとつしてこなかったのだから、今更だ。スマホの電源を切ると、カウンターの端に画面を伏せて置いた。程なく、施錠したばかりの店の扉ががたがたと音を立てた。誰かが開けようとしている。鍵がかかっていることに気付くと、今度はがんがんとノックと言うには些か乱暴な連打を繰り出し始めた。

 誰が来たのかは、確かめるまでもなかった。

 

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