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風の啓示

 心地よくて開け放っていた窓から、一陣の風が吹き込む。乱雑に置いていた書類が数枚、風に舞って部屋のあちこちに落ちた。学生のレポートが混じっているかもしれない。机の上の書類を適当に集めてペーパーウェイトを乗せると、ゾロは部屋を一回りして、書類を拾い上げていった。セルゲイが今朝置いていったレポートは、赤茶のソファに乗っていた。集めた書類の一番上に重ねる。  木々が勢いよく揺れている。眼下に町の一部、その中にモスクのドーム型の屋根が見えた。宗教心を持ち合わせていないのでモスクへ行ったことはないが、ゾロはその藍銅鉱に似た青いドームが気に入っている。
 窓を閉めるかどうか少し迷って、結局そのままにする。集めた書類をペーパーウェイトの下に重ねて、ゾロは煙草に火を点けた。
 もう一度窓際へと一歩踏み出したところで、コッコッと扉が叩かれる。
「失礼します。先生、質問をしてもよろしいですか」
「ああ、どうぞ」
 背が高く肌の浅黒いリスベクが実験データであろう紙の束を抱え、長い髪を二つに編んだエレーナが口を開く。二人とも勉強熱心で、実験チームのリーダー的存在。部屋まで質問に来るのは、この二人が多い。
 ゾロは一度吸い込んだだけの煙草を揉み消して、二人をソファへ促した。
「先生、こんなものが落ちていました」
 座ろうとしたリスベクが、ソファの足元から何かを拾い上げる。
「お守り……かな?」
 リスベクの大きな手のひらの上ではとても小さく見える、緑色のそれは、確かにお守りだ。いつも胸ポケットに入れているから、さっき書類を拾ったときに落としたのだろう。
「ああ、大切なものだ。ありがとう」
 ゾロがそう言うと、リスベクはそれを貴重な鉱石を扱うように、丁寧な仕草でゾロへ渡した。
 
 二人の話とデータから実験の改善点を話し合うこと小一時間、リスベクとエレーナは笑顔で部屋を後にした。もう日が傾きかけているから明日にしろと言ったが、きっとこの後、新たな実験の準備ぐらいはしていくだろう。本当に真面目なのだ。
 ゾロは、胸ポケットをそっと押さえた。サンジの手作りのお守りが手のひらに触れる。
 
 
*
 
 
 サンジとは中学、高校が同じで、もう20年近くの腐れ縁になる。
 中学に入学して1週間ほどで、サンジが隠れて煙草を吸っているのを目撃してしまい、ゾロは何も言っていないのに突っかかってきた。チャラくて、頭が悪くて、あまり関わりたくないタイプの人間だ。サンジのほうも同じように思っただろう。それが、喧嘩して、認め合うという、思い返せば恥ずかしい子供特有のやり方で仲良くなった。
 一緒にいるようになれば、空気感がとてもいい。友達という言葉を使っていたのはいつまでだったか、途中で照れくさくなってやめてしまった。おまけに、ゾロが大学生でサンジが専門学校生の頃、体の関係ができてしまった。サバイバルゲームに初めて参加した日のことだ。
 
 サバイバルゲームには、ゾロの大学の先輩に誘われて行った。装備はほとんどレンタルするつもりが、サンジが「やっぱり自分の銃がカッコイイんじゃね?」とか言い出して、エアガンだけは買った。学生にはかなり痛い金額だったが、ぴかぴかのエアガンを手にしたら、やっぱり興奮したものだ。体を張った緊張感あふれる遊びに、二人とも夢中になった。
 夕方にゲームを終えてから、そのままのメンバーでカラオケに行った。ゾロは人前で歌うのが苦手だと知っていて、サンジがゾロの分まで歌っていた。サンジは音楽が好きで、流行りの歌もクラシックもジャズも、なんでも聴く。そのときは古い歌謡曲ばかり歌っていた。二人が生まれるより前に流行っていたような。
 ゾロがはっきりと覚えているのは、現在も活躍している女性アイドルの曲だ。もうアイドルと呼ばれるような年齢ではないだろうに、その肩書きは今でも彼女に似合う。
 女性アイドル特有の可愛らしいフリ付きでサンジが歌うと、メンバーには大いにウケた。手拍子だけでなく、「エル・オー・ブイ・イー・ダイスキ・サンジ」という、いかにもな合いの手まで入った。
 盛り上がるカラオケルームの中で、ゾロはすっかり酔っていた。酒には強いほうだったが、ビールをもう何本も飲んでいた。サバイバルゲームでの興奮状態もあった。そこに、サンジの歌う声が耳を撫でるように甘く、耳から脳へ、あるいは喉を抜けて心臓まで、熱く流れていった。じわじわと体が融けていくように。
 
『Kiss in blue heaven 連れていって ねえ DARLIN’』
 
 聴いている間、ああ早く連れていかなければ、と、ゾロはそればかり考えていた。
 カラオケで解散してメンバーと別れて、わりとすぐ近くにあったラブホテルの前で足を止めると、サンジから「入ろう、入ろう」と、カラオケで次の曲を入れるぐらいの軽いノリで言ってきた。それで、ゾロはサンジの手を引いて、連れていった。天国だったのかどうかは、正直よくわからない。
 
 
 尊敬する教授の研究チームへの推薦の話が出たとき、サンジにそれを伝えると、自分のことのように喜んだ。
 高校卒業後は進路を違えて、サンジはもともと好きだった料理の勉強を始めた。工学部のゾロの専門的な話なんてサンジがどれぐらい理解していたのかはわからないが、たびたび教授の話をするゾロに、ロシア語を勉強しておけと言ったのはサンジだ。いつか直接話ができるぞ、と言って。研究チームに入るだけでなく、大学で講義を受け持つことも打診され、言葉を身に着けておいたことは本当に役に立った。ドヤ顔で「ほら、言っただろ」なんて言われるのかと思ったのに、サンジは「がんばってよかったなァ」と涙ぐんでいた。
 行先の近隣の国で紛争が起き、国内でもテロがあって、一時は渡航が危ぶまれた。その時、新聞やインターネットで情勢を細かくチェックしていたのはサンジのほうだ。ゾロの部屋に来るたび、必ず行ける大丈夫だと励まし続けた。
 
 サンジとの関係に付ける名前はあるのだろうか。
 ほかの友達には向けない類の過度な好意。時おり互いに手を伸ばす秘密の夜。
 ――違う。本当はわかっているのに、気づかないふりをして逃げているだけだ。言葉にしてしまうと、名前を付けない関係の心地よさを、失くしてしまうような気がして。
 
 
 出国する前の晩、ゾロはサンジの部屋で過ごした。
 キッチンの広さだけで選んだという2LDKは、日常の便はあまり良くないが、空港だけは近く、飛行機が大きく近く見える。ゾロはそれを好んでいたが、その日は空を見上げなかった。
 夕食はテーブルに溢れんばかりの品数で、作りすぎたと、作った本人が呆然としていた。刺身、焼き魚、筑前煮、肉豆腐、卵焼き。きんぴら、酢の物、五目豆。お浸し、煮浸し、冷奴。ごくシンプルな、子供の頃からよく食べていたような料理ばかりだ。それから、白飯のほかに、おにぎりと焼きおにぎり、ゾロの部屋から持ってきた炊飯器には炊き込みご飯。
 サンジは上等な日本酒も用意していたが、飲まずじまいになった。まず酒がないと始まらないという程度にはゾロは酒好きになっていたが、その日は酒より料理だった。成長期の自分でも苦労しただろうボリュームを残らず平らげたこともあるが、何よりサンジの美味しくて、食べるのが楽しくて。
 切り干し大根のまるい甘みが、舌にやさしかった。
 
 湯船にゆっくり浸かって上がると、着替えの上に緑のお守りが置いてあった。
 ゾロは神とか仏とか、目に見えないものを信じていない。信じていないものには祈らない。だが、ゾロの目指すものをずっと応援してくれていたサンジの想いは信じられる。サンジの祈ることなら、叶えなければならない。
 お守りは手作りらしく、すこしまっすぐでないところもあるが、丁寧に縫ってある。結んである紐を引っ張って、ゾロはお守りの中身を取り出した。
 薄紙に包まれて、きちんと折られた紙が入っていた。『安全』と二文字。きっと考えて考えて考えて、考え抜いた結果、残ったのがその二文字なのだろう。そして、それと一緒に出てきたのが、鍵。どこの、なんて考えるまでもない。
「あー……。ダメだ、負けた」
 ゾロは座り込んで頭を抱えた。完敗だ。
 
 目を覚ますとまだ薄暗く、隣にサンジがいた。遅くまで新しいレシピを試していたようだから、サンジがいつ寝たのかゾロは知らない。
 サンジには、見送らないから朝は起こすなと言われている。あと2時間は眠れるだろうが、寝過ごすと冗談にならない。早めに床についたお蔭で、頭はすっきりしている。
 昨晩風呂に入ったが、ゾロはシャワーを浴びてから着替えた。現地までは、丸一日かかる。
 横向きに丸くなって眠るサンジの髪を撫でると、その温もりに呼吸が苦しくなった。もう片方の手で、胸ポケットに入れたお守りを確かめる。
「行ってくる」
 
 あまり触っていると名残惜しくなるから、ゾロは手を止めた。
「お守り、ありがとうな。おれはてめェんとこに帰ってくる。だから、帰ってきたら、――」
 サンジの唇がほんの僅か開いた。寝息が少し早い。だが、目はぎゅっと閉じている。
 いつから起きていたのだろう、だが眠ったフリで通すらしい。サンジがそうしたいのなら、それでいいだろう。
「いや、帰ってきたら、っつーのはナシだ。今からだ、今から」
 予定では3年。そこまで引き延ばす理由がない。負けは認めるが、少しは足掻いてみせなければ。
「……今から、てめェはおれのモンな。おれはてめェにやる。だから、待ってろ」
 待っていて欲しいと思うのは傲慢だろうか。
 それでもゾロは、そう言っておきたかった。
 ふわりと赤く染まった耳たぶに、柔く押し付けるキスをして、ゾロは立ちあがった。
 
 振り返らない。
 そう決めて、ゾロは靴を履いた。
 荷物の大半はすでに送ってあるから、念のための二日分の着替えぐらいで、荷物は小さい。
 ――決めていたのに。
 ドアノブに手を掛けたところで、ゾロは振り返ってしまった。サンジは起き上がって、ゾロを見つめていた。

 放り出すように靴を脱ぎ棄てて、サンジに駆け寄る。
 サンジはベッドに座ったまま、両手を広げて待っていた。
 絞るように抱き締めるとサンジは苦しそうにしたが、うまく力を緩められない。初めてのように、夢中で口づけをした。
 
「――待ってる」
「ああ。行ってくる」
 サンジはすっきりとした笑顔だった。ゾロもたぶん、笑えたと思う。
 
 
*
 
 
 ここに来てからもうすぐ2年になる。予定では、あと1年は帰国しない。
 研究チームは教授以外のメンバーも優秀かつ勤勉で、その中で働けることが誇らしい。ロシア語での講義には苦労もあるが、学生が協力的で、なんとかやっていけている。周辺地域は相変わらず情勢が不安定のようだが、ゾロのいる地域は今のところ落ち着いていた。
 サンジにはメールも電話もしていない。たまに、手紙を書く。これまで年賀状を送りあったこともなかったから、手書きの文字で、切手を貼って送るというのが新鮮だ。便箋や絵葉書を選ぶのが楽しいなんて、知らなかった。
 飛行機を乗り継いで丸一日かかる距離だが、時差は3時間。そう思えば、それほど遠くは感じない。
 
 
 開けたままの窓から、自転車に乗るマルレーヌが見えた。彼女は別の専攻の教員で、ゾロと同じくほかの国から臨時で来ている。大学一だと噂される美しさと、二週間に一度は学生を泣かせるという厳しさで、学内では有名人だ。仕事での接点はないが、ゾロは彼女と親しくしている。教室へ向かう途中で、彼女に叱られたのがきっかけだ。ジャケットの片方から襟が出ているといって呼び止められたのだ。
「教壇に立つ者が、だらしなくてはいけないわ」
 そう言って、美しい白い手でゾロの襟元を直した。見ていた学生たちが囃し立てるのも気にせず、ゾロの格好が整ったのを見て満足げに頷いたマルレーヌを、ゾロは気に入った。
 親しくといっても、時々食事を共にするぐらいだが、放っておけば食事を適当に済ませるゾロを見かねて、彼女のほうから声をかけてくる。マルレーヌは、美味しくて安い料理が食べられる店をよく知っていた。自分でも作るらしいが、それを味わったことはない。
「ゾロ、あなた、ブロンドの恋人がいるでしょう」
 彼女は早い段階で、そう見抜いた。マルレーヌは美しいブロンドの髪をしていて、それを見ているとゾロはどうしてもサンジを思い出してしまう。
「――そんなに、わかりやすいか」
「とっても愛おしそうな目をしているもの。でも、見ているのはずっと遠くだわ」
 私も自分の国に恋人が待っているからわかるわ、とマルレーヌは笑っていた。
 
 
 白い箱から煙草を1本取り出す。サンジは片手で簡単に1本を飛び出させていたが、ゾロにはできない。普通に引っ張り出して、咥える。
 部屋の隅にカードが落ちているのに気付いた。おそらくさっき風で飛んだのを、拾い損ねたものだろう。
 カラフルに装飾された卵の絵葉書。そういえば、昨年のイースターの時季に買った記憶がある。手元にあるということは、出す前に紛失したらしい。どこに紛れていたのやら。
 その葉書を選んだのは、およそ食べる方向には興味の向かない華やかな色合いなのに、サンジの卵焼きが頭と舌に浮かんだからだった。美しい黄色の、ふわふわと柔らかい、じんわりと出汁の甘さのある卵焼き。ゾロの好物のひとつだ。
 店でこれを手にした時、ほんの短い間だったけれど、唐突にホームシックにかかった。サンジに会いたい、帰りたいと、強く思った。
 
 すん、と絵葉書に鼻を寄せる。煙草の匂いはしない。だったら、まだ使える。
 マルレーヌに言い当てられたことがもうひとつある。
「あなたの恋人は煙草を吸うのね」
 ゾロがちっとも吸い慣れていないからだと言われて、その場に穴を掘って埋まりたいほど恥ずかしかった。
 初めて煙草を手にしたのは、あのホームシックの最中だ。銘柄は母国でも見たことのあるもので、でもサンジの愛用しているものとは違う。それでも、燻らせていると、安らいだ気持ちになった。かっこ悪いと自覚しているから、サンジには絶対に知られたくない。
 
 紫煙がかからないよう、ゾロは絵葉書を引き出しにしまった。
 濃紺の空にはもう星が無数に瞬いている。モスクのドームはシルエットだけになった。
 セルゲイのレポートを確認して、実験室を覗いて、夕食はソーセージと揚げパンの美味い店にして、――。
 ゾロの頭の隅で、サンジは力強く握った拳を突き上げたあと、ひらひらと手を振って、姿を消した。

 
 

 
(2016/09/02)
 そして絵葉書はさらに1年ほど忘れられてしまう。