青く染まる

 あの森へ行ってはいけないよ。妖術を使う恐ろしい狐が棲んでいる。虎がどんなに強くとも子供のおまえは狡猾な狐に騙されてあっという間に餌食になってしまうだろう。

 大人たちからさんざん注意をされていたその森へゾロは迷い込んだようでした。なぜ気が付いたかといえば。

「おい、そこの緑のチビ」
 誰かが呼ぶ声に振り返ったゾロの目の前に一匹の狐がいたからです。ふさふさした太い尾。ピンと立った三角形の大きな耳。黒くて細い脚。胴体の毛は金色で、お腹側は真っ白です。額の毛が長めなので目は右目しか見えません。その右目の上にある眉はくるりと巻いた不思議な形をしています。これが妖術を使うという狐に違いありません。

 警戒の色を濃くして身構えるゾロに、狐は拍子抜けするほど気さくな様子で「さっきから気になってンだけどよ」と話しかけました。

「なんでこの辺りを何度も行ったり来たりしてやがんだ」
「家がどこかに行っちまった」
「家がどこかに?分かるように説明しやがれ、小僧」
「おれはトラだ。小象じゃねェ」
「生意気なこと言うんじゃねェよ、クソガキ!」

 狐は大口をあけて威嚇しました。犬歯が光ります。しかし、大人たちが言っていたようなずる賢く恐ろしい狐だとはなんだか思えません。

 訝りながらも、問われるままに、東の森にあるはずの家がどこにも見当たらないとゾロが説明すると、なんだおまえ迷子かよと狐はゲラゲラ笑いました。それから、しゃーねェな、森の縁まで連れてってやると気軽に道案内をかって出ました。油断させて後から襲うつもりなのか、単なる親切なのか。分からないまま、それでもお礼を言うとサンジという名の狐はにっこりと笑いました。金色の毛並みが木漏れ日を反射してつややかに光ります。片方だけ覗く目の見たこともない青さにゾロは吸い込まれるような気がしました。

 木々の緑。土の茶色。花や実の赤、橙、黄色、紫。それから動物たちの毛の黒や白。森の中には様々な色彩があふれているのに、こんな青色は見たことがありません。ゾロが知っている青である空の色とは比べ物にならないもっとずっと透き通るような青。深い水のように静かで、そしてどこか寂しそうな色にゾロは目が離せませんでした。見惚れるようにその色を追い、しかしハッとして目をそらします。これが術なのかもしれません。心を奪われたら大変です。

 ほどなく森の縁へやって来ると、そこからでもよく見える東の森の一番高い木を指して、これならおまえにも分かるだろとサンジはゾロに念を押し、じゃあな、とあっさりと背を向けました。

 ゾロは思わずサンジの尻尾を掴みました。このまま別れてしまうのは嫌だと思ってしまったのです。しかし何を言ったらいいのかちっとも分かりません。分からないままに口から出たのは先ほどからずっと気になっていたことでした。

「なあ、おれ、何色に見えるか?」
「あ?」
 ゾロの唐突な質問にサンジは一瞬、怪訝な表情をしましたが「緑だな」とためらわず答えました。
「みどり」
 なんとなくがっかりした気分でサンジの答えをオウム返しに呟くゾロ。
「てめぇ、自分の毛色はなんだと思ってんだ」
「緑」
「じゃあ、緑に見えて問題ねェじゃねえか。何色に見えると思ってンだ」
「青」

 狐は大仰にため息をつきました。意味がわからねェよ、緑なのになんで青に見えると思ったんだ、とぶつぶつ言っています。

 ゾロにはうまく説明することは出来ませんが、サンジの青い目を見たときからずっと思っているのです。

 あの青い目で見る世界はどんなにうつくしく静かなのだろう。全てが深くて静かな水の中のように青く染まってみえるのだろうか、と。

 あの目が見ている世界を知りたい。青い目を持つサンジに見えているものを知りたい。あの目に自分がどう映っているのか知りたい。

 自分の気持ちを言葉で表すことができず、ただ口ごもるばかりのゾロの様子を見て、サンジは口元にほんのりと笑みを浮かべました。それからおもむろに手を差し伸べて子虎の左耳をそっとなで「またな」と言うと姿を消しました。

 ひんやりとした指先が触れた左耳だけが熱くなるのを感じて、何かの術がかけられた、とゾロは呆然と思いました。

 

end