島に着き、皆と一緒に上陸して行ったはずのナミとロビンが、いくらも経たないうちに船に戻ってきた。船番として一人残っていたサンジは二人をにこやかに出迎えながらもトラブルの予感に気を引き締めた。なぜならば、ロビンが見慣れた三振りの刀を、ナミが小動物を、それぞれ腕に抱えていたからである。何があったのかを問うサンジに、ナミは端的に答えたが、彼女の返答をサンジは全く理解することができなかった。
「もう一度言ってくれるかな、ナミさん?」
「これはゾロよ」
これはペンです、というような事務的な調子でナミは言った。例えばナミが持っていたのがペンであれば、サンジは即座に「はい、それはペンです」と言うことができる。しかしナミが持っているのは……正確にいえば、その腕に抱えているのは一匹の猫でありゾロではなかった。いくらサンジといえどもイエスとは言えなかった。
女神ナミの言うことに誤りはないから、間違っているのは己の耳であろう。グランドラインにありがちな不思議現象とか不思議海域だとか、そういったデタラメな理由により、猫という単語が自分の耳にはゾロと聞こえてしまっているに違いない。
「も、もう一度……」
「サンジくん」
ナミがぴしゃりと言った。
「何度も言わせないで。現実を見てちょうだい」
「げ……現実⁈」
サンジは目の前に突き付けられた現実、すなわち猫をまじまじと見た。猫としては珍しい緑の毛皮は、たしかにゾロを彷彿とさせる。短めの毛は意外にも清潔そうで、手触りのよさそうなつややかな光沢を帯びている。眠っているらしく目を閉じている。この状況で寝ていられるとは随分と図太くてふてぶてしい。だからといって、そして緑だからといってこれをゾロと断定していいものだろうか。
サンジが観察している気配を察したのか、猫がゆっくりと目を開けた。眠りから覚めた猫が伸びをした様子が、ゾロの寝起きのときの姿とそっくりで、サンジは言葉を失った。こちらを見た猫の目が(アホ面だな)とでも言いたげな様子でサンジの姿を映している。
これはゾロだ、とサンジは思った。こんな風に人を苛立たせる表情をするのはゾロしかいない。しかもゾロのくせにナミさんに抱っこされているとはどういう了見だ⁈。
「あ、起きた」
サンジの内心の怒りをよそに、ナミは、よいしょ、と猫を床に下ろすと猫の背に手を置き、その傍らにしゃがみこんだ。
「だからね、サンジ君。これはゾロなの」
出来の悪い生徒に、噛んで言い含めるようにナミは言った。
「これはゾロ……」
女教師にリピートアフターミーと厳命された生徒のごとく、サンジはナミの言葉を呆然と繰り返すしかできなかった。
―この島には猫坂っていう坂があって、その坂で転ぶと猫になるっていう伝説があるんだって。
―運の悪いことに、剣士さん、そこで転んでしまったらしいの。
ナミとロビンがかわるがわる状況を説明してくれたが、だからといって直ぐにこの状況に順応できるものではない。
「こいつ、ちゃんと元に戻るの? その方法は?」
サンジは恐る恐る尋ねた。
「それが、時間が経てば戻るらしいのだけど」
「時間ってどのくらい?」
「よく分からないのよね」
ナミは肩をすくめ、ロビンは首を振った。
現時点で分かっていることは、転んで猫になるには、いくつかの条件が必要らしいということ。大半の人間は転んでも猫にならず、怪我をして寝込む(言わば、ねこ)か、転んで寝転ぶ(つまり、ねこ)だけであり、本当に猫になるのは非常に珍しいということだった。何故ゾロがその稀なケースを体現してしまったのか謎だが、ファンタジスタの面目躍如なのかもしれない。珍しいということは、前例があるということで、そうであれば解決方法もあるに違いない、というのが唯一の希望である。
「古今東西、こういった伝説では、愛する人からのキスをもらうと呪いが解けるっていうのが定番だけど」
困ったわね、と言いながらも、さほど困った表情を見せずにロビンが呟く。
サンジはほぼ放心状態で猫(推定ゾロ)を見おろした。猫は我関せずと言いたげに大きな口を開けて欠伸をしていた。まるっきり猫であり、まるっきりゾロであった。
「じゃ、私たち、もうちょっと聞き込みしてくるわ。だからサンジ君、お世話よろしくね」
「え、おれ?」
「ほかに誰がいるの? この姿のゾロを外へ連れて行けないじゃない。迷子にならないように見張ってて。船が一番安全だもの」
そう言われれば仕方なかった。
ナミとロビンが出かけてしまうと、サンジは猫状のゾロと対峙することになった。猫になってもゾロは、相変わらず態度が大きく、相変わらずマイペースな様子だった。
猫はロビンが壁際に立て掛けていった刀の周りを小さな歩幅でちょこまかと歩き回った。倒れそうで危ないと思ったサンジが刀を床に置いてやると、爪を出さない前足で柄をひっかき、刀を扱おうとし、あまつさえ、あぐあぐと口に銜えようと試みていた。刀の柄を銜える猫なんて、世の中どこにもいないからどうしたってこれはゾロに違いない。
―おまえ、それで大剣豪になれるのかよ。
サンジはなんだか切なくなった。癇に障るヤツではあったが、大剣豪になるために日夜あれほど鍛錬している、その姿は認めていた。ゾロの覚悟とか妥協のない精神とかには内心一目おいていた。それなのに、いまや刀さえ持てないような状況になってしまったなんて。猫ゾロの将来を思うと非常にやるせない。しかしサンジのそんな思いとは裏腹に、刀と戯れていたゾロは、暫くすると丸くなり、あっさりと眠ってしまった。人間ゾロであれば無尽蔵ともいえる体力を持っているのに、こんなに小さな猫ではちょっと動くだけで疲れてしまうのだろう。まあ、猫は寝子だっていうし。
猫がすっかり眠ってしまったのを見届けたサンジは、ゾロ猫に向かっておっかなびっくり手を伸ばした。触れたいから手を伸ばすなどということはヒトゾロ相手には到底できないことであるが、猫になったゾロであれば許されるような気がした。そっと撫でてやると、目を瞑ったまま気持ちよさそうに喉をぐるるると鳴らしたりして、素直な反応にサンジは感動した。人間のゾロだったら、サンジに触らせもしないし、こんな甘えた反応もしないのに。
おれが触っても怒ったりしねェのかよと複雑な気持ちではあるが、こんなチャンスはあるものではない。余りにも手触りがいいのでうっかりと撫で続け、拒まれないのをいいことに頬ずりし、調子にのってその毛皮に顔をうずめて猫吸いまでしてしまった。不覚である。
+++
そんな愛玩動物との和やかなひと時は長くは続かなかった。事態が急展開したからである。
「サンジ君! 大変! 海軍に見つかっちゃった。今すぐ船出すわよ」
「ログは」
「問題ないわ」
上陸していた皆が一斉に戻ってきた。相手が海軍では小さなキャラベル船は戦うより逃げる方が得策である。しかし、ゾロが。ゾロがまだ猫である。
「何か分かった?」
「その話はあとで。今はとにかくここを出るのが先よ」
ゾロの問題を解決しないままこの島を出る? そんなことが? ここに留まって応戦すべきなのでは? サンジは思わず船長を見た。
「それゾロだろ」
猫の姿になったゾロを初めて見ただろうに、ルフィには迷いというものがなかった。もちろん事前にナミ達から事情を聞いていたのだろうが、そこに一切の躊躇いはなかった。
「船を出せ」
びしりと船長が言った。人を従わせる声音に仲間達が出航準備を急ぐ。甲板を忙しく走り回る仲間たちにまじって、飛び回っている猫の後ろ首をサンジはひっつかんだ。猫がじたばたと足掻いて抵抗する。
―悪ィな。色々不本意だろうが、今日くらいは守られておけよ。
そのまま格納庫の扉を開け、猫の湿った鼻にちゅ、とくちびるをあてる。それから部屋の隅へ放り投げた。猫なんだから、ちゃんと着地しろよ、と思いつつすぐさまドアを閉めて鍵をかける。ちょっと手荒だったが、浮輪が積み上がっている辺りを狙ったから怪我はしないはずだ。
――愛する人ってのが、「おまえを」なのか「おまえが」なのか知らねェから確率は二分の一だ。でも、プリンスからのキスにはちっとはご利益あるかもしんねェぜ
ドアをガリガリ掻いている騒がしい音をサンジは背中で聞いた。
追手は意外としつこくて思いのほか苦労した。砲撃は下手くそなのに数だけはわんさか撃ってくるから回避するにしろ撃ち落とすにしろ忙しい。しかも不運なことに、船近くに落ちた一発の砲弾がたてた派手な水しぶきを浴びて、ルフィロビンチョッパーという三人の能力者たちが戦力外となってしまった。圧倒的な人手不足にサンジはギリギリと煙草を噛みしめた。猫の手も借りたいとはこのことであるが、今、うちの猫は封印中なのである。
「あと少し耐えて! そしたら風が変わるから追手を振り払える!」
ナミの声に応え、ヤードからジャンプしては飛んでくる砲弾を蹴り飛ばす。これが最後の攻撃と思われたとき、急な横波を食らったキャラベルはぐらりと傾き、サンジはバランスを崩した。跳ぶタイミングがずれたせいで避けようと思った砲弾が体をかすめ、その衝撃で甲板へたたき落された。ナミの悲鳴があがった。
―大丈夫、ナミさん。心配しないで。
そう言いたいのに声がでない。立ち上がれない。船への着弾はないが、あと一発が上空に迫っている。
―マズイ。
サンジがそう思ったとき、目の前に飛び込んできた黒い影。それがそのまま勢いよくマストを駆けあがる。一閃の後に聞き慣れた甲高い金属音。一太刀斬き伏せて瞬時に返して切り上げるツバメ返しの鮮やかな太刀筋。
―目覚めのキスってのは「ゾロを」好きな人のキスってことなんだな……
「この、アホが!」
跡形もなく砕けた砲弾と、怒り狂ったゾロの顔をを見て安心したサンジはそのまま気を失った。
+++
無事、追手をまき、船は順調に進んでいる。
ゾロは何事もなかったかのように、日課の鍛錬に励んでいる。聞いた話だと、猫になっている間の記憶は完全にあるという。それを知ったサンジは身構えた。逆の立場であれば、猫になっている間中、仲良くもない相手から撫でまわされたり、挙句キスまでされたとなったら、憤死ものだと思うからだ。しかし、意外なことにゾロはその点は気にしていなかった。人間に戻れたことで不問にしてくれているのかもしれない。むしろサンジの方が、後ろめたいやら恥ずかしいやら、いたたまれない。
しかし不問の代償はあった。それはゾロがサンジを触ることである。
「おまえがおれを好き勝手に触ったんだから、おれにも触らせろ。それで相子だ」
それもそうかもしれないと、ついゾロのお触りを許してしまうサンジである。
「もう一度言ってくれるかな、ナミさん」
甲板でのティータイム。弾む足どりで紅茶とフィナンシェをナミとロビンに提供していたサンジは「そういえばサンジ君、どうしてゾロが戻ったか知ってる?」とナミに聞かれ、軽やかなステップをぴたりと止めた。返答に困る。キスしました、とはとても言えない。
どう答えようかともごもごしていたところ、別に回答が欲しくて質問したのではないらしいナミが、自ら理由を説明し始めた。ナミの説明は明瞭で端的であったが、彼女の言うことをサンジは全く理解することができなかった。
「だからね、あれはあの辺りの島一帯にある強力で滅茶苦茶な磁気と、猫坂の辺りに漂ってる霊気だか妖気だか何だかのせいなんですって。霊気の方の真相は分からないけど、磁気に関しては、確かにログポースの動きが支離滅裂だったわ、あの島。だからエターナルポースを手に入れたんだもの」
「それで『ログは問題ない』って言ったってこと?」
「そうよ。猫に変身する理由はわかんないけど……ゾロは妖刀も扱えるくらいだから、何かそういうのと相性がいいのかもね。元に戻るにはあの場所から離れて、磁気とそのへんな気の影響を受けなければいいだけってことみたい」
「じゃ、別に何もしなくてもよかった……?」
「そうね。『ここを出るのが先よ』って言ったじゃない?」
「そ……、そういう意味だったの?」
「だって海軍のせいで、説明してる暇なんてなかったもの」
「あの、愛する人……っていうのは?」
「あれは一般論」
そう言ってナミはにっこりと笑った。
「でもほら、結局のところ、サンジ君にとって悪くない結果になったんじゃない? ね?」
――ナミさん、何のことだかよく分かんないんだけど、とサンジは言いたかった。あれ以来、猫を撫でたり吸ったりするようにゾロとスキンシップをとっていることは誰にも知られてないはずなのに。
「ゾロがね、自分から色々と教えてくれたわよ。元に戻ったきっかけとか。もちろん私からは何も説明してないから一般論を信じてるようだけど」
「嬉しそうだったわね、剣士さん。猫になるのも悪くないって言ってたわ」
二人にそう言われ、サンジはその場にがっくりと膝をついた。
「あのね、あんたたち二人、結構前から意識し合ってるの、バレバレだったから」
ナミはとりなすように言ったが、サンジの傷口に塩を塗っているのと同じだった。
「剣士さんは単純というか、細かいことを気にしないタイプだから、隠すなんて考えもしないんでしょうね」
ロビンが塩を丁寧に擦り込んだ。
「ねえ、サンジ君。それがゾロよ」
とナミが言い、はい、それがゾロです、とサンジは繰り返すしかできなかった。
end