5×4=20

法律事務所に勤めるロロノア・ゾロの朝は早い。専門にしている海事法の分野において五指に入ると言われる男は、出勤前に緑茶をすすりながら全国紙、業界紙など新聞五紙に目を通し、世の中の動向を拾うのが毎朝の日課だからだ。そろそろ時間だなと思い、顔を上げて窓越しに外をうかがえば、案の定、近所に住む見知った金髪姿が通り過ぎていった。急いで戸締りをして家を出たゾロは大股で歩いていき、あっという間に目当ての相手に追いついた。のんびりした様子で煙草を吸いながら歩く金髪の姿に、ゾロの眼鏡越しでも鋭い目つきがふと緩む。「路上喫煙は条例違反だぞ」後ろから声をかければ、肩越しに視線をよこした男がにやりと笑う気配とともに「オハヨウ、センセイ」と言ってきた。「おはようさん」挨拶を返しながら、男の隣に並んで駅までの道を一緒に歩く。他愛のない会話をしながら心の中では、どうにかしてセンセイという呼び名を止めさせて、あの笑顔とあの声で「ゾロ」と呼ばせてみたいと思っている。あの細腰を引き寄せて抱きしめたいと思っている。実をいえば、もう三年越しの片思いなのだ。最初に会った頃は制服を着ていた金髪もいまや立派な社会人だ。そろそろ本腰を入れて口説いてもいいだろう。あさっての金髪の誕生日がチャンスだな、とゾロは思った。

 

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診療所に努めるサンジの朝は慌ただしい。実は朝が弱くて起きられないからだ。食欲もロクにないのだが身体が資本なので朝食は必ずとる。最近のお気に入りは、うらごしして冷凍してあるかぼちゃのペーストを使って作るポタージュだ。仕上げに刻んだパセリを散らせば、鮮やかな黄色に緑が映え、滑らかなのどごしとも相まって、すんなりと胃におさまる一品となる。今日は晴れるという天気予報に、冬越しの為に夜は室内に置いてあるデルフィニュームをベランダに出す。住んでいる安い賃貸アパートの薄い壁越しに聞こえてくる隣人のTVニュースの音声を聞いて、そろそろ出かける時間だと知る。外に出れば、春めいた空気のにおいに心が浮き立った。3月は好きだ。軽い足取りで角を曲がる。角から2軒目の家には緑色の髪をした男が一人で住んでいて、外見と職業のせいで町内のゴシップ好きの人たちの格好の的となっている。曰く、あれはヤクザのお抱え弁護士だとか、美女にもてまくりのお偉い先生だとか、宵越しの金は持たねえがモットーで収入の全てが飲み代になっているだとか。毎朝、サンジのすぐ後からやって来る件のセンセイと駅まで一緒に歩く道すがらの会話のおかげで、どれもこれも本当は違うのをサンジは知っている。センセイは、強面の見た目の割に物腰は穏やかで、割となんでもどうでもいいといった態だけれど、一本筋が通ってて…。そんな事を考えながら、センセイの家の閉ざされたドアを垣根越しに見やる。一度くらいあのドア、おれが通る丁度の瞬間に開かねえかなと思う。そんな偶然をキッカケにしたら、もう少しセンセイとの距離が縮まったりなんてしねえかなと思う。ま、そんなのは奇跡でしかあり得ねえけどなァ。
いつもはそのまま通り過ぎる家の前を今日は立ち止まった。今日くらい。一年に一回くらい、普段と違うことをしてみてもいいんじゃねえか?指でピストルの形を作り、ドアの向こうにいる人間に狙いを定める。3・2……。心の中でカウントダウンをし、バンと撃つマネをした。した後で子供っぽい振る舞いに気恥ずかしくなり、そそくさと踵を返したまさにそのとき、ドンガラガッシャンという派手な音がドアの内側から聞こえてきた。
え?まさか?おれのせい?驚きながらも心配になり、「センセイ?」と声をかけながらドアを開けた。ドアの内側では緑髪の体格のよい男が「いてて…」と唸りながら倒れていた。「大丈夫ですか?」「大丈夫、気にするな」男はゆっくりと上半身を起した。左胸、心臓のあたりに手をあてている。まさか心臓が?近寄ってセンセイの様子をみようとした途端、足元で何かがパリンと割れた。倒れた拍子に落としてしまったらしい眼鏡を気付かず踏んでしまったのだ。サンジが焦って壊れた眼鏡を拾おうと伸ばした手を「触るな」と男が掴んだ。「割れたガラスで怪我したらどうすんだ。ほっとけ。後で片付ける」。そういうわけには……。でもセンセイの具合の方が優先だ。サンジは男の傍に屈みこんだ。「どうしたんですか」「いや、ちょっと転んだだけだ。心配しなくていい」「まさかセンセイ、心臓が悪いんですか?」「心臓?」「さっきから胸に手をあててます。痛いんじゃないですか」「ああ、いや、いつものことだから気にするな」「いつも?ダメじゃないっすか。救急車呼びますよ」「いらん」「おれは看護師ですよ、見過ごしたりできません」。サンジがきっぱりした態度で言えば、「では、きみに治療をお願いしよう」そう言って、男は先程から掴んだままのサンジの手をぐいと引いた。その勢いで玄関の三和土に座り込んだ男の上にサンジは倒れ込んだ。「センセイ?」問うように顔を上げれば、どきりとする程近くにゾロの顔がある。急に接近した距離に狼狽えて逃げ腰となったサンジの身体にゾロは腕をまわした。「この距離でないときみの顔がよく見えないのでね」。壊してしまった眼鏡を思えば、その腕の中から抜け出せない。改めて相手の顔に目をやると、今までついぞ見たことのない裸の視線がサンジを捉えた。強い眼差しは雄弁だった。眼鏡というガラス越しの視線はずいぶんと沢山のものを隠していたのだと、その瞬間悟った。「きみに撃たれたここが痛い」男は自身の左胸を指した。「必要な手当てを」。サンジは恐る恐る自分の右手を男の左胸に当てた。上質なスーツの生地越しに男の心臓が強くはねたのが分かった。「かなり重症だろう?きみが原因だ。何もかもきみのせいだ」「センセイ…」「看護師がセンセイと呼ぶ相手は医者だろう?わたしは医者ではない。きみの患者だ。呼ぶときは名前で呼んでもらおうか」「……ゾ…」。名前を最後まで呼べなかったのは、サンジが呼ぶ自分の名前を、男が耳ではなくくちびるで直接聞こうとしたせいだ。それだけはサンジのせいではない。

 

 

end