小数点以下

朝から調子が悪かった。なんだか身体がダルい。今日はとっとと切り上げて定時で帰りたかったのに、夕方に予定されていた会議が思いのほか長引いた。配布された資料の数字に間違があって修正に時間をとられた上に、目標設定の部分で、購買担当と営業担当が、お互い自説を固持してひかなかったからだ。結局、ああでもないこうでもないと、参加者全員で額をつきあわせて話し合い、なんとか妥協できる目標を設定出来たころには、終業時刻をとっくに過ぎていた。

会議室から解放されて自席に戻ると、フロアにはもうほとんど人がいなかった。ただでさえかったるかったのに、締まらないミーティングのせいで疲れ倍増だ。メールチェックして、急ぎの件だけ片付けて帰ろう。でもその前にトイレだな。

用を済ませて手を洗っていると、隣の課に所属する同期のマリモが入ってきた。むろん、マリモという名前ではないが、ミドリの短髪の頭がどう見てもマリモにしか見えないのでそう呼んでいる。

「お疲れ」
「おう、お疲れさん」
反射的に挨拶の言葉を投げ合う。コイツも残業組か。ご苦労なこった。
ぼーっとしながら温風機で手を乾かしていると
「おまえ、具合悪いんじゃねえか?」
と声をかけられた。

「え?」
思わぬ言葉にちょっと驚く。社会人たるもの、体調管理は自己管理の基本だ。基本も出来てないヤツと思われたくないから、体の調子が悪いなんてことを表に出すような情けないマネはしねぇ。その証拠に、今日一日、間近で働いていた同じ課の連中や、さっきまでずっと会議室で議論していたメンバーの中に、おれに向かってそんなことを言ってくる人間はいなかった。少なくとも、人目のある場所ではしゃんとしていたはずだ。それが、マリモなんかに、どうして見抜かれたんだ?しかも、こんな一瞬で?接点なんてなかったはずなのに?

「いや、べつに」
おまえの気のせいだろ、という意味を込めてそっけなく答える。ライバルでもある同期に弱みを見せるのは癪だ。マリモ如きに見破られるようなヘマをしちまったとしたら不本意だ。それでも、心のどこかで(コイツ、そんなことに気付くなんて、おれのこと良く見てやがるなー)となんだか嬉しいような気持ちになったのは、多分、精神的に疲れ切っていたせいだと思う。

「熱があんじゃねえのか?」
マリモ野郎は、おれの答えに頓着せずに、あろうことかおれの額にヤツの手を当てた。
「何すんだ?!」
びっくりして声をあげたが、
「熱を確かめてる」
そんな一言で、おれの抗議は受け流された。いやいや、おかしいだろ。同期とはいえ、たいして親しいわけでもないのに額に手?何だコレ?おれが頭の中に疑問符を大量生産しているうちに、ヤツの大きな手が離れていった。額から不意に消えたぬくもりに、ホッとしたような、ちょっと残念なような気持ちでいると、マリモの顔が近づいて、ん?と思う間もなくゴチンと額がぶつかった。

「ななな何すんだ!」
「熱あるぞ。37度ってトコだな」
何すんだ!を不服申し立てとしてとらえず、純粋に「何をしているのか?」の意味に受け取った朴念仁な男は、おれの様子を気にも留めずにあっさり答えた。意味がわからねぇ。何だコイツ。半ば呆然としていると、マリモはミドリの頭の後ろをバリバリと掻きながら、
「あー……なんつーか、自分でもよく分からねえんだけどよ。特技っての?体温あてられるんだよ」
と言いやがった。

バッカじゃねえの、なんつー特技だ。特技の風上にもおけねぇ。37度程度なんて適当すぎンだろが。そんなの誰でも分かるこった。特技とは言えねえだろが!せめて、小数点以下まで当てることが出来たら特技って言えよ。アホマリモ!

ツッコめる所すべてにツッコミを入れ、一気にそうまくしたて、でも最後にはなんだか思いっきり笑ってしまった。余りにもアホらしかったからだ。疲れていてハイになっていたせいもある。

「小数点以下?できるぞ」
特技を笑われたと思ったのか、マリモが憮然としたカオをする。
「人間体温計かよ、マリモちゃんよ」
からかうおれにマリモの顔が再度近づく。こいつバカだなーと思いつつ額にうける衝撃に備えてちょっと身構えると、不意にマリモの顔の角度が変わった。ん?と思った時には、額の代わりに唇が合わさった。思わず、え?と開いてしまった口へ、マリモの舌が侵入する。な。なななななな、何すんだ、ちょっと、おま……。足元のふらついたおれの身体にマリモは腕を回してがっちりと支えた。ひとしきり口内を探るようになめまわした後で、微かな音とともに唇が離れた。

「37.2度。おまえ、やっぱり熱あるな」
放心して声も出ないおれに向かって、にやりと笑ってマリモが言った。
「デコより口ん中の方が正確な数字が分かるからな。……おまえ、さっきより熱が上がってるぞ」

ああああアホ―!当たり前だ、オマエのせいだ。オマエが元凶だ。オマエが熱を上げてんだ!
心の中ではそう怒鳴っているのに、想定外の出来事に混乱し過ぎたせいか、本調子でなかったせいか、口がパクパク動くだけで言葉は声にならず、しかも、何かあった時には反射的に蹴りを繰り出すはずのおれの足も微動だにしなかった。

おれが動けないのをいいことに、マリモが耳元で囁いた。
「おまえの体温、小数点以下第二位まで当てることができるぞ。当ててやろうか」

どうやって?
反射的に聞こうとして、よくない予感に口をつぐんだ。

おれだって知っている。普通、体温を測るのは、脇の下、おでこといった体表だが、より正確に測る場合は体内の温度を直接計測するのだ。口の中とか尻の中とか口の中とか尻の中とか……って口の中か尻の中の二択じゃねえか!!

おれは激しく首をふった。
これ以上、検温されて熱があがったらおれは死ぬ。

当てなくていい!
おまえの特技はもう十分理解した。小数第二位までわざわざ測らなくても、おまえの特技は分かったから。うん、すげえ特技だよ、認めるよ。だからベルトに手をかけるのをやめろ!マジでやめろって!おまえ、どこに何を入れる気だ!?ホント、やめろ!!……せめて今日のところは、小数点以下は第一位までで勘弁してください……。

 

 

 

 

 

end