デファクトスタンダード

 「ああ、クウォーティ配列な。」

翌日、会社でプレゼン資料を作っている時にPCを見て思い出し、前の席に座っているエースに聞くとあっさりとそう言った。

「く…?」耳慣れない言葉に聞き返すこともできない。
「ほらここ、キーボードの左上、QWERTYって読めるだろ?このアルファベットの配置をクウォーティ、あるいはクワーティ配列という。」
「へえ。で、この順番に何か意味あんのか?」
「ない、と思う。多分。気付いたら、これが普及して標準になってた、ってヤツじゃね?」
「そんなことがあんのか?」
「世の中そういうの結構あるだろ。公的機関みたいなトコが認定したわけでもないのに、いつの間にかスタンダードになっちまうってことがさ。」
「理由がねえのに?」
「そう、理由がないのに。」そこでエースはにやあと笑った。「で、どうしてロロノア君はそんなことが気になっちゃったのかなあ?今まで気にしたこともないのに?」
「理由はねえよ。」
「あるよねえ?」ニヤニヤ笑いを深めながらエースが言う。「サンジ絡みかなあ?」

いきなり切り込んできた。
エースと言う男は、実に抜け目がなくて頭の回転がよく、物知りで仕事がデキル男なのだが、とにかく食えなくて腹の立つ野郎だ。一方でおれとコックの事情をよく知る人間で、頼りにもなるし味方でもある。腹がたつからといって無碍にするわけにもいかない。

「あー、ハイハイ。」どう考えても、おれの方の分が悪いので、とりあえず肯定だけしておく。
「なになに?AとSが仲良く隣同士に並んでるのを見て、おれに運命感じちゃったサンジに、ロロノア君はジェラシー?」
「あ?!」改めて手元のキーボードを見ると、確かにエースの言う通り二段目左端が面白くない状態だった。
「ロロノア君を踏みつけて、おれとサンジは二人で幸せになっちゃおうかなあ?」おれが上手く反論できないことを知っていてこういう事を言う。
「理由のない配列ごときに左右されねえよ。」

「そうだろうけどさ。」エースの表情が皮肉気なものに変わる。「サンジ、この国に来て半年だろ。今の生活にだはいぶ慣れてきただろう?ホラ、新しい生活を始めたばかりの頃ってのは、とにかくやること覚えることが多くって一生懸命だから、あれこれ考える暇もないけど。」エースの表情が死ぬほど癪にさわる。

「慣れてきて少し周りを気にする余裕が出てきた今頃って、これでいいのかな、って思う時期でしょ。おれのパートナー本当にこれでいいのかな、とかね?」

ムカつく。本当にムカつく。

「サンジは色々考えるタイプなのに、おまえは言葉はいらねえ、理由なんていらねえって説明しないタイプだし?ああ、かわいそうなサンジ。」

殴りてえ。つーか、殴ってもいいだろう。拳を固める。

「ところで。」エースががらりと表情と口調を変えた。ごくたまに見せる真面目な顔をする。
「このクウォーティ配列のようなものを『デファクトスタンダード』すなわち事実上の標準という。」ハナシの展開に全くついていけない。キツネにつままれたような気持ちで、とりあえず殴るのをやめる。

「公的承認もないのに市場の実勢で決まってしまった基準、気がついたら当たり前になっちまったってことを指す。」エースのハナシの行きつく先がまるで見えない。でも多分、おれとコックにとって何か意味のあることを言うのだろう。

「世間的にみてサンジの存在はマイノリティだ。外国人。同性のパートナー。一般的じゃない。」
またハナシが跳んだ。
だからどうした、とおれは言いたい。そんなの分かってるし、一般的じゃなくたって気にしない。世間で認められようが認められまいが関係ない。エースからそんな差別めいた発言をされたことなんて今までなかったので怒りよりも困惑する。

おれのカオを見て、エースの表情が少し緩んだ。

「一般的じゃないけど、このキーボード配列みたいに、なんだかよく分からないことであっても、ずっと長く続けていけば受け入れられることだってあるだろ。メジャーになって標準になることだってあるだろう。おまえらの関係だって、いつかはきっと認められてスタンダードになるさ。少なくともおれはそう思ってる。」

その発言の思いもよらない終着点に心の底から驚いた。おれたちの事についての数少ない理解者であっても、いつもは茶化したりからかったり皮肉気だったり醒めた態度をとったりで、直接的な表現で励ましたり気遣ったりはしないからだ。

驚いて、それから少し考える。今のエースの言葉の理由。昨夜のコックの言葉の理由。おれはどうすればいいのか。

おれは改めてキーボードを見た。ZとSがくっつくようにそばにいる。これがスタンダード。これをスタンダードにする。事実上の。

「悪かねえよな。コックがおれの上に乗っかってる。」
「おまえバカじゃねえの。さっきも言ったろ?サンジはオレの隣に並んでて、おまえはおれの足元に屈してるんだよ。」

やっぱり腹がたつ。ムカついたのでキーボードからAを取り外しエースに投げつけてやった。
エースが笑いながらひょいと身をかわし、Aは軽い音をたてて床に転がった