おれは言葉が足りなかった。
もともと口下手で、その上コックとは言葉が通じないところからスタートした。言葉が通じなくて相手の考えなんてさっぱりわからなかった。それなのに気持ちは通じた。言葉なんていらないんだ、そう思った。だからますます言葉で伝えること、説明することを疎かにしていた。それは手抜きと同じだったんだ。
おれはコックに言葉で説明しなくてはならない。
言葉の壁、文化の壁、外国人と暮らすこと、同性を伴侶とすること。理解できないような理不尽で無秩序なことも多いのに、文句も言わずに着実に自分の中に取り込んで乗り越えようとしているコックに。
コックと一緒にいることを当たり前のこととしたいのならば、その苦労はおれが半分負うべきものだ。考えたって仕方ねえことはたくさんある。でもおれと違って考えるタイプのコックがいろいろ抱え込むのを、つまんねえこと考えるなと言ってしまうのは、おれが勝手すぎるということなのだろう。
「分かったぞ。」家に帰ってからコックに言った。
「何が?」
「昨日おまえが言ってたPCのやつ。」
コックはちょっと考えたようだった。それから呆れたように言う。
「おまえ、ホント説明が下手だな。そんな言われ方したって、わかるヤツいねえぞ。」
足をすくわれるような事を言われて一瞬怯む。でも言わなければならない。
「あれは、意味のない配列なんだ。」コックが黙っているので続きを口にする。
「でもいつの間にか世の中のスタンダードになっちまったんだ。そういうのをデファクトスタンダードって言う。」教えてもらった話をする。
「納得できなくても、理由なんてなくても、どう思われようとも、ひとつひとつ事実を重ねて慣れて当たり前のことにしちまえばいいんだ。」エースが言ってたハナシとは、ちょっと違う気がしたが、まあいい。おれがコックに伝えたいことは、キーボード配列のことではないのだ。
おれは言った。
心配するな、不安になるな、一人で抱え込むな。
おれと過ごす日々を積み重ね、慣れて当たり前のことにしてしまえばいい。初めは違和感をおぼえることであっても繰り返せばそれはみんなに当たり前のことだと思って受け入れてもらえる。それが事実になる。
それまでは目の前のおれのことだけを考えろ。
おれとの事実だけを積み重ねろ。Zの上にSを積み重ねるように。
そうしていけば、それがいつかスタンダードになるんだ。
だから。
「だから。」ごちゃごちゃ考えるな、そう続けようとしてハッとした。言葉が止まる。
「だから?」コックが先をうながす。
おれは言葉に詰まってしまった。考えるな、なんてこれじゃ結局いつもと同じじゃねえか。しばし沈黙がおりる。
それを破ったのはコックだった。
「『あんまりごちゃごちゃと考えるな。』?」コックが含み笑いしながら言う。
「う…。」
「しゃーねえなあ。考えるなって言葉、おまえの方が必要じゃねえか。あんま考えるなよ、無い頭で。しかも、べらべら似合わねえこと語りやがって。」
小憎らしいことを言う。
「前半はどうせエースから仕入れた薀蓄だろうが。」
見透かされている。やっぱり言葉で説明なんて慣れないことをするもんじゃねえな。
「でも。」温かなコックの腕がのびてきて、おれの頭を抱えこむ。「ハナシの後半は悪かねえな。」柔らかい声だった。
「悪かねえよ。」言葉を使うのも満更でもねえと思える響きだった。
おれはそれを聞いて許されたような気持ちになり心置きなく自分の得意分野に持ち込むことにした。
Sの下、足元に跪くのも尻に敷かれるのも悪くない。
end