ファーストインパクト

 

入った大学に後悔はない。

ただ、女性とこれほどまでに縁遠くなるというのは誤算だった。理系は男が多いと知っていたが、学校全体で考えれば女性の比率は高いから大丈夫だろうと思っていたのだ。それに理系男子はモテると聞いていたし。しかし、そもそも出会う機会がなければモテるはずもなく、サンジのアテはすっかり外れた。入学したての1、2年次はまだよかった。教養過程においては、選択した科目次第で他学部の女の子たちと授業が一緒になることもあったし、何より授業棟には女の子たちの華やかな姿があった。それが3年次に進級し、専門課程に入ったとたん、キャンパスライフは無彩色だ。サンジの所属する理学部は、広いキャンパスの奥、まるで追いやられたような場所に研究室を擁する授業棟が配置され、他学部の学生たちとの交流など望むべくもない。同じ志を持った者だけでひたすら勉学に励むべし、という学校側の思惑なのかもしれない。一理あるが一理しかないと思う。むろん、女の子だっている。いるけれど絶対的な人数が少なくて日々の彩りに欠けると言わざるを得ない。

授業の合間、サンジは校舎の裏手にある池のほとりへ足を向けた。
池の周りは公認の喫煙場所ではないのだが、携帯灰皿できちんと火の始末をすることを条件に喫煙が黙認されている。空気清浄機がうなる味気ない喫煙場所へ行くよりも、戸外で吸うのが好きなサンジは、今日もお気に入りの場所で煙草に火をつけた。

水辺は好きだ。理由は分からないが気持ちが落ち着く。それから植物も好きだ。どういうわけか興味をひかれる。水も植物も、生物にとってなくてはならないものだからだろうか。

サンジは煙を吐き出した。
空気中に拡散していく紫煙ごしに、池の向こうに鬱蒼と広がる雑木林をぼんやり眺める。自然の丘陵をそのまま生かして作られた広いキャンパスの一番奥に位置する校舎の、さらに裏にある池の辺りを訪れる人はほとんどいない。人影のない場所は、物思いにふけったり、疲れた頭を休めるのにおあつらえ向きだ。聞こえてくるのは、雑木林を渡ってくる風の音と葉擦れの音、そして校舎から微かに漏れ聞こえてくるざわめきくらいで実に静かだ。

そういえば、あの生い茂った雑木林には結構な種類の生き物が生息しているという話で、タヌキや栗鼠、野ネズミといった小動物は言うに及ばず、この間は鹿が出たとかなんとか。(あれは角の形から言ってはトナカイだという輩もいたが、さすがにそれは嘘だと思う)

―― まあ、この際、鹿でも狸でもなんでもいいけどよー。どうせなら可愛げのある生き物にお目にかかりたい。レディとまでは言わないが、何かこう、愛でる対象になりそうな……そうだな、たとえば……たとえば……森の精とか?


(ははは、あほか、おれは)
自分の発想に自分で突っ込む。疲れてるにちがいない。一服を終え、吸いさしを携帯灰皿に押し込んでいると、池の左側の藪が激しく揺れるのに気が付いた。揺れ具合からいって自然現象などではなく、別の物理的な力が働いていると思われる。動物だとしたらかなり大きな生物だろう。

―― ひょっとして、これが噂の鹿か?もしそうなら、真昼間に行動すんのは珍しいんじゃねえか?鹿ってのは夜行性だよな?

内心首をかしげつつも、観察するつもりで藪を見つめるサンジの目の前に現れた生物は、ヒトの形をしていた……ような気がした。

ような気がした、と推測形なのは、森から出て来た物体は、それと確かめる間もなく、ごろごろごろぼっちゃんと派手な音をたてて池へ転がり落ちて見えなくなってしまったからだ。

―― 何だったんだ、ありゃあ……じゃなくて。助けが必要だよな。

助けるために、着ていた白衣を脱ごうとサンジがボタンに手をかけた時、ざばあっという水音とともに、それが姿を現した。

―― こ、こいつァ……。

サンジは言葉を失った。池から現れたのは人間で、見たこともない、そしてあり得ないような姿をしていたからだ。水に濡れた身体に木の葉や小枝をまとわりつかせ、ガタイのいい体の上に乗っかってる頭部からは絡みついたつる状の葉がだらん長く垂れている。しかも何より驚くのは髪の毛の色だ。緑だ。

―― 緑の精霊?いや、森の妖精?(男だけれど)

サンジの胸は高鳴った。いやいや、違う違う。そんなはずはねえ。気持ちを落ち着かせるために新しい煙草を口にする。えーと、まずは安否確認を。

「おまえ、大丈夫か?」

声をかけると、それは初めて気づいたようにサンジを振り返り、それから鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきになった。よくよく見れば普通の人間の男だ。相手の目を丸くした表情が可笑しくて、サンジは思わず笑顔になって話しかけた。

「その池な、でっけえ鯉がいんだけどよ、すげえ凶暴なんだよ。悪いこと言わねえから、襲われないうちに早くそこから出た方がいいぞ。気ィつけろよ」

見る限り、怪我もしてないようだし、助けはいらないだろう。それにしたって、どんな経緯で森から池へダイブするはめになったのか皆目見当もつかない。変なヤツ。

サンジの言葉に反応するように、男は急いで池から上がるとズカズカと大股でサンジへ近づいてきた。

「何だよ?」
ぽたぽた垂れるしずくをものともせず、文字通り鼻を突き合わせる距離で、無言でサンジの前に立つ男に尋ねる。近すぎる。何がしたいのだろうかと不審に思ったとき、あろうことかその男はサンジの両手を握りしめて言った。

「好きになった。結婚を前提につきあってくれ」
「言ってる意味がわからねえ!!」 

サンジは男を蹴り飛ばした。

ぼっちゃん。

 男は池に逆戻りした。 

―― なんだありゃ、なんだありゃ、なんだありゃ。

あまりにも衝撃的な男の出現と様相と言動に、胸の動悸が収まりそうにない。驚愕なのか怒りなのか、高ぶった感情に合わせて逸る鼓動を無理矢理静めるようにサンジはギュッと自分の胸元を押さえた。

―― もし次に会う機会があったら、正体を確かめて、でもってオロス。

サンジが心の中で強く誓ったのと、何かが水中から出てくる音がしたのはほぼ同時で、次の機会は意外とすぐにありそうなのだった。

 

 

 

end