learn by heart

 

   誕生日に思いがけなく気持ちが通じて、サンジは弁護士のロロノア先生とお付き合いをするようになった。付き合い始めの今はまだ、知らないこともできないことも多くて、なんとなくぎこちない。たとえば、ロロノア先生のことは「センセイ」ではなく「ゾロ」と名前で呼ぶようにとサンジは言われているが、恥ずかしくて呼べない。いまだにセンセイと呼びかけている。言葉遣いだって、もっとフランクな物言いで構わないと言われているが、今までの癖はぬけずに、中途半端に丁寧だったりする。それでも、仕事が休みともなれば、サンジはロロノア先生と一緒の時間を過ごすために、家へ遊びに行くようになった。着実に距離は縮まっている。

  サンジが行くと、センセイは仕事をしているか(仕事熱心なのだ)、庭で竹刀を振っているか(かなりの腕前らしい)、昼寝をしているか(割合としてこれが一番多い)のいずれかだが、今日は仕事をしていた。

  仕事を中断しようとするセンセイをサンジは押しとどめた。

「仕事はちゃんと終わらせてください。じゃなかったら、おれ、センセイの家にもう来ませんよ」

―― おれのせいで仕事が滞るだなんて以ての外。

別に何かしなくても一緒の空間にいるだけで嬉しい。というか、余りにも近づきすぎると、心臓がドキドキする余り倒れそうになるので、かえってこの位の方がありがたい。

広いリビングに置いてある3人掛けのソファにサンジはちょこんと腰かけた。書斎とリビングを隔てるドアは開け放したままになっており、デスクに向かい何やら調べ物をしているセンセイの後ろ姿が見える。

―― 仕事に打ち込む真剣な姿っていいよな。おれも頑張らなくちゃな。

この時間を有効に使おうと、サンジは鞄から参考書を取り出した。駆け出し看護師のサンジは勉強しなくてはならないことが多い。学校に通っていた頃は、頭が痛くなるほど勉強したが、あれは最低限の知識であって実地は違う。学生の頃は、苦手なことから逃げていても困るのは自分だが、看護師として働き始めた今、サンジの勉強不足のせいで困るのは患者さんなのだ。良い看護をしたかったら、知識と技術を身に着けなければならない。日々勉強なのだ。

「熱心だな」
センセイがサンジの背後からのぞき込むようにして声をかけた。
「終わり、ですか?」
「終わったよ。きみが待っていると思うとすこぶる捗るよ」
「はは、そんなことは」
真顔で口説き文句まがいのことを言われても、なんて返事をすればよいのか分からない。肯定も否定もできないサンジの曖昧な相槌をセンセイは真に受けた。
「事実だ」
今度こそ本当に返事のしようがない。センセイはこうしてしばしば、返答の難しいことをさらっと言うので困る。

センセイはサンジの隣にゆったりと腰を下ろした。
「何の本を読んでたんだ?」
センセイに訊かれたサンジは本の表紙をセンセイに見せた。

『宇宙一わかりやすい心電図』

「ちょっと勉強しなくちゃならなくって。苦手だけど早く一人前になりてえから」
「いい心がけだな。頼もしい。医療は日進月歩だから勉強も大変だな」
「でもなー。おれ、頭よくないから、記憶力無くてさ。なかなか覚えられなくて。センセイも法律とかたくさん覚えてるんだろ?どうやってるの?コツとかあんの?」
「いや、とくに。集中して何度か繰り返して読む。それから寝る。そうすれば覚える」
「ええ?それだけ?ずりィよ。やっぱ頭いいんだなあ、センセイ」
センセイとの差が歴然としたような気がしてサンジは少ししょんぼりした。
「記憶のスタイルは人それぞれだ。頭は関係ない。きみはまだ自分に合った記憶法を見つけてないだけだろう。いろいろと試してみるといい。まあ、一般的には、頭だけでなく体を使った方が覚えやすいと言うが」
「体?体で覚えた方がいいの?」
「そうだな」

―― 見るだけで覚えるよりも、書いたり聴いたり音読したりする方が効率いいだろう。

そう言おうとしたセンセイは、目の前の光景に絶句した。

サンジが着ていたポロシャツの裾を胸元までめくり上げたからだ。何の前触れもなく、目前に露わになった滑らかな白い素肌に、センセイは唖然として固まった。しかしサンジはそんなセンセイの様子には全く頓着する様子もなく会話を続けた。
「おれだって体で覚えようと思ってさ、こうしてるんだ。ほらここ!」
サンジは自分の胸を指差した。平らかできめ細かい肌の胸の真ん中辺りに、点々と×マークが星を散らしたように印されている。

「これ、心電図をとるときの電極の貼り付け部位なんだけど、おれまだ覚えきれてなくてさ」
邪気などまるでなく、ただ強い向学の念に駆られるままに一生懸命語るサンジの手をセンセイは抑え込んだ。
「……きみの熱意と努力はよく分かった。分かったが、ちょっと待ちなさい。これは一体どうしたんだ?」
「だから、6つある電極の装着位置を覚えるために自分で書いたんだって……」
「これもそうか?」
センセイはサンジの左乳首の少し下、やや中央よりに書かれた『緑』という文字を指差した。
「きみの字ではないようだが」
「ああ、これ。おれが位置を覚えられずにモタモタしてたら先生に書かれたんだよ。自分の体を使って覚えとけって。ここは緑の電極なんだ」
センセイの眼鏡が部屋に差し込む日を反射して光った。目が光ったようにも見える。

「先生とは」
「最近、週2で来るようになった医師。循環器……心臓が専門でその方面では有名らしくてさ、そういう患者さんが増えたんだよ。でも、ウチの診療所は技師もいねえし、おれが手伝うしかなくて。そいつがおれに『十二誘導くらい一人でとって少しは読めるようになっておけ』って。まあ、まだ読む以前のレベルだけどさ」
「ほう。ということは、その男性医師のために勉強をしていると」
「違う違う。おれ、この間、電極の位置を間違えちまって心電図がうまくとれなくてすげー怒られたんだよ。結局、とり直しでさ。そういのって患者さんにも迷惑がかけちまうだろ。だから、早く一人でちゃんと出来るようになりてえなって」
「だからといって、きみの体に勝手に書いていいものではないだろう。破廉恥極まりないセクハラ医者だな。優越的地位の濫用も甚だしい」
「え?こんなこと、どうってことないよ。おれ、気にしてないし。それにやっぱ、男の看護師って、こういうところ遠慮がないっていうか。学生時代の実習の時も、おれなんてしょっちゅう脱がされて被験体にされたもんな。ほら、レディを脱がすわけにはいかないだろ?」

「消しなさい」
きっぱりとした口調でセンセイが言った。なんとなく怒っている風に見える。
「え?」
「今すぐ消しなさい。他人に書かれたものをいつまでも残しておくものじゃない」

―― 自分の勉強なんだから、復習しながら自分で書けってことか。

サンジがそう思っているうちに、センセイはすばやく濡れたタオルを持ってきて、いささか乱暴なほどごしごしとサンジの皮膚をこすると、書かれてあった文字やマークを全て跡形もなく消してしまった。心臓の上に記された『緑』という文字は、密かにサンジの気に入りだったのだが。

「よし。さあ、あらためて勉強を」
有無を言わせない様子でセンセイがサンジに参考書を差し出した。
「えっと…」
サンジは中途半端にめくりあがった洋服のまま、本のページを繰った。その様子を見ていたセンセイが思い付いたようにサンジに告げた。

「それじゃやりにくいだろう。脱いだらどうだ?」
「脱ぐ?ここで?」
「ここにはきみとわたししかいないのだから、恥ずかしいこともないだろう」
「いやあの、センセイだから恥ずかしいっつーか」
「患者は裸の上半身を医師や看護師に晒さねばならないということを考えてみたまえ。きみが恥ずかしいと言っている場合ではない。よりよい医療を提供するためには、患者の気持ちになって考えてみることが大切だろう。だとすれば、患者と同じ状況に身を置くのも必要だと思うが」
「そうか。そうですよね」

―― さすがセンセイは考えが深いな。やっぱり、すげえ。

感嘆の念を抱きながらサンジは着ていたポロシャツを脱ぎ去った。バランスのよい骨格に、しなやかな筋肉の乗った、若い男性のものとして理想的に美しい裸の上半身が現れると、センセイは我が意を得たりとばかりに満足げに頷いた。
サンジは参考書を片手に、ソファに座りなおすと自分の胸元を探るように指先でなぞり始めた。ここが胸骨角で、ここが第二肋間だから……小声で呟きながらサンジが白い繊細そうな指で己の胸をひとつひとつ確かめるように辿るのをセンセイは無言で見守った。
しばらくしてサンジがボールペンで自身の体にマークを入れようとした段になって、センセイが口をはさんだ。

「ボールペンはよくないだろう。やめた方がいい」
「でも、書かないと覚えられねえし、他に書くもの持ってねえし。油性はヤダし」
「では、これにしておきなさい」
センセイはどこからか筆ペンを持ち出し出してきた。確かに墨であれば人体に悪影響はないだろう。サンジは筆ペンを受け取ると、体に書き込みを始めた。当然のことだが、自分の胸に自分で書くのはやりにくい。単純な印はともかく、文字となれば難しい。

「手伝おう」
センセイはサンジの手から筆ペンと参考書をとりあげた。
「え、そんなことセンセイにさせられないよ。おれの勉強なのに」
「遠慮はいらない。きみの勉強の手伝いをさせてもらえるのは光栄以外の何物でもない。さあ、きみが書こうとしてたのはどこだ?」
「あの、この赤のV1ってところから」
「ふむ。なるほど。ということは、まずは胸骨角……」

サンジの身体の真ん中、胸骨のでっぱりにセンセイの温かな指先が触れた。その指が、肋骨の窪みを数えて辿りながら第四肋間まで下がる。

「センセイ、そこです。そこが赤です」
言われた通りにセンセイが丁寧に『V1 赤』と書く。
「あ、ちょっと…」
センセイの手がもたらす冷たい墨をふくんだひやりとする筆の感触にサンジはびくりと身を震わせた。緊張のせいなのか、センセイにやってもらうのは、自分でやるのと感覚が違う。
「センセイ、くすぐってえよ」
サンジは笑いながら身をよじった。
「じっとしていなさい。文字がぶれてしまう」

センセイがサンジの腕を掴んだ。真剣な表情のセンセイは格好いいなあと思わず見とれてしまった。
「何か?」
センセイが顔を上げてサンジに問うた。
「いや、なんでも」
サンジはごまかした。格好いいから見惚れてましただなんて恥ずかしくて言えない。黙っているのも間がもてない気がして、サンジは見たままを口に出した。
「センセイ、字、きれいですね」
「そうか?自分でそう思ったことはないが」
謙遜している風もなく、自分のことには全く興味がありませんといったセンセイの様子にサンジはむきになった。
「きれいですよ!」
「きれいという形容が似合うのは、きみの身体のことだろう」
サンジの言葉を軽く受け流すどころか、とんでもないことまで言われ、サンジの心臓は大いにはねた。血が巡って一気に体が熱くなる。サンジは照れるを通り越して赤面した。すぐに赤くなった顔に遅れて、白い体にもうっすらと血の色が差す。心なしか肌もしっとりとしてきたようだ。
センセイは参考書を読み上げながら、次なる場所を指で探ってはゆっくりとサンジの肌に筆ペンを滑らせる。筆の柔らかなタッチやセンセイの掌の感触にサンジはくらくらしてしまい静止していることなどできなくなってしまった。自分の身体を支えるために、サンジはセンセイに縋りつくようにつかまった。

「どうした。しっかり覚えなさい。」
「あの、ちょっと立ってられなくて」
「ああ、わたしとしたことが気付かなくて申し訳ない。そこに横になりなさい」
センセイはサンジを支えてそっとソファに横たえた。
「患者と同じシチュエーションとなるためには、仰向けに寝てもらうのが当然だったな」

優しく丁重な言い方でセンセイは作業を続けた。時折、サンジの手をとって一緒に体をなぞらせて正しい場所を確かめさせたり、ここか?と確認してきたり。しかしながら、度々、参考書には載ってない不適切な場所への不埒な手の動きがあったりしたような気がするし、所々、みだりがましい振る舞いを受けたような気もするし、重ね重ね、くちびるも重なり舌も絡まったような気がする。

覚えなければならない電極の位置は手足と胸部を合わせて十ヶ所なのだが、センセイが丁寧であったがために思いのほか時間がかかり、全てを終える頃には、サンジは息も絶え絶えとなってしまって暗記するどころではなかった。

「ごめん、センセイ。せっかく手伝ってもらったのに、やっぱり、おれ、頭わりいかも。なんか全然覚えられない…」
 潤んで霞む目でセンセイを見上げながらサンジが言えば、労わるようにセンセイが応えた。
「気にするな。記憶の定着には反復が有効だ。一回では覚えられないのも無理はない」

それから黒板消しで文字を消すように、センセイは濡れタオルでサンジの肌の上の印と文字を拭い去った。再び現れた白く新しいキャンバスを前に、センセイは宣言した。

「では、もう一度最初から」

その後、もう勘弁してくださいとサンジが音を上げるまで勉強は続けられたが、結局サンジは覚えることはできなかった。

一方、ロロノア先生は十二誘導心電図の電極の装着位置を完璧に覚えたのだった。

 

 

 

 

 

end

 

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タイトルは『記憶する』の意。
「by heart」が「そらで」「暗記して」の意味なので、『learn by heart』で「心臓で暗記する」「ハートにきざむ」といった感じなのかなと勝手に想像。