les saisons

炉辺で暖をとりながら思いをめぐらす
夜が薄明りのうちに静かな喜びのひと隅をつつむ
囲炉裏の火は小さくなり
ろうそくはとけてしまった

『一月』

 その洋館は突然の目の前に現れた。

 今まで見たこともないようなつくりの大きな建物だ。敷地の周りは鉄製のフェンスとあまり背の高くない木々で取り囲まれ、それもところどころ錆びたり枯れたりしている。手入れがされてるとは思えないようなさびれてわびしげな様子だが、人を拒むような恐ろしげな雰囲気は不思議と無かった。

 くすんだ色合いの石造りの建物は、窓が少なく中の様子は全くうかがいしれない。
ただ、中から何か音がきこえる。異国風の音楽だ。聞いたことのない調べにゾロは思わず足を止め、その音楽に聞き入った。

 寒い冬の夜、あたたかな部屋でひとり静かにあれこれと思いをめぐらしているかのような。外は厳しい寒さだけれど、暖をとるために熾した炭火や焔がちろちろと形を変える姿を飽かずに眺めるときのような。

 建物の厚い壁に阻まれいるせいで、音はくぐもって聞こえてくる。

 それでも生まれてはじめて聞く音楽は、やわらかく優しく響き、大げさなところのない穏やかな曲にまるで傍においでと手招きされているようで心が動く。

 音に誘われるように、錆びたフェンスの隙間からするりと敷地の中へ入った。誰かの家だということはあまり考えなかった。行きたいから行く。それだけだ。この音の元をつきとめたい。誰がこれを演奏しているのか正体を知りたい。そんな純粋な好奇心がゾロを動かした。

 洋館に沿って歩き角を曲がると庭が広がっていた。音が少し大きくなる。庭を横切りながら耳をすませ音のしてくる方向を探る。音がだんだんと大きくなってくる。音源に近づいているということだろう。

 一番はっきりと聞こえてくる場所の窓から室内を覗くことができそうだ。

 窓枠につかまり、精一杯背伸びしてようやく部屋の中の様子が見えた。

 部屋の奥の方に黒くつややかな大きな楽器が置いてある。優美な曲線を描く船の帆を髣髴とさせる形のふたが片側だけ大きく開いており内側はにぶい金色をしている。

 そして、同じ金色と呼ぶのがためらわれるような鮮やかな金色が見える。それは演奏している男の髪の色だった。鮮やかで、それでいて日の下に出してしまえばすうっと溶けてしまいそうな儚さもたたえて。

 ゾロは背伸びするつま先の痺れも、窓枠につかまる指先の痛さも忘れて室内の光景を見つめた。

 ちょうど真横から演奏している男の姿を見る形になり、こちらに右側を見せている男の表情はまったく分からない。
 わかるのは、しなやかな腕の振りと、ひらりと揺れる手、鍵盤の上を流れていく指先。曲にあわせて歌うようにゆれる上半身。時おり踊るように床をすべる左足と、繊細な動きをする右足。
 耳に入る音楽が気になってここまでやってきたのに、本当に魅入られたのはその姿だった。ゾロが今まで知る人の姿とは全く違っていた。そのたたずまいはまるでこの世のものではないような気さえする。息をするのも忘れた。

 曲が終わり静寂がおとずれた。

 息を詰めて見つめていると、視線を感じたのだろう、顔をあげこちらを向いた男と目があった。

 男は一瞬目を眇めたのち、椅子から立ち上がった。背の高い男だ。いくつくらいなのだろう。10歳のゾロよりもだいぶ年上だが、親の年齢よりはずっと若い。落ち着いた足取りでゾロがしがみついている窓の方へやってくる。

 ゾロは窓枠から手を離した。地面に足の裏全体が着き身体が安定する。勝手に庭に入ったことを咎められるだろうか。けれど逃げようなどとは思わなかった。ゾロは今まで縋っていた窓を見上げた。

 すぐに男の姿が表れて、窓が開いた。男はゾロを見下ろした。思ったよりも近い位置、さえぎるものが無い状態で男と見つめあった。不思議な形の眉毛と青いひとみ。こんな姿の人間を、ゾロは知らない。言葉も出せずに男を見上げ続けた。

「誰だおまえ。すげえ髪の色だな。」 ややあってから、いきなり失礼なことを言われた。その声は儚げな外観に反し思いのほか低く、けれど優しい声音だった。

「なあ。今の楽器なんていうんだ。」男が自分の言いたいことを言うのならば、ゾロは自分の聞きたいことを聞くまでだ。

「楽器?グランドピアノ、知らねえのか。」
「みたことねえ。」
「あー。いまどき小学校は電子ピアノだもんなあ。つっても講堂にくらいあんだろが。」
「知らねえ。」

 ピアノを演奏する美しい姿がこの世のものではないかのように思えた男は、実際にはひどく人間的でざっくばらんな普通の男だった。

 窓辺にもたれ、胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえる。
(吸ってもいいか。)たずねるかのように一瞬ゾロをみやった。
(気にすんな。)ゾロは言おうとしたが、言葉は出なかった。
それでも男はゾロの表情をみて、その目元をやわらげた。通じた、と思っただけでゾロは嬉しくなった。言わなくても、通じた。

 それはゾロが普段から、何を考えてるのかわからないとか、言葉にしなければ相手に通じないと言われていた反動だったのかもしれない。

 男はどこから魔法のように取り出したマッチを擦った。

 燐の匂いがして軸の先に小さな炎があがる。火が落ち着くのを待って、男は咥えた煙草の先にマッチを寄せた。すうっと息を吸い込む気配がして、煙草のにおいが辺りに漂う。男は火を消すために手首をかえしてマッチをひと振りすると、深々と煙草を吸い込んだ。

 伏せられた睫毛、うつむいた拍子に鼻先におちる金色の髪の毛、煙草を手挟む指先。手馴れた一連の動作は流れるように行われ、少しのよどみもなかったけれど、ゾロの目にその一瞬一瞬のシーンがひとコマひとコマ、忘れがたく焼きついた。 

 ひゅう、と風が過ぎ去った。

 ゾロは自分が剣道の稽古へ行く途中だったことを思い出した。
剣道は好きで強くなるのは楽しかった。勝てない相手がいるのは悔しかったが、勝つための努力をするのは苦ではなかった。勉強は嫌いでじっとしているのは苦手だったが、剣道だったらいくらでも集中していられた。

 でも、ここは立ち去りがたかった。 

「また来てもいいか。」ゾロは聞いた。剣道をサボるわけにはいかない。
「いいけどよ。おれも毎日ここにいるわけじゃねえぞ。」
「おまえんちじゃないのか?」
「ここはおれの、トモダチんちだ。そいつは今旅行中でな。家ってのは住んでないと痛んじまうからな。こうやってときどき、様子をみにきて掃除したりしてんだ。」
「ふうん。」ゾロは内心落胆した。またすぐに会いたいと思ったのだ。自分の知っている世界とはまるで異質なこの男と。

「ここに来る日は決まっちゃいねえが、水曜日は割と来てる確率が高えかな。」男はそう説明した。その言葉はゾロにとって(また来いよ。)という風に聞こえた。気持ちが浮上する。

 水曜日は必ず来よう。そしてほかの日もできるだけ来よう。ゾロは思った。 

「わかった。また来る。」

 ゾロは駆け出した。

10歳の子供にとって時間はゆっくりと流れる。明日でさえ遠い未来で、手付かずの未来は無限に広がっている。「また」という言葉は、いつか必ず来る将来を指すものであり不確定なものではなかった。ゾロにしてみれば、それは確かな約束だったのだ。 

 男は―サンジは新しい煙草に火をつけた。
 庭を駆けていった子供は既にいない。不思議な子供だった。無彩色の冬枯れの庭に、そこだけ目を惹く若々しい色彩。一足早い春の訪れのような鮮やかな緑色。

 名前も名乗らずに行ってしまった。自分も名乗る間もなかった。

― また来る。

 キッパリと言い切って。

 26歳のサンジにとって明日という日は今日という日とあまり変わらない一日だ。
「いつか」も「また」も、果たす義務のない曖昧な言葉にすぎない。
「今度」も「未来」も来ないことがあることを、来ないままに人の命が尽きることを知っている。

― 本当にまた来るのかねえ?それは未来のいつなのか。 

 そんな不確かな約束を、した。

 

 end