野原は花のさざなみに揺れ
春のひばりの歌は
明るく青い深みに響き渡る
『三月』
うららかな春の日。
庭では木々の芽吹きが始まり、小さな新芽の淡い緑色が目にやさしく映える。明るい日差しに誘われて窓を開けると、鳥のさえずりがきこえてくる。春を告げる鳥だというひばりだろうか。
頬をなでる風はぬるく、冬の頃とは違って昼前にはゆるんでしまう大気は、目に映る色彩を薄いヴェールをかけたように白く霞ませる。春の風景はやわらかい。
明るい陽光にあふれた外の景色とはうらはらに、部屋の中は薄暗くひっそりと静まりかえっている。
ピアノの置いてある部屋は、かつては書斎として使われていたと聞いた。隠れ家にこもるように一人で思索にふけることを目的にしたためだろうか。人気を避けるように母屋のはずれに、この部屋だけが庭に突き出るような不自然な形で設計されている。もしかしたら後から増築したのかもしれない。
サンジはそのあたりのことはよく知らない。この家と関わるようになったのはほんの偶然だからだ。
去年、ちょっとした事情から家を出るはめに陥り住む場所を探していたときに、祖父の古い知り合いだという男から声をかけられたのだ。
「困っているのなら手を貸してもよい」と。
自分ひとりが住むのであればなんの問題もなかった。ワンルームだろうがアパートだろうが狭かろうが古かろうが探せばいくらでも物件はあった。けれどグランドピアノを手放す気が全くなかったサンジの部屋探しは難航していた。声をかけてきたのはミホークという名前の紳士なのかイカレタ人間なのか判別できないような風体の男であったが、祖父の知り合いならばと半信半疑の思いでこの家を見に来た。持ち主と同じく浮世離れした大きな洋館はピアノを置いても支障なく、心から助かったと思った。広さといい音の問題といい床の強度といい、グランドピアノを置ける場所というのはかなり限られてくるからだ。
一見、神経質そうに見えるのに雑事には無頓着なこの家の主は、
「家は広く部屋は余っている。好きにつかえ」と言った。
同時に「ここで住んでもかまわない」とも言ってくれた。
何の仕事をしているのか、それとも悠悠自適な生活なのか詳しくは知らないが、あちこち出歩いていて不在がちだという。しかもこの家のもう一人の住人である家主の息子もめったな事では家に寄り付かないらしい。
ありがたい話であった。相手の言葉に甘えて住むことも考えた。しかし最終的には辞退した。職場から遠く通勤の点で難があったし、あまりにも広すぎる他人の家に一人で住むのは気が進まなかったからだ。ましてや得体の知れないミホークやまだ会ったことさえないミホークの息子がいつ帰ってくるのか分からない家など気が休まらないと思ったからだ。その代わり、自分の好きな時にこの家に出入りしてピアノに触ってもよいと合鍵をもらった。
合鍵をもらった数日後、サンジがピアノをこの家に運び込んだ時に家主の息子を初めて見かけた。サンジと同世代と思われるその息子は物珍しそうに楽器の搬入作業を眺めていた。
「おまえは住まねえのか」
挨拶をして帰ろうとしたサンジに、それまでずっと黙っていた男が声をかけてきた。
「ピアノだけお願いしようかと」
「おまえも一緒に住めばいいじゃねえか」
「職場が遠いので」
「今度はいつ来るんだ?」
「さあ?決めてない」
「できるだけ来いよ」
できるだけ早くなのか、できるだけ頻繁になのか、そもそも何故サンジにそのような事を言うのか。相手の真意が全く分からずサンジは無言で見つめ返した。
「聞いてみてぇ」
ピアノを指しながら家主とはあまり似てない緑髪の男は言った。
ちょうど一年くらい前の話になる。
ピアノ前の椅子に座る。
鍵盤に触れる。
心に浮かんだ曲はひばりの歌。春3月の曲なのに、なんだかもの哀しいメロディだ。ときおり、ふと沸き立つようにさえずる様子を見せ、空高く舞い上がったと見せかけてはまた戻ってくる。テクニック的にはさほど難しいわけでもないのに、ディテールのひとつひとつに細かい気配りのある音運びで気が抜けない。最初から最後まで2分半もかからない小曲だが実に奥が深いと思う。
とっくに暗譜している曲だが、思い立って楽譜を開く。譜面を見てもう一度最初から繰り返す。
出だしはペダルを使わずに弾いてみようか。左手は主音を十分に引っ張って、そして右手は軽く。楽譜に忠実に。でも無機質にならないよう注意して。自分が奏でる音に耳をすませながら丁寧に弾いていく。繰り返し繰り返し、自分が求める音を思う通りに出せるようになるまで弾く。
そして最初から最後までピタリと納得のいく演奏で最後の一音を弾き終えると、やっぱり。
窓辺に緑頭。
ちらりと様子をうかがうと、びっくりするほど真剣にこちらを見ている視線に当たってしまった。これじゃ素知らぬフリもできやしない。立ち上がって窓へ寄る。
「よう」
声をかけてやると「おう」と生意気な返事が返ってきた。
「どうした、坊主」
言ってからいまだに名前を知らないことに気付いて問う。
「そういや名前聞いてなかったな。お前、なんて名前だ」
「ゾロ。ロロノア・ゾロだ」
ゾロ……。サンジはその音節を口の中でつぶやくように発音した。それからあらためて子供を見る。
「そうか。おれはサンジだ」
さんじ……。ゾロと名乗った子供はゆっくりと飴玉を転がすようにその音節を味わったかと思うと 「覚えた」 と嬉しそうに言った。
サンジの名前を覚えたということらしい。褒めてといわんばかりだ。そしてニカ、ときれいな歯並びを惜しげなく見せて笑って言う。
「サンジ」
こんな屈託のない無防備な笑顔を向けられたことなんて久しく無い。まぶしすぎる笑顔にサンジは目をそらせた。何を言えばいいのか分からなくなり、慌てて頭の中で話題を探す。少しの間考えて、言おうと思っていたことを思い出した。
「そういやおまえ、この間、黙って帰っちまっただろ」
子供は面食らった様子も見せずに黙ってサンジを見上げた。
「おまえさ、挨拶はちゃんとしろよ」
いささか唐突な話だが、年長者からの説教なんてそんなものだとサンジは心の中で自分を弁護する。
「来るときはいいぞ。前も言った通り、おれも毎日いるワケじゃねえが、いつでも好きなときに来い。でも、いなくなるときはちゃんと言えよ」
「いなくなるとき?」
「あー。いなくなる時っつうか、帰るとき、な。この間みたいに挨拶ナシに帰るなよ。またなとか、じゃあなとか、サヨウナラでもなんでもいいけどよ。ひとこと言ってけよ。でないと」
「でないと?」
心配すんだろが。
これっきりなのか。次があるのか。待てばいいのか。待たなくていいのか。
――って子供に言うハナシじゃない。
「……おまえの周りの人に心配かけるだろが。ま、おれはいいけどよ、細かいこと気にしたくねえから」
「おう、わかった」
ゾロはあっさりと請け負った。それから
「サンジ」
再度呼ばれる自分の名前にぎくりとする。
「おれ、今日はあんまり時間がねえんだ。稽古があるから」
「そうか。何の稽古だ」
「剣道。勝ちたい奴がいるんだ」真剣な目をした。
「そっか。頑張れよ」
「またな。サンジ」
「またな」
つまりこれは、次があって待てばいいということなのだろう。
――そんな確かな約束をしてどうしようっていうんだ。こんな子供と。
本当に約束したいのは。
本当に欲しいものは。
言えないでいる。
end