【夕暮れのベンチにて】
発車のチャイムが鳴っている。
「急げ」
二人は階段を駆け下りたがすんでのところで間に合わなかった。二人の目の前でドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。急行が停まらない小さな駅のホームは、電車が出て行ってしまうと人気がなくなりがらんとしてしまった。日はだいぶ傾いてきたが、まだ電気がついておらず構内は薄暗い。次の電車は二十分後だ。
「ま、しょーがねェな」
サンジがホームの端にあるベンチにどかりと腰をおろした。背中側から西日があたり、足元から細長く黒い影が斜めに伸びる。ゾロはその影を踏まないように近づくと隣に座った。自分の影も、サンジ――ゾロは密かに「きらきら」と呼んでいる――の影に寄り添うように地面に伸びるのを目で追う。二人の間に沈黙がおちる。
――今日はいい日だった。
朝、どういうわけだか乗り換えを間違えてしまい、いつもの時間を大幅に遅れて駅へ到着した。きらきらはとっくにいないと思っていたからベンチに座っている姿を見た時はテンションがあがった。しかも『みどりを大切に』の文字を背負っている。素晴らしい光景だった。目に焼き付けるようにじっと見つめる。クローズアップするようにきらきらの姿がだんだんと大きく見えてくるのは、あちらが近づいてきたからだ。息遣いとか体温とか、そんなものまで感じられそうなほど近くに……近づきすぎでは? と思った瞬間、どかっと腹部に重たい衝撃がはしった。思わずくの字に体が曲がる。きらきらの蹴りは天下一品だ。体の頑丈さには自信のある自分でさえ、まともに食らったらダメージがでかい。大切に、してくれるはずなんじゃないのか。看板に偽りありだ。
しかし、その後のきらきらの申し出に驚いてそんなことはどうでもよくなった。授業をサボる? しかもきらきらは一人でサボることも厭わないという。きらきらだけにサボりという大罪を負わせるわけにはいかない。ゾロは否も応も是も非もなくきらきらに従うことにし、その結果、奇跡のような一日を過ごせたというわけだ。
――楽しかった。よく覚えていないけれど。
今日はきらきらを独り占めしたようなものだった。一日中、隣にきらきらがいたことが自分にとって最大で最高の幸せで、幸せのあまり、何をしたのか自分が何を言ったのか細かいところの記憶は全くなかった。ゲーセンや映画に行ったのは覚えている。一日の締めくくりとして海を眺めに行ったことも。むろん場所はどこかは分からない。とにかく『楽しかった』という感情だけはほわほわと温かく心に残っている。そこでハッと気づく。
――おればかりが楽しくて、きらきらはどうだったのだろうか。
いつも、クラスメイトをはじめ先輩後輩問わず大勢の知り合いに囲まれ、賑やかにしている社交的な人間である。それが、今日は自分と二人だけで、物足りなかったり、つまらなかったりしなかったのだろうか。
ゾロは急に不安になった。自分が口下手なのは知っている。愛想がないのも知っている。笑わせたり、気の利いたことを言ったりは自分にはできないのも知っている。せっかく遊びに誘ってくれたのに、面白くなかったと思われていたら。
「なんだよ」
隣をうかがうときらきらが怪訝そうな顔でこちらを見返した。後ろから照らす夕日できらきらがきらきらしている。眩しすぎる。直視できなくて目をそらす。
「いや、なんでもない」
――この存在が、隣に、いる。
夢のようである。夢のようといえば、あの雨の日もそうだった。傘の下できらきらに触れた。天にも昇る気持ちだった。間違いなく人生最良の日だった。自分としてはもう一度キスしてみたいと思っているし、もう一度どころか何度でもしてみたいと思っている。しかし、あの一件があっても、きらきらの態度は何も変わらなかった。ということは、あれはきらきらにとっては思い出したくないことなのだろうとゾロは考えた。きっと、なかったことにしたいという無言の意思表示に違いない。きらきらの意向を尊重しよう。そう思って自分も何も変わらない態度をとり続けてきた。今日のように気まぐれなご褒美をもらえるのであれば、思いを我慢するのが正解なのだろう。
「あのさ」
きらきらが口を開いた。ゾロはゆっくりと顔をそちらへ向ける。
「……おまえ、おれのこと、どう思ってンの」
突然の直球の問いかけにゾロは心臓が止まるかと思った。きらきらに対する大きすぎる思いなど、簡単に言い表せないし、そんな言葉は見つからない。何を言えばいいのかわからなくて言葉に詰まる。
「あの日」
ゾロの心臓が跳ねる。きらきらが「あの日」と言っただけでどの日なのかが分かる。あの特別な日。お互いずっと避けていた話題を持ち出して、きらきらは何をしようとしているのか。
「おれは、嬉しかった。気持ちが通じたのかなと思って。だけどあの後、何もねェからおれの勘違いかもしれねェって思い始めてて」
サンジの言葉にゾロは混乱していた。気持ちとはなんだろうか。きらきらも自分と同じ気持ちだというのだろうか。勘違いってなんだろうか。
「だから、おれは今日、決着をつけるためにおまえをデートに誘った」
ゾロは驚いた。今日のこれはデートだったのか⁉ それに決着⁉ 何か勝負していただろうか? ゾロの混乱は深まったが感情が表情に直結しにくいゾロの当惑はサンジには伝わらなかった。ゾロの反応を観察する余裕のなかったサンジは、ゾロを置いてきぼりしたまま発言を続けた。
「その気がないなら断ってくれ。そしたらおれも今日を最後にするから」
その気とはどの気だ⁉ いや、それよりも最後ってどういうことだ。ゾロの混迷がいよいよ極まったとき、サンジは聞いたこともないような静かな声で言った。
「おれ、おまえが好きだ」
今日はいったい何度心臓が止まる思いをさせられるのだろう。好き? おれを? きらきらが? おれも、と言っていいのか? おれの好きと同じ、ということでいいのか?
受け止めきれない情報と処理しきれない感情に支配され、ゾロは動くこともできなかった。何か言わなければ、早く返事を、と思うのに言葉は何一つ出てこない。
口を開きかけては閉じ、視線をあちらこちらへと彷徨わせるゾロを見て、サンジは小さく息をついた。
そして。
「こっち向け、オラァ!」
キレ気味の口調のサンジが凶悪な顔つきでゾロの顔を両手で挟むと無理やり振り向かせた。ぐぎり、とゾロの首の関節が鳴る。
ゾロは痛ェと思わず顔をしかめた。鍛えてあるゾロだから「痛ェ」で済んでいるが普通の人間であれば首が捩じ切れているかもしれない。サンジの怒りをたたえた目が至近距離でゾロを見つめている。激しい感情が瞳の奥で火花のように散っている。それがあまりにもきれいで場違いとわかっているのに思わず見とれた。
「てめェ、分かってねェだろ。おれは今、おまえに告ったんだ。フるならフれ。受け入れるならおれと付き合え!」
いつものサンジらしい態度と言い方に、がちがちに固まっていたゾロの心と体が緩んだ。さきほどの静かな口調は心臓に悪過ぎた。
「あの日の後、うんともすんともねェなんて、あんまりじゃねェか。そんなヤツとは友達にもなれねェ。おれをフったらおまえとはこれっきりだ」
サンジが言い募る。
「何とか言え! 何か言え! おまえはこれが最後になってもいいのか」
いいわけなんてない。ゾロは否定のために首を振ろうとしたが、サンジがガッチリとゾロの両頬を押さえつけているのできなかった。
「否定しねェんだな」
――いや、それはおまえのせいで身動きとれないからで……と言いたかったが、きらきらのせいにするわけにはいかない。きらきらにここまで言わせてしまったのは自分なのだから。
自分だけが相手を好きだったときは気楽だった。相手が振り向いてくれるなんて考えもしなかったから、ただ好きでいればよかった。あの日、傘をたたく雨音の下、そっとくちびるを重ねた。逃げられなくて蹴られなくて拒絶されなかった。そんなことが現実にあり得るとは思えなくて、夢から覚めたくなくて、大事にとっておきたくて、現実のあれこれから遠ざけるように心のなかに思い出としてしまいこんだ。
あれを知ってしまった後で拒まれるのは耐えられそうになかった。これ以上進みたいけれど、今以下の立場に戻りたくない。そんな気持ちが現状のまま何もしないという行動になってあらわれた。けれど。それは終わりを意味するという。最後になんてしたくない。これからも一緒にいたい。このままでいいと思ったことはない、このままはいやだ。おれはいやだ。
「おれはいやだ」
聞こえた声は自分の言葉かと思ったがきらきらの言葉だった。自分が言おうとした台詞を言ったきらきらの顔をゾロは改めて見つめた。斜めから差し込むオレンジ色の太陽の光が青い光彩に映る。その様子がさっき見たばかりの夕暮れの海のようだった。
その瞬間気づいた。同じことを言ったサンジと自分は同じ気持ちなのだと。相手を恋う気持ちや関係を壊したくないと恐れる気持ち、相手に対する期待、相手の気持 ちが分からない不安、一緒にいることの喜び、相手の気持ちが分からない辛さ。自分がサンジを思うときに味わう色々な感情を、サンジも抱えていることを、ゾロは今ようやくはっきりと理解した。そして同時に、自分は己が傷つくことを恐れるあまり、相手がどんな思いでいるのかをちゃんと思いやれていなかった、という事実に思い至った。
「おれも最後になるのはいやだ。……それから、わるかった。」
気づかなくて悪かった。独りよがりで悪かった。言葉にしなくて悪かった。態度に表さなくて悪かった。不安にさせて悪かった。
「謝ってほしいわけじゃねェ」
「分かってる。でも言っておきたい。おれが、悪かった」「……おれだって悪かった」
神妙な様子でそう言ったサンジはゾロの顔を押さえつけていた手をおろした。
「おまえは悪くない」
今度はゾロがサンジの頬に手を添える。そっと、やさしく。
「おれは、友達にこんなことはしない」
ゾロの顔がサンジに近づき、サンジはぎゅっと目を瞑り――
急に辺りが明るくなる。日が落ちて駅構内の照明が点灯したのだった。我に返った二人は慌てて離れた。うっかりしていたがここは駅で公共の場だった。周囲を見渡すとちらほらと電車を待つ人影がある。幸いなことにこちらを見ているような人はいなかった。二人で思わず顔を見合わせる。
「ははは」
きらきらがおかしそうに笑った。きらきらの表情はどんな表情でも好きだが、こういう屈託のない笑顔はとりわけ好ましい。
「前もこんなんだったよな」
一度目のキスのときも、一瞬の邪魔が入ったことがあった。ゾロはもちろん覚えているし、きらきらも思い出している。同じ思い出を共有していることが嬉しい。
「続きはまた今度だな。明日は遅刻せずに一緒にガッコ行こうぜ」
照れ隠しも手伝って、わざと明るくサバサバとした調子で言うきらきらは人工の電気の明かりの下でもやはり眩しかった。が、続きが今度というのはゾロとしては不満だった。
電車の到着を告げるホームアナウンスとともに電車がホームに滑り込んでくる。
「帰ろうぜ」
サンジは軽やかに立ち上がると座ったままのゾロを振り返った。ゾロはベンチの上から動かず、手を伸ばしてサンジの手首のあたりをつかんだ。サンジは怪訝な顔をしていたが、ゾロの表情を見てとると、仕方ねェなといった風に肩をすくめてその隣に座りなおした。発車のチャイムが鳴り電車は二人を残して動き出す。
人気のなくなったホームのベンチの上で、ふたり、今度ではなく今日、続きを。
end