3.

サンジは湯船の中で手足を伸ばした。はあーと大きく息を吐く。大浴場というほど大規模ではないが、家の風呂よりは格段に大きい浴槽だから思い切り体をのばしてくつろぐことが出来る。めまぐるしい一日の最後、風呂に入ってさっぱりするのが気持ちいいなんて、おっさんみてェだなオレと思い、そう思った自分に笑ってしまう。何はさておき、誰もいない浴室の広々した風呂に一人で入るのはなんともいえずいい気分だ。この合宿所を手伝っている特権のひとつだ。

 

サンジの祖父がオーナーであるこの合宿所は、いつもは企業の研修やセミナーなどに使われることが多いが、夏休みは高校の部活動や大学のサークル、ゼミの合宿の学生たちでにぎわう。サンジの自宅はここから自転車で15分ほどの場所にあり、普段は頼まれた時だけ手伝いに来る程度だが、中学生になった去年からは、客の多くなる夏の間だけ泊りがけで手伝っている。本当だったら、住み込みで働く従業員用の従業員宿舎で生活するはずが、宿舎に空き室がなかったため、サンジは合宿所内の一室を使わせてもらっているのだ。一室といっても、ちゃんとした客室ではなく、設計ミスのせいだとかで四畳半もないような狭い部屋で、よほどのことがない限り宿泊客へ提供しないことになっているような部屋だ。それは二階の端にあってもっぱら物置がわりに使われているが、窓もあるしサンジが一人で寝泊まりするには問題がない。合宿所の手伝いは面白い。色々な人に出会えるし、ハプニングはたくさんあるし。特に今年は、一昨日からやってきた高校生の部合宿集団がすこぶる面白い。自分と年齢が近いため気安いせいもあるが、その中にとてつもなくへんてこりんなのが一人いるのだ。ゾロという名の緑色の髪の毛をした野郎。強面で、一見すごく近寄りがたいのにどこかすっとぼけていている。サンジは昼間の様子を思い出してくすくす笑った。

(だってアイツ迷子なんてお子様かよ)

初日はトマト畑に迷い込んでいたのを見つけたのだ。昨日も合宿所と練習所の間でぐるぐる徘徊して、サンジが何回も目的地へ連れて行ってやった。ここへ来てから三日目になる今日だって、宿舎内でうろうろしているところを発見し、サンジが道案内してやった。ありえない。しかもアイツ、迷子のくせに迷子の自覚がなくて妙に堂々としてるんだよなー。迷子を指摘するとムキになって違う!とか言うくせに、道案内は素直に受けて、目的地へたどりつくとありがとう、ときっちり言ったりしてさー。

 

サンジは意味もなくお湯のなかで手を動かした。バシャバシャと波が立つ。ゾロのまっすぐ潔く謝辞を述べる姿を思い出してなんとなく照れる。「ありがとう」をあんなにはっきりと言ってもらったことなんて今までなかった気がする。たいしたことをやっていないのに、あんな風に「ありがとう」なんて言ってもらったら、もっと何かしてあげたい気持ちになるというか……。サンジはぶくぶくとお湯の中に潜った。髪の毛がゆらゆらと水中で揺れるのを感じながら目を閉じてしばらくじっと沈んでみた。それから一気に立ち上がって気持ちを切り替える。 

よし。寝よう。また明日があるし!

 一通り風呂掃除をしたあとで、パジャマ替わりのTシャツと短パンに着替えて、部屋の並んでいる廊下を歩く。宿泊している高校生達は、夜の10時半に消灯就寝というタイムスケジュールになっていると聞いた。もちろんそんなのは予定であり建前だ。中には昼間の疲れて既にぐっすり寝ている生徒もいるかもしれないが、大部分は本当に寝ているかどうか怪しいものだ。とはいえ、引率の先生たちが時々見回っていることもあり、この時間、どの部屋も明かりを消して静かにはしている。たまにひそひそ喋る声が聞こえたり、起きて何やら遊んでいる気配が漂う部屋があったりするが、サンジが咎めることではない。足音をたてないようにそっと歩く。浴場のあった三階から階段を下り、二階の廊下を端まで行った突き当たり、自分の部屋まであと少しというところまで来て、サンジは飛び上がらんばかりに驚いた。

「うわっ」

思わず声が出た。誰かが廊下で行き倒れている。病人だったら大変だ。驚きから一転、サンジは横になっている人間を確かめようと顔を覗き込んだ。緑色の短髪の知った風貌だった。ゾロ。え、こいつ、具合悪いのか?慌てて額に手をあてて確かめたが熱はない。よく見れば、別に苦しんでいる様子もないし、穏やかな寝息まで聞こえる。 

「おい、おまえ、何やってんの」
サンジがぺしぺしと寝ている男の頬をたたくと、相手はうっすらと目を開けた。ぼんやりした眼付をしている。
「まさかと思うが部屋がわかんねえってことか?」

サンジは恐る恐る尋ねた。何度か瞬きした後で、サンジを認めた男は、ちがうと一言答えた。それから眠そうに大きなあくびをしながら言った。

「寝る場所がねェ」
「はあ?どういう意味だよ?おまえ何号室?」
「302……とかそのあたり」
「そのあたりとか言ってる段階で、迷子じゃねーか!」
「迷子じゃねェ」
「いや、部屋に帰れない段階で迷子だろ?」

本日何度目かの道案内の気配にサンジは高らかに宣言した。
「おれが連れて行ってやるから!」
「いや、それには及ばん」

ゾロはきっぱりと断った。初めて断られたことにサンジは軽く傷ついた。迷子のくせに、と思う。サンジの様子に気づいたのか気づかないのか分からないが、ゾロがかったるそうに口をひらいた。
「ほかの部屋のヤツが何人か来て、DVDとか見始めてうるさくなったから、別の部屋に行ったんだけどよ」
ゾロはくあ、ともう一度あくびをする。
「なんつーか、いろいろ散らかってて寝る場所ねェし、先生の部屋へ行って寝るわけにもいかねェし。まあ、どこでもいいや、と思って」 

サンジは呆れた。バカだ。どこでもいいといって廊下で寝るバカだ。 

「そんなこと言って、廊下で寝るなよ!誰かの部屋にまぜてもらえよ」
「今更、どっか探すのめんどくせぇ。だからここで寝る。夏だから風邪もひかねぇだろ。気にすんな」

 そう言うとゾロはまた目を閉じてしまった。サンジは愕然とした。アホだ。世界で一番のアホだ。すげぇぞ、コイツ、ほっとけねぇ!

「あー、もう!」
サンジはゾロを蹴りつけた。
「いってぇな!」
「おまえ、今日の昼間、さんざんしごかれてンだろ?!でもって、明日も朝早くから練習なんだろ。だから、ちゃんと休まないとだめだろ!」
「いや、だから、休むためにここで寝るって言ってる」
「うるせぇ!いいから来い!」

 

サンジはゾロの言葉を無視すると、強引に立ち上がらせて手を掴み、目の前の自室のドアを開けるとすぐさま中に蹴り入れた。ぱちり、とサンジが部屋の明かりをつける。

 「何すんだ!……って、ここは?」
ゾロがきょろきょろと部屋を見渡す。
「おれの部屋。夏の間だけ一室使わせてもらってんだ」
「ここに?」
「おう。夏の間だけな」

言いながら、サンジは手際よく布団を敷く。物置代わりに使われているだけあって、布団の予備もシーツの予備もいくつかある。 

「とりあえず、今日はこの場所をちょっと貸してやる」
サンジは言って、とっとと自分の布団に寝転がった。ゾロは暫く黙ってなにやら考えていたが、敷かれた布団の上に正座すると「ありがとう。恩に着る」と時代劇のような言葉を口にした。

「いいってことよ」
ゾロの「ありがとう」を聞けてなんだか嬉しい気持ちになったサンジは、へへっと笑ってみせた。それから「寝よーぜ」と言って、明かりを消す。部屋は薄闇に沈んだ。 

どこでもいいとは言ったものの、やはり廊下とは違って、布団は各段に寝心地がいいな、とゾロは思った。しかも、6畳に5人の男子学生がどデカいスポーツバッグの転がった部屋に布団を並べて寝ているような環境と比べると、部屋の広さでは劣るものの、こちらのほうが断然静かでいい。男と同室であることに変わりはないが、部屋の空気も澄んでいるような気さえする。よく寝て明日に備えよう。落ち着いた気持ちで眠りに落ちていこうとしたゾロに向かってサンジが「なあなあ」と話しかけてきた。 

「あ?」
寝ようぜ!と言ったくせに、なぜ話しかけてくるのかとゾロは思ったが、部屋と布団を提供してくれた相手を無視するわけにはいかない。とりあえず返事をする。

「なんかさ、おもしろいよな」

声はひそめているが、わくわくした気持ちがこもった声でサンジが言う。

「そうか?」
「おもしれえよ。おれ、旅行にも言ったことねぇから、こんなふうに同じ部屋で誰かと寝るのなんて初めてだし」
「……修学旅行とかは?」
「行ってないんだよなー。風邪ひいちまって」
「そうか」
「こうしてるとさ、なんか合宿みてぇだよな」
「合宿だ」
「あははは、そうだよなー」

サンジはおかしそうに笑った。

「おれ、兄弟いねぇから、いつも一人で寝てるからさ、布団を並べて、夜、寝るときに喋ったりするの、やってみたいってずっと思ってた……」

 最後の方は消え入るように声が小さくなり、やがて寝息が聞こえてきた。カーテン越しの月の光が隣で寝ているサンジの体をぼんやりと照らす。ゾロがこの合宿所に来て以来、やたらと視界に入ってくる、細くて元気で口が悪くておせっかいな小僧。他人に興味が無いせいで、今こうして一緒に合宿に来ている部の連中の中でさえ、正直いって、名前と顔が一致しない人間だっているくらいなのに、この金髪小僧はサンジという名前で、ちびなすと呼ばれていて、朝早くから夜遅くまで一生懸命働いていて、中学二年で一人っ子、ということまで知ってしまった。出会ってからまだ二日半なのに。

 今までの自分ではありえない。

 ゾロは手を伸ばして、サンジの頭にそっと触れた。掌につるりと冷たい手触りの髪の感触。その奥の地肌は温かく、丸い頭のカーブに沿って手を動かした。頭をなでる。一度、二度、三度。もっと撫でたい、触りたい。何度か撫でているうちに、サンジが身じろぎ、慌てて手をひっこめた。 

今までの自分では考えられない。 

触れていた手を握りしめ、寝返りをうって、サンジの穏やかな寝息を背中で聞く。

 —とりあえず寝よう。また明日がある。

 眠りにつくときに「寝よう」などと気合を入れなくてはいけないのは、ゾロにとって生まれて初めてのことだった。

 

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