XYZ

毎週行われる定例の業績報告会が終わり、参加者は三々五々、会議室を出て行った。

「課長?」
自分も退室しようと立ちあがったゾロは、まだ座ったままの上司であるサンジに声をかけた。

「あー、やれやれ。どうなることかと思ったぜ、クソ」
確かに今日の会議は紛糾した。定例の報告会は、営業部に所属する10の課が、それぞれ自分たちの業績と今月の見通しをトピックとあわせて発表するだけの形式的なもので、いつもなら何事もなく終わる。しかし、つい先月、他の事業部から異動してきた新しいメンバーが、他課の報告に異議を唱え、その挙句に「こんな報告会は無意味だ」などと言いだしたものだから反発、反論、反目、反駁で、会議は大いに荒れた。

「そうですね」
相槌をうちながら、ゾロは傍らの上司へ向き直った。今や会議室にはゾロとサンジの二人だけだ。人目がなくなったせいだろう、サンジはふんぞり返るように椅子に腰かけていた。行儀が悪いことこの上ない。ゾロは黙って、上司の滑らかなおでこと面白く巻いた眉毛のあたりを見下ろした。

「まァ、ここだけの話、こんな形式的な報告会に意味あんのかっておれも少しは思ってるけどよ」
「同感です」
「でも、あれはねぇよな。文句言うだけ言って、自分は何もやりませんって感じだもんな」
「全くです」
「批評家じゃねぇんだからよ。改革したいんだったら気付いた人間が率先してやるべきだろうが」
「もっともです」
「しゃーねえ。これを機に、今度、報告会の実施方法の変更について、何か提案してみるか」
「いいですね」
「ホント、あのクソ野郎、思い出しただけで腹がたつ」
「課長がいつキレるかと、内心ヒヤヒヤしてました」
「キレねえよ、ボケ」

サンジは椅子の向きを回転させると傍に立つゾロに向かって座ったままつま先をふりあげて、遠慮のない部下のみぞおちをちょいと蹴飛ばした。低い呻き声に、にやりと笑ったサンジは、だがその顔をひきつらせて固まってしまった。

「課長?」
身構えていたので実際のダメージはたいしてないが、それでも腹のあたりをさすりながらゾロは上司に問いかけた。上司がフリーズした理由がまるで分からない。

「おまえ、チャック全開じゃねえか!」
「え?」

手をあてていた腹部の下、見ればなるほどズボンのファスナーが開いていて、濃い青色の生地に小さな黄色のアヒルが散りばめられた妙にラブリーな柄の下着がのぞいていた。

「そのカッコで会議に出席してたのかよ……」
サンジは嘆いた。
「そのようです。しかし、会議の間は座っておりましたから誰も気づかなかったと思います」
「そうかもしんねえけどよ」
「気付いたのは課長だけです」
「おれだけって言われても嬉しくねえよ。いいからとっとと閉めろよ」
「私が、ですか?」
「は?」 

部下の意味不明な言葉に、サンジはまたしても固まった。

「気付いたのは課長だけだと言いました」
「お、おう」
「さきほど課長は『気付いた人間が率先してやるべきだ』とおっしゃいました」
「アホか!それとこれとは違うだろうが」
「どこがですか?課長はご自身のお言葉を覆すおつもりですか?」
「そうじゃねえ」
「では有言実行してください」
「無理。無理無理絶対無理」
「そうですか。わかりました」

ゾロはくるりと踵を返すと会議室を出ようとした。

「待て。ゾロ、待て!」
サンジは慌てて呼び止めた。
「おまえ、そのまま出て行こうとするつもりじゃねえだろな」
「そのつもりですが」
「野郎ならともかく、レディの目に触れたらどうすんだ!ナミさんとかビビちゃんとか……何て言うと思ってんだ!?」
「先日、これと同じ柄のネクタイをしていた時、ナミもビビも『かわいい』と言ってました。多分今回も『かわいい』と言うと思いますが」
「いや、かわいくねえよ。おまえのそんなもの、全くかわいくねえよ!」
「課長が閉めて下さらない限り、私はこのまま過ごします」
「うー……」 

サンジは頭を抱えた。
部下のズボンのファスナーを閉める。考えるだけで眩暈がしそうだ。どうしておれがそんなことをしなけりゃならないんだ。しかし自分がやらなければロロノアは全開のままだ。建物の窓は開けてもかまわないが、社会の窓は開きっぱなしでは差し障りがある。セクハラで訴えられかねない。

サンジはのろのろと顔をあげてゾロを見た。実直な部下にはふざけた様子はなく、普段と同じ表情でサンジを見ていた。

「課長。私はなにも『チャックを開けて下さい』と言ってるわけではありません」
「あああ当たり前だ!そんなこと言うのは変態だろうが!」
「であるからには『閉めて下さい』は穏当なお願いだと思うのですが」

そうだ。開けるのは明らかに変だが、閉めるのは変なことではない。むしろ部下の身だしなみを正すという上司としてあるべき行動かもしれない、とサンジは思った。

「わかった」
サンジが言うと、ドア近くまで行っていたゾロはサンジの所まで戻ってきた。サンジは椅子に座りなおして深呼吸した。手に嫌な汗がにじむ。サンジがゾロを見やると真面目な顔つきの部下は一礼した。

「お願いします!」
ジッパーを閉め易いようにという配慮からか、腰を前に突き出してサンジの目の前に立ったゾロは、ハキハキした口調でサンジを促した。

サンジは恐る恐るゾロの社会の窓へ手を伸ばした。窓からは、黄色いアヒルが何匹か「こんにちは」と姿を見せている。和むような気がしないでもない。

これは正しいことだ。部下のファスナーを閉めるのは、乱されようとする風紀を守るのに必要なことなのだ。サンジは心の中で己に言い聞かせ、ファスナーのスライダーを指でつまむ。

それから、引手をゆっくりと上に滑らせると、チチチと小さな音が鳴り、ファスナーが閉まり始めた。

得体のしれないものを触らないように、そして挟み込まないように、と慎重な手つきでファスナーをスライドさせる。

ごくり、と唾を飲むような音が聞こえて、視線を上に向けると、恐ろしく真剣な顔をした部下がいた。余りにも真剣な表情に驚いて、サンジはスライダーの引手を真っすぐ前に引っ張ってしまった。当然、エレメントが噛み合わず、閉まりかけたファスナーは動かなくなってしまった。

慌ててもう一度やり直そうとして慄いた。

 和やかなアヒルちゃんたちが猛々しい気配を漂わせて膨らんでいる。

 「おまえ……」
サンジは恨みがましく部下を見上げた。
「どうぞ気になさらないでください、課長」
「気になるだろ!?閉まんねえじゃねえか!」
「大丈夫です。まだこの程度であれば、押し込んでいただければ閉まると思います」
「押し込むのかよ?!」
「遠慮なさらずに押し込んでください。さあ、どうぞ」

押し込むどころか触りたくもない。しかし「騎虎の勢い」という言葉がある。始めてしまった以上、途中でやめるわけにいかない。それに、この状態のゾロを放置するなんてのはもってのほかだ。美しくない物は押し込んで隠してしまわなければならない。

サンジは義務感から、口調は丁寧なのに偉そうに聞こえる部下の指示に従う事にした。左の手のひらをアヒルちゃん達にあてがい、ぐっと力を込める。抑え込んだ瞬間に右手でスライダーを一気に引き上げれば任務終了となるはずだった。

しかし。
全力を込めた左手は、あろうことか同じ位の強い力で跳ね返された。獰猛なアヒルちゃん達は、自由と開放を求めて外に飛び出そうとしていた。

「ロロノア!てめえ、閉める気あんのかよ?!」
サンジは声を荒げた。
「私にはあります。しかし、私の分身の意向まではちょっと分かりかねます」
「おまえの分身だろ?!分かっとけよ!」
「申し訳ありませんが別人格ですので出来ません」
「どうすんだ、これ」
「そうですね。押してもダメなら引いてみますか?」
「そうだな……って、引いてどうすんだ!閉まることからますます遠ざかるじゃねえか!」
部下の口車に乗せられている気がしてきたサンジは、今度こそ騙されないぞとばかりに指摘した。

「お言葉ですが、課長」
冷静な部下は動じなかった。
「物がたくさん詰まった抽斗を想像してみてください。無理やり閉めようとしても閉まりませんが、一度開けて中身を整理するなり減らすなりすれば、きちんと閉じます。それと一緒です」
「ということは、一度引き出す、と」
「そうです」
「中身を減らす、と」
「その通りです」
「減らしてから閉める、と」
「仰る通りです」
「絶対だな?」
「間違いありません」

 早くこの任務を終わらせてしまいたい。

 やけくその境地に達したサンジは、アヒルちゃん達をむんずと掴むとズボンの開口部から引きずり出した。正確に言えば、アヒルちゃん達の下に隠れていた言う事を聞かない部下の分身を掴み出した。今はただ、これをなんとか萎ませることに集中しなければ。

乗りかかった船、乗りかかった馬、渡りかけた橋。

頭の中にそんな諺がぐるぐるとめぐる。 

その時のサンジは、自分がゾロに乗り掛かられてしまうことになるとはまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

end

 

  

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英語のスラングには「XYZ(eXamine Your Zipper)」という言葉で「社会の窓が開いてますよ」を遠まわしに言う表現があるそうです。