月明

冴え冴えとした満月が辺りを照らす。波は穏やかで風は微か。さざ波もない海に浮かぶ船はゆらりゆらりと静かに揺れている。

見張りを交代し展望台を下りようとしたゾロは、見慣れたはずの甲板の景色がいつもとはずいぶんと違って見えることに気付いた。光の加減のせいだろうか。色は無く形ばかりがはっきり見える。昼間のように明るく、けれどもどこかつめたい光に満ちた景色はつくりものめいていて昼間とは異なる光景に幻惑されるような気がした。

こんな青白い月夜の晩は、死んだ幼馴染との最後の一戦を思い出す。幼馴染が通算二千一勝の未来永劫の勝ち逃げを成し遂げたあの夜もこんな風に明るくつめたい光に満ちた満月の晩だった。振るう刀の鋭く冴えた太刀筋はあまりにも鮮やかで、悔しく思いながらも見惚れていた。真正面から対峙していたはずなのに記憶に残るのは幼馴染の顔よりも地面に映った影の踊るような動きだった。

踊るような動きといえばもう一人心当たりがある。

ふと嗅ぎなれた匂いが鼻先をかすめる。

銜え煙草のコックがキッチンからふらりと出てくるのが見えた。月の光で髪の色がやけに白っぽい。見るともなくその姿を目で追う。黒いスーツとの境目がわからない影が黒々と足元に伸びる。そのまま部屋へ行くのかと思われた男はゆっくりとした足取りで芝生の上を歩いて行き甲板の真ん中あたりで立ち止まると、おもむろにくるりとターンをした。それから頭をあげ姿勢を正すと、正確なステップで前へ進んだ。

ゾロはあっけにとられた。普段の行動も尋常じゃないところがあるが、それにしても奇妙に過ぎる。夜半に一人でいったい何を?

高い場所で訝るゾロのことなど知らないのだろう。眼下のコックは器用な足さばきをしてみせた。ときに軽快に、ときに柔らかく、右へ行き、折り返し、一瞬止まり、ゾロには分からないようなさまざまなステップを刻む。いつもはいくぶん猫背気味の背筋がピンとのび、どこか近寄りがたい優雅さを漂わせる。従えている影はコックの動きに完全に同調してまるで生き物のようだ。敵と戦うときの流れるような身のこなしを、完璧な作法で踊っているみたいだと内心思っているゾロだが、まさか本当にコックが踊るとは。予想外だ。

そうしてひとしきり自分の影を相手に踊った男は、始まったのと同じくらい唐突にぴたりと動きを止めた。ダンスは済んだということなのだろう。それからよく見知った背中を丸めたいつもの姿勢で甲板を横切り船べりのところまでたどり着くと新しい煙草に火をつけた。

途中で目を離すこともできず結局最後までコックの様子を見届けてしまったゾロは、甲板に降り立つと海を向いて立つ後ろ姿に引き寄せられるように近づいた。足音も気配も分かっているだろうにこちらを気にする風もない男の様子は、さきほどの奇妙な挙動さえゾロの気のせいだったのかと思わせるほどそっけない。

「なにか言いたそうだな」
近すぎず遠すぎず、微妙な距離を開けて隣に立ったゾロをコックは一瞥してから声をかけた。
「いや……」
「おれの華麗なダンスに魅了されたか」
「……気づいてたのか」
「そりゃ、あんだけガン見されちゃァな。いやでも分かる」
そう言ってサンジは短くなった煙草を船べりに押し付けてひねりつぶした。そして身を反転させ手すりに体を預けて空を見上げる。気まぐれにそよと吹いた風がサンジの長い前髪を揺らす。あらわになった額には皓々と明るい月の光があたって白く光る。月光がもたらすくっきりとした陰影がコックの姿を見知らぬもののように見せる。それが少し気に食わない。

「なんであんなマネを?」
どうということのない疑問だったが少しばかり嫌味な聞き方になってしまったのは気に食わないという気持ちが混じってしまったせいだ。敏いコックは案の定つっかかってきた。
「いいじゃねぇか。こんな見事な月の晩だ」
「悪いとは言っちゃいねぇ。ただ気でも狂ったのかと」
「月の光にうたれて? 気が狂ったと?」
サンジが言いながら、もの問いたげな視線をゾロへちらりと投げかける。その目つきが言っている。

――月光にうたれてどうかしてたとしか言えないことをやらかしたよな。おまえと。

「……今更だろ」
「そうだな」
たしかに気が狂ったとしか言えなければあんなこと起こるはずもなかった。今日のように月の明るい晩、どうでもいいような成り行きで、あの冷ややかに見える白い肌の内側の思いつめたような熱を知ってしまった。硬質な石を思わせる青い瞳が潤んで溶けるように色を変えることも、深く低く響く声があり得ないほどの艶を帯びて甘く掠れることさえも。

ただでさえ距離感のつかめない男と、以来どうにも定まらない関係を続けている。この男は自分の何なのか、ゾロには分かりかねて、その曖昧さに酷く苛立つことがある。気に食わないのに気になって仕方がない。自分の感情が何なのか、名前のつけられない思いがうやむやのまま身の内にわだかまっていて落ち着かない。

いっそ離れることができたら。いっそ切り捨てることができたら。
しばしば本気でそう思うのに、どうしてもそうできないのは、仲間だからという理由だけではないことくらいは気付いていた。だから今だってこうして立ち去ることもできず、会話もないのに並んで海を見ている。

波が船腹にあたる音に紛れ、さきほど交代した見張りのブルックが奏でる微かなヴァイオリンの音色が展望室の方から漏れ聴こえてくる。曲はわからない。夜にふさわしくひっそりとした調べに遠い潮騒をきくようにただ黙って耳をすませる。

「あれは」
黙っていたコックが口を開く。あれが何を指しているのか一瞬わからなかったが、一人で踊っていたことを指しているのだと思い当たった。
「ガキの頃、船で出逢ったレディのために」
この男の口から昔話を聞くのは珍しい。さきほど見られてしまった踊りの言い訳なのか、誰かに聞いてもらいたい話だったのか。
「……今日みたいな満月だったな。おれは厨房の下働きとして客船に乗っていた。当然相部屋だ。同室のヤツのイビキがどうにもうるさくて、夜中に甲板に上がったら彼女が一人で踊ってた」
喋るたびに薄いくちびるに張り付いた吸いかけの煙草がぷらぷらと揺れる。
「子供のおれにはずいぶん年上に見えたけど、今思えばナミさんよりも若かったんじゃないかなあ。可憐なレディだったな。船じゃダンスパーティはつきもので、憧れの人の足を踏みたくないからって一生懸命練習してたよ」
当時を思い出しているのだろう、柔らかい目をしていた。
「練習につきあってって言われたんだが、踊れないからって断っちゃって」
まあ、子供だったし、と呟く。
「そのレディとは他愛ない話をして『またね』って別れた」
指に手挟んだ煙草がずいぶんと短いのに頓着せずにコックは続ける。
「彼女の名前は聞きそびれたけど気にしなかった。同じ船の上だし、どうせまた会えると思ったから」

不穏な間。

「でも、それからすぐに嵐に遭遇して船は沈んだ。自分は結局助かった。だけど」
その先を男は語らなかった。火傷しそうなほどチビた吸いさしをゾロはコックの指から抜き取って海に投げ捨てた。余計なお世話とは思ったが、この男の手が焦げて傷つくのは忍びないと思ったからだ。
「だから、こんな晩は時折思うんだよな。彼女の望み通り踊ってあげればよかった、とか。名前を聞いておけばよかった、とか」
「名前?」
「名前がないと思い出してもその名を呼んで祈ってあげられないだろ」

コックという男のよくわからないところはこんなところだ。行きずりの名前も知らない女のためにも祈るという。弔うために名前が必要だという。よく知りもしない相手の名前など記号に過ぎないのに。

「なあ」
サンジはゾロに真正面から向き直った。青白い月の光にいつも以上に白く見える肌の色。
「月のせいでどうかなってるから聞く」
これ以上にないほど正気で冷静な口調でサンジはゾロに問うた。
「……おれの名前、知ってるか? ゾロ」
青い目がまっすぐにゾロを見る。ゾロは一瞬たじろいだ。
「……知ってる」
当然だ。知らないわけがない。仲間が皆いつもその名を呼んでいる。自分はただの一度たりとも呼んだことのない名前を。
「知ってるなら言ってみろよ。このままじゃ、いざって時におれのこと、弔うこともできねェぞ」
冗談とも本気ともつかない声音でサンジが言い募る。そのセリフにゾロは怒りを覚えた。

弔い? 何を言っているのだ、この男は。
「おまえのことは弔わない」
弔いは、生きている人間が死者のために行うものだ。先に逝くのは許さない。

ゾロの言葉をどうとったのか、どこかが少し痛むような表情でコックが再度言う。
「どうせこんな月の晩、気が狂ってるんだ。呼べよ」
たとえば、呼べよと言われたのが太陽の光あふれる昼間ならば「コック」と言ってしまえばよかった。
それは職業名であって名前じゃねェぞなどと言いながらも、コックという職業にプライドを持っているこの男はさして気にすることもなくそれ以上追及したりしなだろう。

でも今は茶化してしまうにはあまりにも月の光が明るかった。気が狂ってるなどと嘯くコックをはぐらかしてしまったら取り返しがつかないような気がした。かといって、今ここでこの男の名前を呼んでしまったら、アタマがおかしくなったから言ったとコックは思うだろう。それは断じてやりたくない。この男の名前を呼ぶときは……。

そこに思い至ったところでゾロはようやく相手に対する自分の感情に気づいた。
––惚れている。曖昧なまま抱え続けてきた感情が霧が晴れるように急速に明確になっていく。
正しく、真剣に、気の迷いなく、たしかに惚れている。相手を表す名前さえ大切すぎて音にできないほどに。

目の前のコックは名を呼べと言う。記号などではない名前は音にすれば隠れた感情を露わにするだろう。この男の名をもし呼べば、ありえないような響きを帯びてしまいそうで空恐ろしくなった。当人にさえ聞かせられない。

呼ぶ代わりに手を差し伸べて引き寄せて抱きしめる。戸惑いながらも抵抗なく腕の中におさまった男のくちびるにその名前を直接吹き込む。何よりも尊いたった三字を思い知ればいいと思った。

 

 

 

end