指を切った。
ぽたぽたと落ちる血の赤い色を見て、料理の時に包丁で切るだなんていつぶりだろうかと妙に冷静な気分でサンジは考えた。
出血は派手だが、たいした怪我じゃない。とりあえず指の根元を強く抑えて止血、それから……。
「血ィィーー!!医者ぁーーーーー!」
誰にも見つからないように処置をしてしまおうというサンジの願いは残念ながら叶わなかった。こともあろうに船医に見つかってしまったのだ。この船に乗っている以上、もっと酷い怪我をいくらでも見てきているのに、己の職業の矜持に満ちた船医はどんな小さな怪我も見過ごしてはくれない。縫合、包帯、と心配する責任感の強い船医をなんとかなだめすかし、絆創膏一枚を貼ることで決着を見た。サンジにしてみれば絆創膏さえも不要と思しき程度の怪我だが仕方ない。つぶらな瞳を潤ませる船医には逆らえないのだ。それが夕食前のこと。
***
「さてと」
賑やかな夕食を終え、後片付けも済ませたサンジは煙草を吸いに甲板へ出た。怪我をした左手を目の前にかざす。小指の先っぽにぐるりと巻かれた絆創膏。ガーゼの部分にじわりと滲んだ血の跡があるが、今は血は止まっている。痛みはない。船医への義理も果たした。そろそろ剥がしてもいいだろう。怪我をした方の手を船べりに置き、くわえ煙草で貼られたテープの端をぺりぺりとめくろうとして、サンジはうなった。
ーーさすがチョッパー。きっちり貼ってやがる。
後片付の洗い物で濡れたはずなのにも関わらずびくともしない絆創膏に船医のプロ意識を見る。思いのほか手こわい絆創膏に手こずっているところにゾロがやってきた。
「やめとけ」
サンジが何をしているのか分かったのだろう。簡潔な調子で制止される。
「おまえに言われたくねェよ」
サンジはため息とともに煙草の煙を吐き出した。死にそうな大怪我をしても包帯などすぐに取ってしまう男が何を言っているのか。サンジの言葉にゾロから返ってきたのは意外な言葉だった。
「手の怪我はちゃんとしておけ」
「あー……」
確かに手は大事だ。大切にしている。それをこんな風に言われるとは。しかもゾロから。実に面映ゆい。「不注意だな、アホ」と言われた方がまだマシだ。もっとも、そう言われたら蹴り飛ばすが。
「まー、チョッパーがちょいと大げさなだけで、たいした傷でもねェし」
気恥ずかしさが先に立ち、軽薄な様子でサンジは続けた。何ともないとアピールするためにゾロの目の前でひらひらと左手を振る。その手が剣だこのある大きな温かな手にがしりと掴まれた。
「……ったく。傷、増やしやがって」
忌々しそうな顔つきと言葉とは裏腹にゾロの口調は優しい。サンジの左手小指の爪の横、絆創膏に隠れている患部のあたりをゾロの指がそっとなぞる。
「今回はかぼちゃだぜ?」
冗談めかしてそう言ったサンジの手には、火傷に切り傷、たくさんの怪我の跡が食材と料理の記憶とともに残っている。この傷が、料理人のいまの自分を築いた。手は大事だ。だけど料理を覚えるために手に付いた傷も大事な痕跡なのだ。
「傷の理由、全部、覚えてンのか?」
「まあな」
剣士が負けた悔しさをバネにするように、料理人も失敗から学ぶのだ。火傷も刺し傷も切り傷も、不注意も失敗も忘れない。忘れるわけがない。
「じゃあ、切るから覚えとけ」
はあ?切る?何を?サンジが聞き返す間もなく、怪我をした小指にゾロの左小指が絡みつき、結びついた小指同士が何度か揺れて解かれる。
「これ以上怪我すんな」
ぼそりと言ったゾロの言葉も、何が起こったのかも、よく分からずに呆然とするサンジをよそにゾロはとっとと立ち去ってしまった。
『ゆび切った』
そう宣言して約束の厳守を誓うイーストのまじないだと、サンジはずいぶん後に知った。
end