5リットルの空気

 相変わらずアホコックとは、つまらないことで喧嘩している。

 一緒の船に乗り合わせてもうずいぶん経っているから、ヤツのバカくさい行動や大仰でくだらない言葉にはいい加減慣れていて、だから喧嘩の原因はそんなことではなかった。諍いの原因が、相手が気に食わないとか癪に障るとかそういうことだった時期も、実はすでに通り過ぎていた。お互い真逆の人間だから些細なことが癇に障るということはままある。でもそれだけだったらこんなにも毎回やり合う必要もなかった。意識してか無意識なのかそこはちょっと微妙なところだったが、喧嘩はワザとだった、と思う。

 おれだってちゃんと分かっていた。
 本当に気に食わなければ無視すればいいだけのこと。
 本当にろくでもないヤツであれば斬り捨てればいいだけのこと。
 それをしないで、どうでもいいような針の先でつついたようなほんの小さなことを大げさに言い立てて相手の気をひいて、相手がそのネタを拾ってムキになってつっかかってくるのを楽しむ。それをまた、ご丁寧にも気に入らないとかムカつくとか頭にくるとか言ってはバトルをくりひろげる。そうやってとにかく喧嘩のための喧嘩を繰り返す。

 だからウソップから「おめえら仲悪すぎだ」と言われても、心配されるほど悪いわけじゃねえよと思って聞き流していた。その一方でナミから「喧嘩するほど仲がいいっていうわよね」と言われると、そういうワケじゃねえけどな、と何となく苦い気持ちになった。

 仲良しではなかった。
 仲良しという言葉で表されるような和やかで安定した関係になったことはなかった。 おれたちの関係は全く安定してなかった。
たとえばルフィとの関係は安定していた。相互に絶対的な信頼感がそこにあった。それはアホコックも同じだったはずだ。船長に対して揺るぎない信頼を寄せ、船長から無条件に信頼されていた。ほかの仲間ともそれは同様で、相手に対する強い信頼と信用の下、船という運命共同体の一員として常に変わらぬ気持ちで日々を過ごすことができた。昨日も仲間で今日も仲間で明日も仲間だという単純なことを疑いなく信じていられた。
 それがコックとだけは違っていた。仲間としては信頼も信用もしていて、それらが他のメンバーよりも少ないというのではない。ただ間合いだけがまるで定まらなかった。いちゃもんをつけて喧嘩をして近付いたり遠ざかったりしながら、相手との定まらない間合いを探る。不安定な足場でつりあいをとるためには常に小刻みに動いていなければならない、まるで綱渡りのようだった。均衡は保っているのに安定も静止もしていない。ちょっとした力の配分のミスで全てがひっくり返る。
いっそのことひっくり返してしまいたい衝動に時折かられながら、喧嘩することでバランスをとっていた。

 

 あいまいで中途半端な状態のままでも日は流れる。
 その日は蒸し暑く、晴れてなくて月は出ておらず、風はほとんど吹いていなかった。居心地のよくない夜が来て、眠るに眠れず寝床でじっとしていることもできず何度も寝返りを繰り返し、結局寝るのをあきらめて起きあがった。

 見張りの用をなしていなかった当番のルフィを男部屋に落とし込み、代わりに見張り台に上る。高い所にいるのに涼しくない。風は時折思い出したように身体の表面をかすめて過ぎるだけだ。停泊しているのは夏島の海域で大きな島に近く、数時間前まで海は夥しい数の夜光虫で光っていた。チョッパーは初めて見る光景に興奮し、ルフィは海に飛び込もうとしてウソップに止められコックにどやされていた。幻想的、キレイとはしゃぐ女どもをよそにおれは身の内がざわつくような嫌な感覚をおぼえていた。
 あれはよくねえ。目を離せないほど鮮やかなのに、あんな風に得体の知れないものは。見ているだけで引き込まれそうになる。
 幸いなことに、海を照らすほどの夜光虫の群生がいた海域はしばらく前に抜けており、今はその残りがわずかに船の周りに漂って波にもまれ、時折船体にぶつかっては青白くボウッと光るのがかすかに見えるだけだ。

 その淡い光を見るともなしに見ていると、視界に人影がはいった。コックだった。細身の身体を包む黒いスーツが暗い夜闇に紛れ込む。

 生ぬるい風が頬をなでる。
 コックは船べりに手をかけ海面を見つめていた。放っておけばコックがそのまま海へ飲み込まれそうな気がして、おれは見張り台から思わず飛び下りた。甲板に着地した音で気付いただろうが、さらに存在を示すようにわざと大きな足音をたてて近づく。

「なんだよ、うるせえな。レディ達が起きちまう」
 コックは背中を船縁にだらしなく預けるようにしておれに向き直ると厭味ったらしい口調で言った。おれはムッとした。珍しくハナっから喧嘩腰だ。二人きりのとき、最初からここまで好戦的なもの言いをされることは最近なかった。それでも、おれはその喧嘩を買うつもりはなかったから普通に尋ねた。
「なにしてんだ」
「見りゃわかるだろうが。おれさまは優雅な一服中だ」

 見りゃわかる。だから本当に聞いているのはそんなことじゃない。コックだってそれは分かっているはずだ。コックは本来察しのいい男だ。それがこちらの気持ちを逆なでするように何も分からないフリをする。体のいい拒絶。その様子におれの中で急激にいらだちが膨れ上がった。

 その手元には火のついたコックのトレードマーク。煙草のにおいにはもう慣れた。金髪碧眼に長い手足の無駄に人目をひく姿形にも慣れた。何も考えていませんといった軽薄な様子にも慣れた。そのくせとんでもなく複雑な中身と見た目との違いにも慣れた。色んなことに慣れた。慣れたら日常で当たり前で特別なことではなくなるはずなのに、どうしていつまでもこの男のことだけが他と違って見えるんだ。

 限界だった。
 他の奴らと同じ間合いとろうと、近寄っては離れ、離れては引き寄せられながらこの男との距離を探るように保ってきた。一定の距離を維持するのに足掻くような努力をしてきた。それなのにいきなり拒絶か。ふざけるな。だったら力尽くで一番そばまで寄った方がマシじゃねえか。バランスなんて知ったことか。壊れるなら壊れちまえ。

 こみあげる暴力衝動に任せてコックとの距離を詰め、男の背後の船縁に手をついて両腕で囲う。おれのリーチの範囲の狭い空間にコックを閉じ込める。逃げられないようにした。
 そのはずなのに。

「なんだよ」
 動じた様子もなくコックが言う。ゆっくりと煙草を咥えなおす。
「何がしてぇんだよ。サッパリ分からねえ」
 くわえ煙草の赤い焔が軽薄そうにぷらぷらと揺れる。
「てめぇの今の態度が悪い。わかってるよな」
「何も言わねえのに分かるわけねえだろ」
「わからせてやる。逃げるんじゃねえぞ」
「逃げるなってんなら、逃げ道はふさいだ方がいいんじゃねえのか」

 逃げ道? 一瞬の疑問が隙を生んだ。腕の囲いの中、コックはくるりと身体を半回転させると流れる動作でおれの手首を掴みそのまま肘関節を固めてから、おれを甲板に蹴り倒し自分は身軽な動きで手摺りの上に跳ね上がった。両腕を広げて言う。

「なァ、見ろよ。広い逃げ道だろ?どこへだって行ける」
 おれに一瞥をくれた後、にやりと笑ってコックは海に身を翻した。

 逃した。
 ふつうの人間にとって背にした海は行き止まりで、だから退路を断ったはずだったのに。いや、違う。あの男はしっかりと掴んでおかなけりゃならないものだったのに、逃げ場を塞ぐなんていうヤワな考えでコックをその場にとどめておこうなどと思ったおれが浅はかだった。

 逃がさねえぞ。いま追わなければこれから先もずっと徹底的に逃げられる。のがさねえ。