その眠りを守るもの

 うるせえ男だ。

 最も新しく仲間になったコックのことである。

 整理、整頓、清潔、清掃!掃除は一日2回!!
 船に乗り込んですぐにそんなことを叫びだした。バカじゃねえか。どこの海賊船がそんな風にきちんとしているっつうんだ。

 整理?あるものはあるし無いものは無い。
 整頓?散らかっていても何がどこにあるのかなんてのは分かる。どうせまた散らかすのに元にもどす必要なんてねえ。
 清潔?病原菌に負けるようなヤワな鍛え方はしていない。病気になるのは不潔のせいではなく気合が足りないせいだ。
 清掃?埃で死んだ人間はいない。

 コックの言っていることは全くナンセンスだ。女子供じゃあるまいし、ましてや死ぬか生きるかの航海に快適さなんて求めてどうすんだ。この船は道楽で海を渡る客船じゃねえ。どうせナミにアピールするためだろう。コックが乗り込んできてからというもの、格段にきれいになったラウンジを確かにナミはありがたがっていた。が、それだけだ。

 暴力コックがうるさく騒ぎ立てるので、結局ウソップあたりは脅しに負けて、言われるがままに手伝ったりしていたようだが、ルフィもナミもおれもコックの言ってることを聞き流していた。コック自身もこの船に慣れるに従って、あきらめたのか何も言わなくなった。言わずに一人でやっていた。

 おれはそういう自分の価値観を他人に強要するヤツが我慢ならない。
ルフィが認めて仲間になったヤツで、見た目に反して意外と強いのも肝がすわっているのも知っていたが、小姑みたく細かいとは思ってもみなかった。船長の許可がおりている以上、おれがどうこう言える義理じゃないが、仲間として見るにはあまりにも気に障った。

 ろくでもねえ男だな。

 そう思っていたのだが。

 大時化に遭遇した。
 気象の変化に誰よりも敏感なナミでさえ間に合わないような天候の急変だった。
 横殴りの雨が船を猛烈な勢いで襲い、強風がうねりをよんで船は激しく揺れた。高波が甲板を何度も洗った。
 食料、火薬、日用品、濡れると駄目になっちまう品物に防水シートをかぶせるような、ふだんだったらどうってことのない単純な作業でさえ困難を極めた。シートが風にバタバタと煽られ、きつい雨で視界がきかず、強い風に身体が持っていかれる。
 つかまるもののない甲板でバランスを崩し足を滑らせたら海に落ちて一巻の終わりだ。戦闘とは全く違う生命の危険を感じる。ほんの一時間前まではあんなに穏やかだった海が牙をむき、その恐ろしさに皆で必死になって抵抗する。

 ナミが大声で指示を出す声が風にふきとばされて聞こえない。
固定されていなかった道具箱が吹っ飛んでくる。それが体をかすめてマストに当たり中身がぶちまけられ、そしてあっという間に波に飲まれ消えていった。あれがもし頭に当たったらと思うとぞっとする。人の力なんて自然の脅威に比べればちっぽけだ。
 それでも、力尽くで畳帆し、舵をとり、甲板からキャビンへと引き上げようとしたその時、風と波のあおりをうけて船が大きく傾いた。
立っていられずどこにも掴まれず、なすすべもなく身体が傾いだ甲板を滑って行く。

 やべえ。

 肝が冷えた。このまま滑っていけば海に落ちる。この荒れた海で海水浴なんてシャレにならねえ。

もがくように手を伸ばすとロープの感触があった。
んなところに?疑問に思う間もなく、それを掴んだ瞬間に大波をあびた。

 マジでやばかった。
ロープがなかったら波に巻き込まれ海にさらわれるところだった。

ようやくの思いで船室に戻ると、ナミとウソップが震えていた。ルフィは海水をかぶったせいで力が抜け完全にぐったりしている。

「ゾロ、よく無事だったな。」
「ああ、ロープのおかげで助かった。あんなところに張ってあるとは思わなかった。」
「嵐が来てすぐにサンジくんが落水防止に張っておこうって。安全索(ライフライン)ないと危険だからって。」ナミが青い顔をしながら答えた。
「そのコックはどこにいるんだ。」ぐるりと船内を見渡したがコックの姿はなかった。
ナミが一瞬言葉をつまらせた。
「みかん畑。」
「こんなときにあほじゃねえか、死ぬぞ。」
「うん、おれもそう言ったんだけどよ。木の様子、ちょっと見てくるって。」

 バカじゃねえのか。この嵐をなめてんのか。
 自分の命とみかんとどっちが大事だってんだ。

 猛烈に腹が立った。この期に及んでナミに向けてかっこつけるつもりか。バカが。ナミもナミだ。なんで止めねえんだ。知らずナミを睨んでいたらしい。

「おれもナミも止めたんだけどよ。サンジ、大丈夫だからって行っちまって…。」ウソップがとりなすように言うがその声は小さい。
 室内にいても、ごうごうと風のうなる音と雨が船室の外壁を激しくたたく音が聞こえてくる。

船の揺れに同期して激しくゆれるランプが不安定で不気味な影を部屋の壁に何重にも映し出す。
食事の時間以外はいつも整理されている場所だが、今はいつにも増して一段とものが片付いている。余計なものは何も出ておらず、キャビネットの扉もひきだしもぴたりと閉まって無機質なくらいだ。主を失い使われなくなった部屋のように。人気の全く感じられないあまりの整然さに気持ちのどこかがひやりとする。

 突然バンと部屋のドアが開いた。
 コックが帰ってきた。無事だった。

「サンジ!」
「サンジくん!!」ナミとウソップが同時に叫んだ。
「ナミさん、みかんの木は大丈夫だから。」いつもと同じ足取りで室内を歩きながらナミに向かって言う。
「バカ!いいのよ。でもありがとう。」ナミが怒りながらも礼を述べる。
「うれしいなあ、ナミさんに感謝されて~。」
コックは普段通りだ。あまりにもいつも通りのその態度に腹立たしい気持ちになる。

 嵐をなんだと思っているんだ。海の恐ろしさが分かってねえのか。こいつは一体なんなんだ。

あまりにも軽薄なその様子に、ブン殴りたい気持ちを抑えるのがやっとだった。

 嵐が過ぎた翌日はぬけるような青空のよい天気だった。クルー全員で嵐にやられた後始末をする。
格納庫や部屋にまで入り込んだ水をかき出し、甲板をデッキブラシでこすり、海水に浸かったものを真水で洗い流す。防水シートをかぶせてもシートの隙間から水が入り込み濡れてしまったものをひとつひとつチェックして甲板に並べて乾かしていく。
 ルフィは途中で飽きてしまい羊頭の上から海のかなたを眺めている。それでも時々は戻ってきて、ナミにどやされウソップの話に笑い転げながら甲板を跳ね回ったりしている。

 地道な作業が延々とつづく。
 ロープを巻きなおしているとコックがふらりとやってきた。特に会話も無いままにしばらく並んで作業をしていると、ふいにコックが口を開いた。

「あのさ。」

 いつもと違って何か殊勝なもの言いだった。それで耳を傾ける気になった。

「あのな、いつも言ってるアレ。」
「あれ?」
「整理整頓…って言ってるだろ。」
「ああ。」
「あれな、快適さを求めるためにやってるんじゃねえんだ。生死にかかわるからやるんだ。」
 意外な言葉に思わずコックを見返したが、うつむいて作業をしてるのでその表情は分からなかった。ただ真面目な話をしているのは声で分かった。

「昨日の嵐、ひどかったろ。」コックは淡々と語った。

 開けっ放しの扉、出しっぱなしの道具が嵐の日には凶器と化すこと。
 雑然とした床や甲板では素早い動きができないこと。
 とっさの判断が求められる状況下で、あるべきものがあるべき場所にないことが、打つ手をどれだけ遅らせるか。その一瞬の対応の遅れが命運をわけること。
 狭い船の中で暮らすための鉄則だと。

 うるさく言っていたのはそういうことだったのだ。

 海の上で生きるということ、船という制限された場所で暮らすということ、そのために必要なことだったのだ。
 快適さは主な理由ではなくオマケみたいなものだった。

 大剣豪になる。強い相手に敗れるのはいい。自分の実力が足りなかっただけだ。暗殺だろうが敵に命を狙わるのもかまわない。たとえ謀であっても、命を狙われるほどの対象になったという事実はおれの強さを示すひとつの指標だ。罠で死んだとしても、それに気付かなかった自分が迂闊だったというだけだ。嵐で命を失うこともまだ許せる。グランドラインに踏み入るということは、この強大な自然を相手に戦うことを挑んだ証だ。勇気が持てずにグランドラインに入れもせずにいる輩も多いなかで、挑んで敗れるのは勇気の無さのせいでなく、運に見放されたということだ。それも仕方ねえと思う。

 けれど、自分の不注意が災いにつながることや、避けられたはずの事故を呼ぶことは。

 それはいやだ、と強く思った。

 不運にも愛刀を残して死んでしまった親友の無念さを思い出す。

 あんな風に叶えたい夢に挑むことさえできずに命を失うなど、とうてい受け入れられない。

 おれはコックを改めて見返した。

 いつもの黒い上着は脱いで、青いシャツをひじのところまで腕まくりして、くわえ煙草で、いかにも手馴れた様子でロープのコイルダウンをしている。

 コックは。

 誰も気付かないような日々の生活のいたるところで命の重みを考えているのだ、と知った。おれのように戦いの場でのみ命のやりとりをしているのではなく。口うるさいのは、それが自分の生だけではなく皆の生を気づかい守っていたからなのだと。

 昨日見た完璧に片付けられたキッチンは主を失った部屋ではない。生命を守るという主の使命で息を潜めていただけだ。

 やられた。一本とられた。

 そう思った。

 親友のくいながいつも鮮やかにおれに一太刀浴びせるのと同じくらいガツンとした衝撃をくらった感じだ。

「終わったぜ」ふいにコックが顔をあげた。
 穏やかとまではいかないが、思いのほか落ち着いた静かな顔つきだった。話も作業もいつの間にか終わり、コックは新しい煙草に火をつけた。

 今コックがした話は、「だからおれがいつも言う通りだろうが。これからはちゃんと言う事きけよ。」とイヤミを交えて言ってもおかしくない内容だったはずだ。少なくとも、今までおれはコックはそういう男だと思っていた。
 けれど意外なことにコックはそれについては文句のひとつも言わなかった。おれの隣でのんびりと煙草をふかしていた。

 言うべきことを言い、やるべきことはやった、よく考えればおまえも分かるだろう、という風に。

 今の話を聞いてどう答えればいいのか。

一本とられたと思ったが、謝ればいいってものじゃないと思った。
 かといってこのままでは潔くねえんじゃないか、コックに借りを作ったままなんじゃねえかとも思った。
 だからおれは思わず「おまえの頼みをひとつきいてやる」と言ってしまったのだ。

「はあ?」コックは目をまるくした。「なんだそりゃ。どういう話の流れなんだよ?」
「わかんねえのかよ。」
「わかんねえよ。おまえ、思考回路も迷子かよ。」コックは戸惑ったように見えた。だがその直後、何か考え付いたようににやりと笑って言った。

「ま、理由はよくわからねえが、せっかく剣豪サマがそう言ってくれるんじゃあ、頼まにゃ損だよなあ。」
マズイ事言っちまったと気付いて焦ったが、今さら取り戻せない。

 そして、その結果が今、目の前にある。