hungry

 

 

「食わせろよ」

夜半、ふらりとキッチンへやって来た男は、前置きもなくそう言った。

ほんのしばらく前までは、皆が集ってお茶を飲んだりくつろいだりして賑やかだったキッチンも、一人二人と去っていき、今や、後片付けをしているサンジしか残っていなかった。その後片付けさえ終わりに差し掛かっていて、ほかの仲間たちはとっくに眠っているか、寝る態勢に入っている時間帯だった。

メリーのコックを任されて以来、この船の人間の中で唯一、どうにもこうにもそりの合わない、無視も出来ない、距離感の分からない、それでも出された料理は必ず残さず平らげるという点では一定の評価が出来る同い年の男の珍しい求めに、サンジは一瞬戸惑った。

―― 本日の営業は終了です、クソお客様。

この男に対する無条件反射的反応でそう言おうとしてやめた。

自分たちの関係や、きれいになったばかりのキッチンを思えば、「我が儘を聞いてやる義理はねぇ」と言ってやってもいいんじゃねぇかと頭の片隅でちらりと思う。けれども男は明らかにどこか飢えた顔つきをしていて、何か食べさせなければと思う気持ちの方が勝ったから、「腹が減ってんのか?」と問い返してみた。


夕食はちゃんと摂っていたはずだ。酒には意地汚いが、食事にはさほど執着するそぶりをみせない男が、食事時間以外に食べ物を所望したことは、かつてなかった。いつにない言動を訝しく思いながらも、目の前の男が空腹を感じているという事実に、サンジは幾許かの罪悪感を覚える。仲間を飢えさせない、仲間に飢えた思いをさせないことを信条としているのに、食事が足りなかったなどと。

男は頷いた。

「どのくらい腹へってんだ?」

作るにしても、相手の状態が分かりかねた。温かいものがいいのか、冷たいものがいいのか、軽めがいいのかそうでないのか。他の仲間だったら訊かなくても分かる。もしくは、サンジが尋ねなくてもリクエストしてくる。しかし、この男に関しては見当がつかない。作るものや量を見誤りたくなくて、サンジは直接尋ねてみた。

「わかんねぇ」
「は?」

男の返答は予想外だった。

「てめぇの空きっパラ具合を聞いてんだ、分かんねぇこたァねえだろ?」
「わかんねぇんだ」
「じゃ、別に腹ァ減ってねぇんじゃねえの?」
「いや、飢えてる」


要領を得ない返事をしながら、男は入口付近から部屋の中ほどへと進んできた。席について、何かが提供されるのを待つ態勢になるのかと思いきや、テーブルの定位置を通り過ぎ、ゆっくりとサンジの方へ向かってくる。わずかに眉根が寄せられた顔つきは、しかし、怒っているわけではなさそうだった。むしろどこかしら困惑しているように見えるのは、妙に慎重な足の運びをしているからだ。戦いにおいて敵と対峙するときでさえ、無造作にも見えるもっと大胆な歩き方をする男なのに、緊張感すら漂わせた探るような足取りはどうしてだろう。静かで平穏なキッチンのどこに緊張する要素があるというのだ。サンジの中にざらりとした違和感が生じる。この男が何を求めているのか、何を考えているのか、さっぱり分からない。
 

だから、男が近づいてくる姿を目にしながら、食べさせるべき軽食の用意どころかメニューさえも決められず、サンジはその場に立ち尽くすことになった。

 男の行動を問いただすには、タイミングを逸していた。憎まれ口をたたくには、相手の雰囲気が真面目すぎた。罵って威嚇するには、好戦的な気持ちが不足していた。何より、自分のテリトリーであるキッチンにおいて、空腹を訴える人間を足蹴にして退けることは出来なかった。何一つ行動をおこせないまま、気付けばつま先、鼻先が触れ合うくらいの近さで、目の前に向かい合わせで男が立っていた。 

同じくらいの背丈のせいで、文字通り、目の前に目が、鼻先には相手の鼻が。口元近くには相手の引き結んだくちびるが、いままで誰に許したこともないほど間近に息づいていた。

 「飢えてる」 

男は再びそう言った。

囁きのような小さな声でありながら、あまりにも近い距離に、発した声の空気の震えは、そのままサンジの口元をかすめていき、背筋をぞくりと震わせた。 

「飢えてンだ」

男はサンジを見つめて同じ発言を繰り返した。単に事実を述べているだけの簡潔な言葉は、男の不可解な行動の意味を全く語らない。相手の強い視線を外すこともままならず、混乱する思考を抱えてサンジは男を見返した。せめて理由が知りたかった。どこにも見当たらない答えがもしあるとすれば、目の前の男の内にあるはずで、それを探ろうと熱をはらんだ強い瞳をのぞきこむ。そして失敗した。 

相手の真意を探りたかったのに、見詰め返した目に映る自分の姿を見た途端、己の身の内に湧き上がっては渦巻いている「食わせたい」という思いが、情欲を宿していることに気付いて、サンジは愕然とした。ありえない。飢えを訴える男が求めるものが何であるのか確証もないのに、そんな感情はあってはならない。

 

自分の気持ちを見て見ぬふりでやり過ごし、ようやくのことでサンジは男から距離をとろうとした。しかし、捕まえるためか逃さないためか、いつの間にか力強い手はサンジの腕を捉えていた。 

「食わせろよ」

つい先程、男が部屋に入ってきた時には、たいした物思いもなく耳にした同じ言葉を再度聞く。同じ言葉のはずなのに、以前とは全く違って聞こえるのは、自覚してしまった気持ちのせいだと気づいて、サンジは感情を黙殺することを諦めた。

「食えよ」
逃れられないなら、自分の意志で。

 

 

 

 

 

end