空に知られぬ雪

春島の春の海域は、夜半になっても冷え込まない。適度な湿り気を帯びた穏やかな夜気が辺りに満ちていて、実に気持ちのよい晩だ。ぼんやり浮かぶ月を見上げ、今日が当番とはヤツも運がいい、などと思いながら、夜食を届けるためにひょいと見張り台に飛び乗った。

「よお」
「おう」

当番のゾロがメリーの狭い見張り台の中で座ったまま伸びをする。伸ばされた腕をよけつつ「そらよ」と夜食の入ったバスケットを渡してやると、おもしろくなさそうな顔のくせにいそいそと(ものすごく矛盾した言い方だが、そうとしか言いようがない)受け取った。

「おっ」
バスケットを開け、思わずと言った風に声をあげたゾロを見て、内心にんまりした。塩にぎりに、油揚げと小松菜の味噌汁。おかずは豆板醤を加えた煮汁でしっかりと味付けた鰯、副菜はだし巻卵と、なぜか最近仲間に人気があっておれとしてはだいぶ作り飽きた、くりんと巻いてるぜんまいをナムルにしたもの。それから蕪と人参の浅漬け。ハッキリと好物だと聞いたことはねェが、今まで観察してきた限り、好みの系統の飯をそろえてやったのだ。

「いただきます」
律儀に手を合わせ、食前の挨拶を唱えるのは、イーストのゾロのいた地域の風習と聞いた。食事の度に見せるこの儀式めいたゾロの仕草がおれは気に入っている。

「どうぞ」
食べ始めたゾロを見て、おれは立ち上がった。見張り台の縁に軽く腰を預けた体勢で煙草に火をつける。弱い風が吐き出した煙を連れ去っていく。

以前は、狭い場所でマリモと二人きりという状況がいたたまれずに、夜食を届けてもとっとと戻っていたが、いつの頃からかヤツが食い終わるまでこうして待っているようになった。食い終わった後、酒を回し飲みするようなことも時折。ゾロは饒舌からはほど遠く、言葉は常に不足しがちだが会話は思いのほか成り立った。会話がなかったとしても居心地は悪くなかった。気詰まりでもなかった。食事をしているからかもしれない。事あるごとに角突き合わせてばかりの昼間の反動なのかもしれない。

淡い月光の下、色味の曖昧になったゾロの短髪を見下ろす。あの頭の中で何を考えているんだろうか。おれにとってはひどく大事なこのひと時のことをどう思っているんだろうか。少し分かればいいのに、なんてことをぼんやり思っていたらゾロが不意にこちらを見上げた。

「こいつァ、ななつぼしか?」
仕草で魚のことを指していると推測する。
「んん?鰯だけど?」
「おれのいた辺りじゃ、ななつぼしって呼んでた。腹のあたりに黒い斑点が並んでんだろ。七つくらい。それで」

ゾロが生まれ育った辺り。イーストの村。

「ガキの頃、よく食った。こんなしゃれた味付けじゃなかったけどよ」

ゾロのガキの頃。この男の過去。どんな子供だったのか、どんな子供時代を過ごしてきたのか。とても知りたいと思う。知りたいけれど、知りたいという気持ちを相手に気取られたくない。でも知りたい。

「……どんな料理法だった?」
質問は、料理人として口にしてもおかしくない無難なものにすり替わる。
「別に。塩ふって焼くだけ」
「単純だけど、獲れたてならそれが一番美味いからな」
「……おれは、こっちのがいい」

何か、すごく嬉しいことを聞いた気がする。気にいってくれたってことか?普段の食事はおろか、二人きりの時でも料理の好き嫌いも感想も言わないゾロからこんな言葉を聞くとは。空耳?白昼夢?それとも今は夜だから、単なる夢?

ピリ辛の味付けは酒にも白米にもよく合うように試行錯誤で工夫したから、好みの味だと言われたら、してやったりと自画自賛して嬉しがってもいいはずだ。だけど、ゾロの一言にたやすく舞い上がってしまう自分を諌める自分がいる。穏やかな会話ができるようになってきたとはいえ素直になれるわけじゃない。内心の嬉しさを押し隠し、そっけない風で(ものすごく無理のある素振りになるが、そうするしかない)聞きこえなかったことにした。もっとも、ゾロの方はおれの反応など期待してもいなかったようで、何事もなかったかのように食事を続けている。聞き流して正解だが、ちょっとだけ寂しい。

2本目の煙草に火をつける。ここからだと見下ろす形になり表情は分からないが、食べている様子は良く分かる。おにぎりを頬張り、ぜんまいを食らい、味噌汁を飲み干し、まるまる太った鰯の腹に箸を入れ器用に身をほぐして口に運ぶ。ぷくりと頬をふくらませ、おれの作ったものを小気味よく片付けていく。

いいよなァ、この食い方、あの頬袋。好きだなァ、こいつの箸使い。見張りの夜食は食べやすい形態の軽食が相応しいというのは知っているが、ゾロが箸を扱うさま見たさにこんな献立にしてしまうという気がしなくもない。いやいや。ゾロが見張りのときは、手づかみで食べるような物でなくても支障ないと判断しているからだ。おれも傍で待機していることだし。なんて考えていたら、ゾロが急に顔をあげた。目が合いそうになりあわてて顔をそむけ空に向かって煙を吐く。見とれてたなんて、知られたくない。

ヤツがこっちを見ている気配が消えるまで、空を見上げて、薄いヴェールを一枚かけたような春の夜空にぽつぽつと光る星を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ……ななつぼし。空の星を付けた海の魚を食ってゾロは育った。新鮮な鰯ほど側面の斑点がくっきりとしているから選ぶときは気をつけろと教わったが、あれを星と呼ぶ人はバラティエには誰もいなかった。星は星だった。星は空で光る天体であり、地上からはるか見上げる光点。憧れをこめて遠くから眺める対象。手の届かないもの。

「……しょせん、マリモは星みたいなもんだよな」
「あ?」
聞き返されて、心中で呟いたはずの言葉がぽろりと口からこぼれていたことに気付く。
「いや、いまのはえーと、アレだ。言葉のあや?」
秘めていた気持ちを露呈させかねない危ない発言をあわててごまかす。何が言葉のあやだ。ゾロが訝し気にこちらを見るが、幸いなことに何を言ったかまでは聞こえていなかったらしい。危ない。気を引き締めないと、何か色々バレてしまいそうだ。それだけは、避けたい。

「ごっそさん」
食前と同じく手を合わせて食事終了の挨拶をしているゾロの声に我に返る。
「おう」反射的に応じて、無意識にゾロを見た。目が、合う。じっと見つめられる。頼りない月の光を受けてゾロの白目の部分が暗がりの中でくっきりと明るい。急に強い風が吹きつけた。マストが揺らぎロープがうなる。見張り台の縁を掴み身を支える。バラバラと乱された前髪が視界を遮る。頭を振って視界を確保する。前髪を透かして見る向こう側でゆっくりとゾロが立ち上がる。風がぴたりと止む。ゾロが何か言おうと口を開こうとしたその時、白く小さなものが、二人の間に落ちてきた。

ひらり。はらり。

あわあわとしたと朧月のかかる夜の空。雪の気配などどこにもないのに雪と見紛う白く小さくものが次々と降ってくる。そっと手を伸ばす。冷たくはない。

「花びらだ」
「サクラみたいだな。風で吹き流されてきたのか?」
「すげ……」

季節外れの花の雪。光のない暗い見張り台に、船に、海に、月を薄く削った欠片のような花びらが夢のように降り注ぐ。水平線が見渡せる広い海の、この船の周りだけに花吹雪が降っている。初めて見る幻想的な光景に声も出ない。どんな理屈でこんなことが起こっているのかは分からない。数えきれないほどの花弁が空から舞い落ちてくるのを、ただ立ち尽くして見つめた。薄い花びらはゾロに降り、おれにも降りかかる。
隣に立っているゾロをそっとうかがう。端正な横顔が真剣な表情を浮かべて空を見上げている。
ゾロの向こうに広がる暗い空を、花びらに紛れて、流れ星がひとつ、尾を引いて滑っていく。星はちょうどゾロの肩のあたりに吸い込まれるように消えていった。流れ落ちた星の夢のような光跡に、今ここで、こうして並んで空を見上げることの奇跡みたいなめぐり合わせに思い至る。不意に泣きたいような気持になった。好きだ、と強く思う。

 

空を見上げたままのゾロの手がおれの手を探しあてて握りしめた。
「泣くなよ」
静かな声で言う。
泣いてねぇよ、と言おうとして、うまく出せなかった声の代わりに握られた手を握り返した。

 

ゾロがゆっくりとおれを振り返る。

星に願いをかけるように、好きだ、ともう一度強く思った。

 

 

end

 

 

 

(あとがき)