されど船は進む

帆は風をはらみ航海は順調だ。

 船尾でひとり一服中のサンジのもとに、この愉快な船が持つさまざまな音が聞こえてくる。
マストを支え帆を張るために無数にめぐらされたロープのうなる音、むぎわらの海賊旗のはためく音、みかんの木々のささやき、船長の笑い声、狙撃手の鼻歌、ひづめの足音。そんな生活の音を耳に、仲間の気配を肌で感じ、目には海を映してゆっくりと煙草を吸う。サンジの好きなひとときだ。

 愛しの航海士の声が風にのって聞こえてくる。明るく歯切れのよい口調でテンポよく物言う声は聞いているだけで心が浮き立つ。麗しの考古学者と二人、ティータイムを楽しみながらおしゃべりしているようだ。
 盗み聞きをするつもりはないが、そもそも狭い船の上で内緒話もないだろう。

 風の加減のせいなのか、いつになく話の内容がはっきりと聞こえてきた。

「男って」どうやら男性談義をしているらしい。聞くともなしに耳を傾けた。「本当に嘘をつくのが下手なんだから。」

「嘘をつかれるのはいやでしょ?」ロビンの穏やかな合いの手がはいる。

「そうなんだけど。どうせつく嘘なら徹底すりゃいいのよ。すぐバレるような下手な嘘つくから腹が立つんじゃない。」

 ナミさんがお怒りだ。そういえば今朝、船長が折れたみかんの枝を振り回しながら「落ちてたから拾っただけだ。おれは折ってねえぞ」と言っていた。悪気はなかったとはいえ、船長がふざけた拍子にみかん畑に飛び込んで、枝を折ってしまったのは周知の事実だったが。

「でも女性と男性だったら、女性の方が嘘をつくのがうまいわよね?」
「だって、男は目をそらすからすぐ分かるのよ。」
「目は心をあらわす鏡、というものね。」
「ロビン、そこよ。嘘をつくときこそ、相手の目を見るのよ。私は隠し事してません。潔白です。この目を見て!って、相手に暗示をかけるのがコツよ。」
「まあ。すごいわ。」
「女性相手にはあんまり効かない技だけど、男性はこれが結構きくわね。」
「ふふふ。生きるための知恵ね。」
「そりゃそうよ。」

 会話がとぎれる。

「うまく騙さなければ、生きてこれなかった。死活問題だったの。」ナミの声がほんの少しだけこわばる。でもその固い口調は一瞬のことで、またすぐに明るい声音をとり戻した。

「だからそんな風に気合を入れた嘘をつく必要のない今が、わたし本当にうれしいの。」
「ふふ。じゃあ船長さんのことは許してあげないと。」

 やがて、女性二人の声は風向きが変わるとともに小さくなって聞こえなくなった。

 生きるために人を騙し、嘘をつかなければならなかった航海士はどんなに苦しかったことだろう。長い間辛い思いをしてきたのに、心根の優しさが損なわれることなく、しなやかに強い彼女を心から敬愛する。屈託のない今現在の彼女の笑顔は本当にまぶしい。

 それに比べたら。

 自分自身に嘘つくくらい、なんてことねえな。

 サンジは煙草をひねりつぶした。 

 船が進んでいく。
 些細なことで剣士と喧嘩になるのはもはやルーティン、生活習慣みたいなものだ。挨拶、洗面、手洗い。そんなものと変わらない。

 この日も理由も覚えてないような事で争いなった。
 喧嘩は戦闘トレーニングだ。あるいはリクリエーション。または食事の腹ごなし。

 はじめのうちこそ、船長が二人を煽ったり、狙撃手がおろおろしながら制止の声をかけたり、航海士が断固として停戦命令を下したりと仲間達が干渉したが、いまや誰もが慣れてしまいギャラリーもいない。

 サンジの速い蹴りをゾロは腕でブロックし、ゾロの重たい拳をサンジはかわす。

 拳と脚の応酬が続く。すぐに頭の中を占めるのは攻撃と防御のみになり、それ以外余計な事を一切考えなくなる。相手の動きだけがこの場の全てだ。集中力が高まり気分が高揚する。
 何度目かの攻防の果てにお互いの力が完全に拮抗し、その瞬間動きが止まる。

 足と腕の組手のすき間から目があった。
 まっすぐにサンジに挑んでくるゾロの目。純粋に。ためらいも何もなく。

 そういえば目が合うなんてずいぶん久しぶりだ、とサンジは頭の隅で思う。

 その姿を目で追うことはしょっちゅうだった。でも目が合うようなことはしなかった。目を合わせたら、なぜだかだめだと思っていた。今までうまく避けてきた。それなのに。

 思いのほか近い接触と、喧嘩で生じた熱量を保ったままだからだろうか、あまりにも熱い視線を受けて、抑えていた心のタガが外れそうになる。言うまいと決めていた言葉を言ってしまいそうになる。言ってしまいそうな心をねじ伏せる。

本心は見せるな。偽れ。嘘を言え。

 サンジの口から言葉がこぼれる。「クソ…嫌いなんだよ。」

 ゾロの眉間のしわが深くなる。挑むような目つきがにらむものに変わる。

 おれは今、うまく嘘をつけただろうか。

「もう一度言ってみろ。」うなるような声でゾロが言った。

 怒らせた。うまくやれた。何度だって言ってやる。

 嫌いなんだ。

 いつまでもくすぶり続けるこの胸の痛みをもたらすお前が。
 このどうしようもない気持ちを持てあます自分の弱さが。
 手に入らないのに手に入れたいと焦がれ続けなくてはならない自分が。

 ナミの言葉がふとよみがえる。 『嘘をつくときこそ相手の目をみるのよ。』

 ざまあみろ、信じやがれ、おれはお前が嫌いなんだ。
 まるで暗示をかけるようにゾロの目を見つめる。

「おれはお前が嫌いなんだよ、クソ野郎。」

「わかった。」

 この気持ちを悟られなかったことに安堵する。それから、この気持ちを完全に拒絶されたことに気付いて絶望する。
 実るあても実らせるつもりもなく、ましてや伝えるつもりもなかったけれど、だからこそ人知れず溜めてきた思いはサンジにとっては大切だった。伝えないからこそ心の中で大事にしてきた。相手が自分をどう思うかなんて考えたくもなかった。それを、うかつなふるまいで葬ってしまった。自分の手で。

 突然ゾロがサンジをひきよせた。
 シャツの胸元を大きな掌の強い力で握りこまれ距離が縮まる。
 強い目のまま射抜くように見つめられてお互いの鼻先がかすめあう。吐息がかかる。唇が触れそうになる。

 サンジは焦った。近すぎる。何をするつもりだ。おれの言葉にわかったと頷いたのではなかったか。

 腕で相手の身体を突き返し、ありったけの意志の力で睨み返した。力に抗えず相手の腕の中に収まりそうになった自分を、そうなってもいいと一瞬でも願った自分を心の中で叱咤する。

 ここできっちりと突っ張ってしまわなければ、今までの態度も言葉も全部無駄になってしまう。
 再度、見詰め合うはめになった。

 視線の力は隠し事のない相手の方が強かった。その瞳にとらわれる。目の奥をのぞき込まれる。気持ちを探られる。心の底が暴かれる。

「おれは、わかったと言ったはずだ。」低く、ささやきに近いほどの声音でゾロが言った。
「わかったんだったら離しやがれ。」ゾロの態度に混乱しながらも平静を装い喧嘩腰の態度で相対する。

「お前が嘘をついているのがわかった、つってんだ。」続くゾロの言葉にサンジは愕然とする。「真実も言わねえ、嘘も言わねえ。そんなんだったらおれもお前の考えてることなんて分からねえが。」ゾロのサンジを引き寄せる手にさらに力がはいり、これ以上縮まりようのなかった二人の間、その隙間が減っていく。「言えばわかる。」

「わかっちゃねえよ…。」まるでわかってない。

 おれは嫌いだと言ったんだ。どんな思いで言ったと思ってるんだ。
 おれが、いままで。サンジの心がゆらぐ。

「わかる。」ゾロは容赦がない。人の話を全く聞かずに続ける。「それが本当か嘘かくらい。」

 ゾロの左手はサンジのシャツを握りこんだまま、右の掌がサンジの胸、心臓のある場所に押し当てられた。そのままひたとサンジの目を見据える。

「言えよ。うそでも本当のことでも何でも。」ゾロが言う。

 サンジは息をつめた。

 もう一度、あの瞳を見詰めて嘘をつかなきゃいけないのか。
 本当は、心の底から欲しいと望み、望む度に押しこめてきた気持ちを自分で踏みにじって。

 シャツ越しに伝わるゾロの掌の高い熱。
 精悍なその身体にふさわしい造作の大きなうつくしい手。

 ゾロに心臓をおさえられたまま嘘などつけるはずがない。もしもうまく嘘をつけたしても、今激しく脈をうつ心臓の鼓動は偽れない。

 掌をあてがわれた胸から、今までの気持ちが全て溶け出しあふれ出て、その手を、腕を伝ってゾロの身体に流れ込んでいってしまいそうだ。

「クソ、お前なんて死んじまえ。」ようやくの思いで言葉を発するサンジの口調は弱々しい。

「そりゃ本気で言っちゃいるけど、言ってることは嘘だってわかるぞ。」なぜか少しだけ嬉しそうにゾロが言う。

「ふざけんな。」
「ふざけてねえ。」
「おまえなんて嫌いなんだ。」
「おう、わかった。」

 サンジの言葉など何も堪えてないかのように平生な口調で答えた後、ゾロがその両腕をサンジの身体にまわした。二人の距離がゼロになる。

「お前も分かれよ。」ゾロが耳元でささやいた。

 何を?

 今、サンジに分かるのは。

 唐突に目の前に現れた自分のものではない肩先。その肩先の向こうに見える船べりと青い海。背中にきつくまわされた熱い腕。触れあう頬と頬。ぴたりと合わさった胸元。ゾロの白いシャツの下に隠れた傷跡の内側にある脈動する心臓。ぐらつく足元。

 船が揺れたわけでもないのにふらりとする身を支えようと、サンジは目の前にある一番確かなものに取りすがる。本当は触れたいとずっと思っていたゾロの身体。

 届かないと思っていたゾロの背中を抱くことを許された自分の手。

 そんな切れ切れの事柄がやがてゆっくりとサンジの心に満ちてゆき。
 胸の痛みは変わらずにそこにあるけれど、どこか甘く。

 サンジは自分の気持ちが行きどまりではないことを知った。 

 

end