ゾロが生まれ育ったのは、目の前に海を抱き背後に山を控えたあまり大きくない村だった。
海と山、性質の違う二つの自然とつきあう暮らしを長く続けたその村は、よく手入れされた里山に囲まれて穏やかに時が流れた。四つの季節がゆっくりと一年かけて移ろってゆき、豊かな自然が生活を潤した。恵みは山からやってきて、暮らしの隅々にいきわたり、人々は感謝の祈りを祭りという形で捧げた。
海は。
目の前に広がる大きな海は、ときに厄災をときに恵みを、気まぐれに人々にもたらした。そして、人の生命も幸運もわけへだてなく奪っていった。それは無慈悲に平等だった。
海はいつでも御しがたく、あたかも傲慢で尊大な領主のように付き合いづらかった。
里山には守られているとさえ思えたのに、同じ自然であっても海に庇護されていると思ったことは一度もなかった。
海は厳しかった。
厳しい海の向こうには、その厳しさに耐えて鍛えられた強い相手がいるのだろうとゾロは漠然と思っていた。
里山に守られ育まれた土地では自分はこれ以上強くなれない。親友を不慮の事故で失ってからその思いは強くなった。
いつかこの海の向こうへ。きっとこの海のかなたに。
少年にとって野望と憧憬が同じことであるように、強さを望むことと海を臨むことは一緒だった。
10代の後半に村を出た。
一人で漕ぎ出した海は広くて大きくて果てがなかった。あまりにも広すぎて、やりたい事ははっきりしていたのに、どうすれば自分の目指すものに真っすぐたどり着けるのかよく分からないまま勝負に明け暮れた。一回でも多く勝ち、一日でも多く生き延びることがその頃の全てだった。
厳しいとばかり思っていた海は、茫洋としてつかみどころがなかった。
19歳になったばかりのとき、どこまでも自分のやり方を貫く破天荒な男と出会い船長と定め仲間となった。一見たんなるバカなのに、自分が納得できるまで諦めずに際限なくつき進む姿は底の知れない海のようだと思った。
海のそばで生まれ育ち、海のことはよく知っていると思っていたのに、今まで知らなかった海と知らなかった海が育てた人間が次々と目の前に現れて、世界は広いと思い始めたその頃に。
世界最強の剣士に出逢った。
実力の差は歴然としていて、自分がいかに狭く小さな場所で生きてきたかを痛切に思い知った。
斬られて海に落ちながら、それでもこれは僥倖だと思った。
目の前に立ちはだかる圧倒的で強大な倒すべき相手。自分の全てを賭けて挑むに値する存在。これに会うために土地を離れ旅に出たのだ。命を永らえたことがたとえ情けだったとしても、生き延びたからにはもう一度。
斬られた痛みはなかった。後悔もしなかった。
ただ、考えたことがある。海に出たのは正しかった。海は自分に必要なものを巡り合わせた。海と生きるのも悪くない。海は自分にツキをもたらすのだ、と。
直後、あたらしく仲間になったのは奇妙な男だった。
眉毛の形の話ではない。
その男からは海のにおいがした。
行動も言葉も、その男の何もかもがゾロが今まで知っていたものと違っていた。
大事の前に小事なしと思って疎かにしてきた瑣末な日常のあれこれをとても大切に扱った。かといって本人が神経質で几帳面なわけでもなかった。時として、ゾロや船長よりも大雑把で大胆だった。それでいて細かなところによく気づき、デタラメだった海賊船に規則正しさを持ち込んだ。
徹底的に現実主義者だった。
荒唐無稽な話は疑ってかかった。その一方で、あるのかどうかさえわからない海を探すなど誰よりも夢見がちな事を真剣に語った。
喧嘩する。
思いのほか強かった。ゾロが目指している類の強さではなかったけれど、手加減せずに思い切りやりあえるその強さに純粋にわくわくした。
敵との戦闘でも、怯むことなく率先して敵にあたる度胸とそれを可能とする戦闘力の高さに胸のすく思いがした。
船長のように得体の知れない強さではなく、自分のように強くなる為に鍛え抜かれた強さでもなかった。不思議な強さだと思った。
食事する。
とにかく美味だった。よく知っている料理であってもまるで別物のような気がするほどにうまかった。
料理を作っているときと、それを皆が食べているのを見ているときの顔はいつも上機嫌で、自分もなんとなく楽しくなるような心地がした。見ていることが相手に知れると面倒なことになるので、気付かれないように時々こっそりと覗き見た。それはひそかな楽しみだった。理由はわからない。
船長が海におちた。
ナミの叫び声を聞いた次の瞬間には、脱ぎ捨てられた革靴が甲板に転がる音が響き、水しぶきがあがる音がした。何のためらいもなく飛び込んだ男は、あっという間に 船長を抱えて海から浮上した。まるでなんでもないことのように。嘘のように早かった。海に棲む生き物のような身のこなしだった。船上に引き上げた船長の隣で文句を言いながら煙草をふかしていた。文句を言いながらも毎回船長が落ちるたび、助けに海へ飛び込むのはこの男なのだった。ぬれた体からポタポタと垂れる水滴が甲板につくる水溜りは、日差しに反射してその男の髪の色のように光っていた。
いい奴、わるい奴。強い奴、弱い奴。
是非を問うことも善悪を質すこともゾロには興味はなかったけれど、相手を認識するときはその程度の単純な分類だけで事足りた。この男に会うまでは。
けれどこの男は他とは違う。
とにかくひとつのくくりでは表せない男だと思った。
まるっきり正反対のものが矛盾なくひとりの中に同居している男。
見たことのない海のように。
たまに二人だけで話をした。
騒々しく話す。静かに語る。どちらもできてどちらも自然だった。荒れ狂う海も凪の海もどちらも同じ海であるように。
子供のときに海で遭難したと聞いた。
よく海を嫌いにならなかったなと言うと、レディを嫌いになれるかよ、と返された。
この男にとって海は女性なのらしい。海の属性なんて今まで考えてもみなかった。それを聞いて性別を考えてみたが、ゾロにとっての海は男性だった。気が強くひどく自分勝手でわがままで、それでいて時に優しく穏やかな。自分にツキをよぶもの。一緒に生きるのも悪くないと思えるもの。
まるで。
…まるで、何だというのだろう?
サンジはうまそうなにおいがする、と船長は言う。
サンジはたばこのにおいがする、と狙撃手は言う。
あれは海のにおいがする、とゾロは思う。
故郷の海で感じた磯臭いにおいではなく、もっと。
何かはわからないけれど、もっとほしいと気持ちが急くような。
子供の頃、村の丘から水平線の向こうを望み見て、いつかきっとと心に約した時に吹きわたっていた風のような、荒々しくも颯爽としていてそれなのにどこか甘やかな。
それを感じた瞬間に足をとめてふと振り返りたくなるような。
一度も嗅いだことがなかったのに、これがほんとうの海の匂いだと思った。
片方だけ見せている目はいつも色合いを変えている。暗かったり、明るかったり、冴えたり、煙ったようにくすんだり。海が一日たりとも同じ顔を見せないように、瞳の色もその時々で移り変わってゆく。それはまるで身のうちに海を湛えた男の、一か所だけ外に開かれた窓だ。
ひとつとして同じものはないと思い、青という色がいったいどれほどの種類を持つのかと考える。
一度、その瞳を間近で覗き込んで確かめてみたいと思う。
この男のなかに潜む海を。
そして、手で触れてみたいと思う。
そのとらえどころのない実体を隈なく確かなものとするために。
いっそ抱きしめてみれば、この見知らぬ海のような男のことが少しでも分かるだろうか。
そんなことを考えている。
end