『Belle nuit』

 

ゾロは、メリー号の展望台からぼんやりと夜の海を見つめた。
今日の海は凪、夏島を過ぎたばかりのせいか、ふわりと暖かな南風。冬の晴れた空ほどではないが、すこんと晴れた空には雲ひとつ無くて、月が居ない代わりに落ちてきそうなほど星がまばゆく光っている。不寝番をするたびに思うが、このグランドラインは、幾夜を超えても、一日とて同じ空は無い。冬島の側や嵐の日なんかは正直やってられないと思うときもあるが、こんな夜の日は悪くない。
碇を下ろした船は、ゆったりとしたリズムを刻む波に合わせ、穏やかな眠りを誘うように揺れていた。
ふわ、と、欠伸が出る。昼間いくら寝ているからといって、夜眠くならないわけではない。眠気覚ましのコーヒーを断って、代わりに酒瓶を一つ、それは先ほど飲み干してしまった。これくらいのアルコールで酔うほど柔ではないが、眠気を誘う原因くらいにはなっているかもしれない。ついでだと出てきたつまみもぺろりと平らげ、「美味かったからもっと寄越せ」とお代わりまで食べたから、腹がくちくなっているのも要因の一つだろう。

-やっぱコーヒー貰ってくっかな

そう思って、座り込んでいた展望台から立ち上がろうと腰を上げると、丁度サンジがキッチンから出てくるところだった。隠れる必要は無いはずなのに、なんとなく立ち上がりそびれたゾロは片膝をついたまま、展望台から頭半分ほど出して、何気なく甲板を歩くサンジを見つめていた。
サンジは手すりに寄りかかり、風を避けるように口元に手を翳す。ぽっと、その手元で赤い火が灯って、それが消えると共に、ふわ、と紫煙が舞い上がった。風向きのせいか、煙草のつんと辛い香りがゾロの鼻をくすぐる。
煙草の香りは、好きではない。ただし、サンジの煙草の香りは、もう慣れてしまったのか、それほど不快に感じることはなくなってしまった。

Belle nuit, o nuit d’amour,
souris a nos ivresses.
Nuit plus douce que le jour,
o belle nuit d’amour

ぼそぼそと、呟くような声が聞こえる。
メロディーがあるから、何かを歌っているのだということは分かった。
言葉はゾロが知らない言葉だけれど。

Le temps fuit et sans retour.
Emporte nos tendresses!
Loin de cet heureux se jour,
le temps fuit sans retour.

物憂げな、ゆったりとした低い歌声。
サンジは機嫌が良いと、料理を作りながら歌っていることがある。そういうときに歌う歌は、もっと楽しい、ゾロもどこかで聴いたことがあるような歌が多くて、時にはその場に居たルフィやウソップと一緒になって大合唱が始まることもあるけれど。
今聞こえてくる歌は、まるで何か、内緒話をするみたいに。低く、緩やかに、ほんの少し寂しげで切なげで、月の無い夜の闇に解けていくような歌声。
軽く伏せられた目が、白い肌が、妙に儚げに見えて。
何だかサンジが、そのまま溶けてなくなってしまいそうな気がした。

「コック!」

思わず立ち上がり、そう、呼びかけていた。
ハッと顔を上げたサンジは歌うのを止め、何だか酷くばつが悪そうな顔をして、いつもみたいにポケットに両手を突っ込んでぐいと顎を上げ、ゾロを仰ぎ見た。

「なんだ、起きてやがったのか」

「おれが寝てるわけねェだろ」

普段の行いは棚に上げ、ゾロがそう言うと、サンジは「嘘つけ」とくしゃりと笑いながら肩をすくめた。先ほどの歌とは裏腹に、何だかとても、機嫌が良さそうだ。

「で、なんか用か?」

そう聞かれて、そういわれてみるとなんで自分は声をかけたのだろう、と不思議になった。しかし、用が無かったわけではないと思い直して「コーヒーが飲みてェ」というと、サンジは分かったといってキッチンに戻ってしまった。
しん、と静まり返ると、先ほどの、サンジの歌声が余韻のように耳の奥で響く。
いつだって、不遜な態度で偉そうに、悪態ばかりの唇から。
あんな切なげな声が出るのだなとゾロは少しばかり意外だった。
しばらくすると、サンジがコーヒーの入った水筒を持って、するすると展望台まで上がってきた。小さな籠には、いつの間に作ったのかバケットのサンドイッチもふた切れ入っている。

「ほらよ」

サンジはそれらを手渡して、戻るのかと思いきやすとんとゾロの隣に座り込んだ。煙草を咥え、火をつける。先ほどより濃厚な、煙草の匂いがぐっと肺に入ってきて、ゾロは思わず少し咽た。

「あ、悪ィ」

「…ああ?問題ねェ」

そう答えたものの、げほげほ、と軽く咳をしていると、サンジが無言でマグカップにコーヒーを注ぎ手渡してきた。ゾロはそれを受け取って、一口啜る。熱くて苦いその味に、ホッと心地付く。
そのまましばらく、無言だった。
ゾロはサンドイッチを食べ、コーヒーを飲み。
サンジは子どものように膝を抱えて、煙草を吸いながら、ぼんやりと展望台の床を見つめていた。
不快ではなかった。むしろ。

-むしろ?

今、自分は何を考えたのだろうか。
ゾロは首をかしげ、最後の一口をぱくりと口に放り込み、咀嚼する。
ふとした拍子に現れ、それがなにかと考えるとするりと逃げられる。サンジと居ると、いつもそんな正体不明の感情に襲われる。
子どもの頃、あんなに目の前にいて捕まえられそうなのに、近付くと逃げられ一度だって捕まえられなかった、雀の子に似て。酷くもどかしいのだけど。
どこかでその方が良いと、思っている自分も居る。
正体不明のままのほうが良いと。

「それ、美味かったか?」

急にそう聞かれたから、ゾロは「ああ」と返事をした。

「そっか」

俯き加減で煙草を吸っていたサンジは、満足げに頷くと顔を上げ、眼を細めてゾロを見つめる。

「さっきの歌、さ、Barcarolle、っていうんだぜ」
「北の海(ノースブルー)の歌なんだ」

サンジは言葉を切りながら、懐かしいと言うよりは寂しげにそう言うと、ことりと膝に顎を乗せた。

Belle nuit, o nuit d’amour,

先ほどの、出だし部分をもう一度口ずさむ。
サンジの声は、嫌いではない。耳に心地よく、響いた。

「恋の歌さ、美しい夜、ああ、恋の夜、って言う意味だ」

「へえ」

ゾロはコーヒーを啜り、相槌を打つ。

「今日みたいな夜か?」

そう尋ねると、サンジは急にびくりと肩を震わせて顔を赤くした。

「な、な、な、な、なに、言ってんだよ、てめえ」

「…なに慌ててんだ?美しい夜、なんだろ?」

ゾロが空を指差すと、サンジはぱっと空を仰ぎ、それから慌てたようにこくこくと頷いた。

「そ、そうそう、そうだ、な!そうだそうだ!なんだ、おめえ藻類のくせにそういう情緒を感じる心があったんだな」

「ぁあ?喧嘩売りに来たのかてめえ」

ぎろりと睨みつめると、ああ?とサンジも眉を寄せたが、ふ、と緩めて。

「…あー、いや、悪ィ」

珍しく自分から引くと、ぼりぼりと頭を掻いた。

「てめえの言うとおりだ、せっかく、美しい夜、ってやつなんだからさ」
喧嘩はやめとこうぜ

サンジはそう言って、ちょっと、あまり普段ゾロには見せないような柔らかい顔で、笑った。
ひょこんと心臓が跳ねる。何だか分からないが、自分の意思とは関係なく、鼓動が早まった。

-なんだこりゃ

ゾロは胸を押さえ、首を傾げる。

Belle nuit, o nuit d’amour,
souris a nos ivresses.
Nuit plus douce que le jour,
o belle nuit d’amour

サンジがまた、口ずさむ。
柔らかい、低い声は、波に合わせて緩やかに響いて。
いつかこの長い旅が終わって思い出になったとき、ふと思い出すのはこういう夜のことかもしれない。
そう思いながら、ゾロは美しい空を仰いだ。

 

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komaさん、2周年おめでとうございます!!
サイト名が「舟歌」ということでしたので、オペラ「ホフマン物語」より、「ホフマンの舟歌」を題材にさせていただきました♪
このオペラ自体は見たこと無いので、詳しくはないです、すみません;
タイトルは出だしの「Belle nuit」で、美しい夜、と言う意味です。
が、あまりお祝いっぽい内容でなくてすみません;;
そのうえゾロサン未満って言うね…;

ちなみに、サンジくんが歌っていた部分の日本語訳です。

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Belle nuit, o nuit d’amour,
souris a nos ivresses.
Nuit plus douce que le jour,
o belle nuit d’amour!

美しい夜、おお恋の夜
喜びに微笑む
またとない甘き時間
おお美しき恋の夜よ!

Le temps fuit et sans retour.
Emporte nos tendresses!
Loin de cet heureux se jour,
le temps fuit sans retour.

過ぎ行く時は 戻ることなく
慈愛の情も遠く運び去る
時は過ぎ行く 戻ることなし

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