『茶番劇』

  マンションの高層階のワンフロアがすべてその男の持ち家だった。単純にそのマンションの持ち主が親族だというだけのことだ、と、男は言うが、実際問題、男自身が相当やり手なことを、かつて一緒に仕事をしていたことのあるおれはよく知っている。左目を刀傷で塞いだ物騒な人相で不愛想、一見まったく真っ当な会社員には見えねェし到底人と交渉など出来そうもないが、話してみればまっすぐに他人の話を聞き、人情もあり、それでいて仕事となれば損得をしっかりと踏まえて駆け引きもでき、必要であればいくらでも冷酷に切り捨てることもできる。己の役割をしっかりと弁えていて、やると決めた仕事はどうであれやり遂げる。不測の事態にも柔軟に応じることもできるが、根幹になる己の信念を曲げることはしない。そういう男だ。
 だから、おれはここに居る。

 ロロノア・ゾロという男にとって、おれという人間は、どうしても必要で、何をしてでも手に入れるべき存在だと認められたらしい。有難いようなそうでもないような。とにかくおれは、飲みに誘われた翌朝目覚めたら、足枷を嵌められて、鎖に繋がれて、この部屋にいた。それからずっと、その基本スタイルを維持したまま滞在している。何日目なのかはとうに数えるのをやめたのでわからない。ゴージャスな夜景が見渡せる大きな窓は、高層階故開きもしないし、外から見られることもない。ワンフロアすべて、家主以外の人間の出入りはない。ここは開かれた、優雅な密室だ。
 おれはこの部屋で飼われている。所有者のある、有用動物として、家畜のように。

 真夜中、玄関が開く音。あの男が帰ってきたのだとわかっていて、おれは知らぬふりで煙草を燻らせる。真っ暗な部屋の真ん中の、座り心地のいいでかいソファーに寝そべったままで。窓の外には夜景が広がっているが、毎日見てりゃそれが普通になる。何の感慨も無い。暗闇に赤く、煙草の先が光る方が余程おれの精神安定に役立つ。もともと質の悪いヘビイスモーカーだったが、この部屋に閉じ込められてからますます本数が増えた。そりゃあそうだろう。他にやることもねェんだし。せめてキッチンに立たせてくれりゃァいいんだけどなあとおもうが、もちろん、刃物やら鈍器やら火器のある場所に、拉致って監禁している野郎を自由に出入りさせる馬鹿はいねェってことも承知だ。常識だよなあ。煙草とライターを与えられていることが奇跡だ。例えばこれで、火をつけて火災報知器鳴らすとかさ、いろいろできることはあるとおもうんだけど、どうやら火災報知器はそれができないように家主がぶっ壊してくれていたから、下手するとただ焼け死ぬ可能性があるんでおれはそんなことはしない。歩けるゆとりだけがある両足首に巻き付いた足枷から伸びた鎖は自由にトイレに行ける程度の絶妙の長さで、これ下準備っていうか、計画を、相当いろいろ考えて実行したんだろうなと感心した。会社でバリバリ仕事してるときみたいに、あらゆる可能性を考慮に入れて、たくさんの案を出して、没にして、磨き上げて。やっぱりデキる男は違うね。おれは他人事みたいにのんきに考える。

 音もなく、ソファの斜め後ろに設置された間接照明がゆっくりと灯る。帰ってきた男が、リモコンでスイッチを入れたのだろう。ぼんやりとオレンジに光るライトはムーディー。大きな一枚ガラスの窓から一面に夜景が美しく見えるこの部屋の、この趣味のいいソファに並んで座って、高いシャンパンでも開けりゃァレディはいちころだろう。生憎おれは野郎で、しかも有名な女好き。通常の手でいちころという訳にはいかないだろうと考えたのかもしれねえが、マリモ頭は仕事ではたいそう切れるのに、こんなくだらねえことをやらかしやがった。犯罪だぜ。おれなんかのために、人生棒に振るなんて、ほんとうに、莫迦だ。
 ところで、今間接照明の光に照らされて気のない様子で銜え煙草の煙を吐いているおれの格好は、バカバカしいハート模様の散りばめられたトランクス一枚で、色白の肌が薄暗い部屋の中でうすぼんやりと灯るあかりをはじいてやけに白く浮いているはずだ。男は、いつもまっすぐにおれを見るが、アホみたいなパンいちのおれを、すこしまぶしいものを見るみたいに、した。それを目の端で捉えて、おれはゆっくりと、満足気に煙を吐く。

 ロロノア・ゾロは身体にぴたりと寄り添うようなオーダーメイドの上質なスーツの上着を乱雑に脱いで抛る。ネクタイを引き抜きながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる男の、野生の猛獣のようなしずかな足捌きを、おれはそちらを見ないままにおもい描く。視線は頑なに天井にゆらゆらと昇る紫煙に合わせたままで、おれは待つ。迷いない男の手が、躊躇うようにおれにおずおずと伸ばされるのを。
 ロロノア・ゾロは、まっすぐに見る。薄茶の瞳は、光の加減で緑に見えることがある。おれはそれをとても好もしくおもっている。言わねェけど。嫉妬は緑色の目をした怪物らしいぜ。おれはその瞳を、この青い瞳でまっすぐ見返す。侮蔑と反抗をたたえて。それでいて、淫らに微笑んでみせるのだ。

 男はおれをこうして飼うために、随分と周到に計画を立て、準備をしたのだろう。
 ああ、だけどさ、仕事ができるのはなにもお前だけじゃないんだよ。

 おれには身寄りがないことを、さりげなく何気なくアピールし続けた。おれの姿が見えなくなって心配するような親しい友人は作らないようにしてきた。唯一気にしそうなお人よしには、いつか海外に料理の修行に行くのだなんて如何にも実現しそうな夢を語り倒してきたから、急に消えてもその夢を追ったのだとおもうだろう。家賃は勝手に口座から引き落とされるし、銀行にはまとまった金が入っている。仕事で長期で留守にする可能性があると契約時に大家に伝えてあるし、そもそもおれの住まいは驚くほど古い木造アパートの一階で、家賃さえ払っていれば住人に関心など無いのだ。水道は家賃に込みで、ガスも電気も新聞も契約していない。一番の問題は会社だが、そこはロロノアがおれの辞表を提出したことで丸く収まっている。会社でも常に、いつか料理人になる夢を語っていたし、海外へ修行に行ったことになっているのだろう。おれが時間をかけて張り巡らせた伏線を、ロロノアはきれいに回収してくれたという訳だ。
 別に拉致られる必要はなかった。普通に告白されたとしても、おれは受け入れた。けれど、そんな普通の展開になるはずがない。そもそもロロノア・ゾロが野郎に告るはずはないし、おれが野郎と付き合うわけがない。それが大前提だ。わかっていたのだ。多分、こうなることを。
 好きだ。惚れた。愛してる。付き合ってくれ。幸せにする。お前が必要だ。かわいいね。だいすきだよ。大切なんだ。レディ相手になら、いくらでも。
 しかし、おれは言わない。たった一言、すべてをハッピーエンドに力技で持ち込める魔法のことばを、おれは言わない。きっと口に出してしまったら、それは嘘になる。次の瞬間には別れがカウントダウンを始める。悲観的に過ぎるだろうか。そうかもしれない。でもおれは、おれと、おまえの、ただ当たり前の平凡な日常というエンドカードを信じることができない。

 男の手が、躊躇いを振り払うようにおれのくちびるから煙草を引き抜く。おれは忌々しい気分を盛大に盛り込んだ舌打ちをひとつ。見下ろす男は口の端をゆがめる。自嘲のように。そのまなざしはひどく真摯に、まっすぐに、おれの目を見ている。おれの本心を探るように。おれは嘲りの色を隠さずに、形ばかりの笑顔を作る。まなざしには侮蔑と抵抗を。けれど身体は従順に拒まない。くちもとには誘うように淫らな笑みを。受け入れても求めない。両の手をおまえに向けて伸ばさぬように、慎重におれは自分を律している。
 間接照明のオレンジの光の加減で、おれを見下ろすロロノア・ゾロのその目は、緑色がかって見えた。そのことに、おれは、安心する。

 ああ、おれさ、足枷が簡単に外れることも、ほんとうは知ってるよ。
 ひっそりと胸の中だけで、おもう。 

 囚われて逃げられないでいるのは、一体どっちなんだろうな

 

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2017/08/11