『mysterious』

 

社会人一年目は、よくわからない間に過ぎていた。
あっという間、というのとはまた違う。
まるで濃い霧の中を方向も定まらぬままただ闇雲に動き回っているような感覚で、入社前に明確に抱いていたはずの志や長期的ビジョンも気付けば遠く霞み、それ故の空虚さを孕んで徒に膨張するような毎日だった。
厳しさは覚悟して入った業界ではあったが、ゾロにとって唯一の、そして生涯の趣味 ―実益を伴わず究めたいものを趣味というしかないのなら― と言える剣を振るう時間さえ取れなくなったことは自分で思う以上に痛手のようだ。
もうずっと、なんとなく宙に浮いているような感覚がするのだ。心許ない、とでも言おうか。
こんなことは初めてだ。
最初は新しい生活に慣れていないせいだと思っていた。けれどその浮遊感は春から夏へと季節が進んでも一向に消えることはなく、そのうち子供の頃から肌で感じてきたはずの季節の移ろいさえ曖昧になった。
空調の効いた社内で昼も夜もなくパソコンの画面と向き合い、仕事中の食事は誰からともなく買い置きするようになったカップラーメンや栄養補助食品で済ませ、眠気に襲われたら濃いコーヒーを胃に流し込む。そんなふうに、機械に燃料を補充しガタついた箇所に油を差すようにして働いて、ひとつのプロジェクトが終わったらようやくひと息ついて天井を見上げる、それだけが生活の区切りと言えば区切りだ。
そんな毎日の中、ああ入社してから一年経ったのだ、とふと鮮やかに気付いたのは、通りがかったあの店に一周年を記念する花輪がいくつも飾られていたからだった。
真夜中、終電も逃して仕方なく使ったタクシーの中からそれを見た。そこにあの躍るような金色はなかったけれど、静まり返った深夜にあっても花に囲まれたその店はそのものがぼんやりと暖かく発光しているようにも思え、視線を奪われながらゾロは、灯台みたいだ、などと思ったのだった。

 

今度のプロジェクトは小規模なもので、チームが良かったせいもあって予定より早いリリースとなりそうだ。もうひと頑張りすれば翌日は一日休みに出来そうだとなってゾロは自ら志願して会社に泊まり込み細かな調整をし、そのまま朝を迎えた。
会社の近くのカプセルホテルで仮眠をとった先輩が早朝にやってきてあとは引き受けると言うのでゾロは遠慮なく帰途につく。
早朝の下り電車はひともまばらだがゾロはあえて座らなかった。座ったらたちまち寝落ちてそのままこの貴重な一日を電車の中で潰してしまいかねない。と言っても家に帰ったら即ベッドに倒れ込むに違いないのだが。

 

梅雨の走りで地元の駅に着くころにはごく細かな霧雨が煙るように立ち込めていた。湿度は高いが朝の静謐な空気のせいか高原のような爽やかささえ感じる。ゾロは目を閉じて大きく深呼吸をして、昨日の名残を残す肺の中の淀んだ空気をそっくり入れ替えた。
ゆっくり目を開ける。と、霧の中視線の先にきらりと光る金色を捉えた。その光を頂点にすらりと伸びた背、そして、交互に前へと踏み出される長い脚。それがあの店の店主の青年であることはすぐにわかった。
意図して近づくつもりなどなかったが相手は随分とゆっくり歩いているようで、ゾロが普通に歩いているとみるみる距離が縮まってしまう。男は両腕に大きなビニール袋を二つずつ掛け、さらにその腕で何か大きい荷物を抱えているようだ。袋からは鮮やかな緑色の葉っぱがのぞいている。あれは大根だろうか。
いくら小さい店とは言えレストランの食材の仕入れとはこんな方法でするものかと訝しんだ瞬間、男が突然かくんと膝を折ってしゃがみこんだ。ぼふ、と段ボールが地面に打ち付けられる音がする。
「うっわマジか底抜けやがった…!」
背後にゾロがいることに気付いていないのだろう、随分と大きなひとりごとだ。しゃがんだはずみで箱から飛び出したじゃがいもがひとつ、ころんと地面に転がった。ゾロは足を止めることなく男の横を通り過ぎ、それから、そのじゃがいもを拾って男に差し出した。
「落ちた」
知ってる、と言いながら男がゆっくりと顔を上げ、ゾロを見て、わずかに目を瞠った。
「あ、」
「…おう」
母音だけのやりとりで互いに記憶に残っているのだと伝えあう結果になった。ゾロがあの店 ―――『Barcarolle』 に行ったのは一年前にたった一度だけ、なのだけれど。

 

色とりどりの野菜や果物がたっぷり入ったビニール袋が四つと、段ボールひと箱。鍛えている自負があるゾロが見てもなんでこんなものをひとりで素手で運んでいるのかと呆れるほどの量だ。
「それ、店まで運ぶのか」
「ああ」
「天地は?」
しゃがみこんで段ボールを覗き込みながら訊く。
「そっちは大丈夫だ、根菜だけだから」
「そうか」
ゾロは段ボールに手を伸ばし、器用に蓋を互い違いに閉めてよっと一気にひっくり返した。地面に置き去りにされたいくつかのじゃがいもを箱に戻し、懐かしい土の匂いを嗅ぎつつそれを持ち上げる。
「通り道だ、運んでやる」
「そうか、悪ィな。助かる」
へへ、と少年のように笑った男が立ち上がり、ビニール袋を提げて並んで歩き出した。荷物がひとつ減ってその足取りは軽い。
「いやあ、参った。ルート配送の業者が駅前で事故っちまったって電話があって。自損で本人ピンピンしてるから、荷物だけ受け取りに行ったんだけど」
「台車とかねェのか」
「んー、店にもあるし業者からも貸すって言われたんだけどな。あれけっこううるさいだろ、早朝の住宅街じゃ、ちょっとなァ」
ぺらぺらとよく喋る様子は一年前のあの日と変わらない。そして男はこうして台車の音を気に掛けるほどにこの街を深く愛するようになったらしい。だからきっと今、あの店は瑞々しい花に囲まれて光を放っていられるのだろう。

店には五分程で到着した。荷物を中に運び入れるまでが役目だろうと、男が尻ポケットから取り出した鍵で店の扉を開けるのを見守る。
「つーか、お兄さん朝帰り?」
「…仕事だ」
扉を大きく開けて振り返った男に突然にやりと意味ありげに訊かれて、答えた声は自分でも驚くほど不機嫌になった。誤解されたくない、などと思う気持ちが確かにある自分に戸惑い眉を潜める。昔から凶悪だと言われる顔になっているはずだがそんなゾロをみて男はおかしそうに喉の奥でくくっと笑うだけだった。
店に入った男はビニール袋をまとめてカウンターテーブルに乗せた。抱えた段ボールを床に置くか少し迷ってから結局ゾロもそれに倣う。ありがとな、と言った男が今度は幾分真面目な顔でゾロを見た。この城で生きる店主の顔だ。
「朝飯は?」
「…食ってねェ」
今日の朝飯どころか、たくさんの新鮮な食材がここに運び込まれるのを見た後ではまともに飯と呼べるものさえもうずっと口にしていない気がした。ごくりと喉を鳴らすと男は表情を引き締め、腕まくりをしながらカウンターの中へと回り込んだ。
「運んでもらった礼だ、作るから、食っていってくれよ」
「助かる」
遠慮の欠片もなく頷いたゾロを確認して、男は早速料理に取り掛かった。

米が炊き上がるまで時間がかかると言うのでゾロは狭い店内の奥のソファ席で待つことにした。寝てていいと言ったのも本音の気遣いだろうがさすがにいきなり横になることはせず、程よい固さのソファに座りまずはぐるりと店内を見回す。一年前の印象通り、古い帆船の一室のような雰囲気だがよく見ると所々に不思議なものが不思議な調和感でもって飾られていた。例えば赤いリボンの麦わら帽子だとか、木製のパチンコだとか、そしてゾロが立ち上がって手を伸ばしてちょうど届きそうな高さのところに日本刀、だとか。
吸い寄せられるように近づいて、間隔をあけて三つ並べたフックに横倒しにして乗せてあるそれを手に取る。固定はされていなかった。まさか本身ではあるまいが危ないだろ、と思いつつ、すらりと刀身を抜く。
「…居合刀か」
刃こそついていないがずっしりと重みのある作りのいい刀だ。馴染み深い感触に胸がざわつき片手で地面と水平に、真っ直ぐ前へとそれを掲げてみる。こうすると自分の腕から続いたその刃の先に目指すべきものが見えるようでゾロはこの姿勢が好きだった。
好きだったことを思い出し、まだ過去形じゃねェ、と思いながらゆっくりと目を閉じる。
船室のような店内に気のせいか漂う潮の匂い。時折道路を通るバイクや車の音が潮騒のようにも聞こえる。そこに小気味いい包丁の音が違和感なく溶け込んでゆく。
久しぶりに五感が研ぎ澄まされていく感覚を味わった。
目指すべきものが霞んだならこうすればよかったのだ。どんなに忙しくともそれで自分は立ち返れるのだと、どうして忘れていたのだろう。
しばらくそうして、目を開けると、男が柔らかく口元を綻ばせながらも驚いた様子でゾロを見ていた。
「やたらと似合うな」
しかし驚くのはゾロの方だ。
「なんでこんなものがあるんだ」
まるで自分を呼んでいたかのような佇まいだったじゃないか。
「さァなァ…、なんか、惹かれたんだ」
男は眩しいものを見るように目を眇め、それから少し俯いた。金色の前髪に隠れてしまった青い瞳をもっと見ていたいと、思う。

惹かれた、と呟いた男の声がゾロの耳にしっとりと張り付いたままだった。

 

 

fin
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素敵ですよね。
『misty』のあの出会いから1年。何もせずにいたのかロロノアのヤツ!と思うべからず。社会人一年生とは忙しいものなのです。真剣に取り組もうと思ったら、仕事だけで頭がいっぱいにならざるを得ないのです。それはサンジさんとて同じこと。お店をオープンさせて1年、他の事をゆっくり考える間もなく仕事に没頭してたはず。そうやって我武者羅に働いたあと、ふと立ち止まって周りを見たり、己を振り返ったときに、気づくものがあるのです。……という実にリアルな若い男性二人のありさまが描かれていて、しびれました。OPという架空のお話の、ゾロとサンジさんというキャラクターの二次創作なのに、まやのさんのお話はいつも現実味を帯びて胸に迫ります。だからといって、ゾロサン萌えがなくなるほどリアル過ぎるわけでもなく、人間としてとても真っ当な二人が恋愛する様子が実に自然に書かれてて、すうっと心に入ってきます。好きだと気付く一歩手前の状態。気になるのは好きだから?まさか恋?と気付き始めの状態。個人的には、このあたりの状態が一番萌えるので、『misty』も『mysterious』もどんぴしゃです。先に進んでほしいような、じっくりゆっくりこの恋を育む様子を見たいような。まやのさん、いつも素敵なお話をありがとうございます!これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。