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初めての回るベッド

年に一回実施される会社の定期健康診断は、サンジにとっては苦行に等しい。
健診自体はたいしたことはないが、前の晩から強いられる絶食と禁煙が苦しみの元なのだ。もっとも絶食はいい。空腹は耐えられる。耐えられないのは禁煙だ。どうしてタバコを吸ってはだめなのだ。愛煙家に対する虐待だ。ハラスメントだ。禁煙なんかしたら、かえって体調が悪くなるじゃねぇか。。
 
イライラしながら思う。
 
そもそも健康診断といえば、愛らしい白衣の天使が「チクっとしますよぉ」なんて言って採血してくれたり、「少し苦しいかもしれませんが、ちょっと我慢してくださいね」とか言って血圧を測ってくれたりするもののはずだ。白衣の天使が検査してくれるからこそ、空腹も禁煙も耐えられるのだ。それなのに、今年に限って、派遣されてきた健診のスタッフが、そろいもそろって男性なのはどういうことだ。何が悲しくて、野郎に身長体重、視力や聴力を計ってもらわにゃならんのだ。間違っている。福利厚生として何かが非常に間違っている。気持ちも血圧も下がる。心電図の波形も乱れる。健康を阻害される。断固抗議する。
 
ニコチン不足と女性欠如による苛立ちがサンジを激しく苛んだ。あまつさえ、今年は年齢的な要件からバリウム検査も受けなくてはならないという。
 
ちくしょう!バリウムがなかったら、今頃、健診終了でタバコ解禁だったのに!
 
やり場のない怒りがふつふつと沸いてくる。バリウムを飲むのは初めてだが、大きな怒りの感情の前には未知なる体験への不安など塵芥に過ぎない。
 
とっとと終わらせて喫煙所に駆け込んで最低でも一時間は立てこもってやる・・・・・・!
 
手にしている健診の受診票を腹立ちまぎれに握りしめ、最後の受診項目であるバリウム検査が行われる場所へ足音荒く向かう。
 
検査は、会社の駐車場に停められたクリニックの診療車で行われることになっていた。
 
「バリウム検査を受ける方ですか?」
診療車のそばに、白衣を身につけた案内係と思しき女性が立っていて、受診票を持ったサンジを見つけると声をかけてきた。アップにまとめた黒髪と赤いフレームの眼鏡が似合うこの上なくキュートな女性だ。
 
かわいこちゃーん!
 
底を這うようなテンションだったサンジの意識がぐいーんと上向く。
 
そう!これだ!こうでなくては!この出会いを待っていた!
心臓が高鳴る。
 
今までの苦しみと辛さは、この可愛いレディに会うために用意された恋の試練!
 
案内の女性は、手持ちのリストとサンジの持っていた受診票を照合して、名前を確認した。
「ええっと。サンジさん、ですね?」
「ああ、たしぎちゃん。きみのような白衣の天使に名前を呼んでもらえて、おれは幸せだ」
 
一瞬の間に読みとったネームプレートの名前で呼びかける。サンジの特技だ。名前を呼ぶことで親密度が上がるというスンポーだ。
一方、名乗りもしない名を呼ばれたたしぎの顔に、あからさまに困惑の表情が浮かぶ。しかしそれさえもサンジにとっては好ましい。汚れた地上に舞い降りた清らかな天使であればこその戸惑いの表情に違いない。
 
「こちらへどうぞ」
つかの間、サンジの言動に困惑していたたしぎだが、受診者を誘導するという自分の役割を思い出したようだった。車両後部の入口で靴をぬぎ、スリッパにはきかえて、車に乗り込むようサンジを促す。
 
「足元の段差に気を付けてくださいね」
そう注意したたしぎ本人が、言ってるそばから段差でつまづいた。
「いたたたた」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
 
なんてかわいいんだ。やはり天使。地上の重力に慣れていないのだろう。守ってあげたい。
 
たしぎの姿に庇護欲がかきたてられる。
 
サンジは、カーテンで仕切られた狭い空間に案内された。
「こちらの診療着に着替えてくださいね。下着はつけていてかまいませんから。それから、ネックレスや腕時計など、金属のものは全て外してください。準備ができたら出てきてくださいね」
「はーい!」
たしぎの注意事項に元気よく返事をし、サンジはいそいそと洋服を脱ぎ、薄緑色したぺらぺらの診療着を身につけた。
 
「お待たせしましたー!」
勢いよくカーテンを開ける。
「お済みになりましたか。じゃあ、こちらです」
 
待機していたたしぎに導かれ、検査機械の設置されている扉の向こう側へ足を踏み入れた。ベッドを縦にしたような「台」としか言いようのない機械が置いてある。
 
「ちょっと待っててくださいね」
たしぎはサンジにそう言いおくと、しばらく姿を消し、やがて大きな紙コップを片手に戻ってきた。もう片方の手は何か別のものを握りしめているらしく、どことなく不自然な態勢でそろそろと近寄ってくる。
 
あぶなっかしいなー。でもかわいいなー。一生懸命な様子はけなげだなー。
 
サンジは思った。
 
あの紙コップの中身がバリウムってヤツだな。結構、量がありそうだな。重そうだ。あれ、おれから受け取りに行ったほうがいいのだろうか?それとも待っている方がいいのだろうか?
 
先ほど、段差でつまづいたたしぎを思えば、手伝ってあげたほうがいいような気がしなくもない。
 
しかし、足元は平坦な床だし、バナナの皮も落ちてないし。よけいなお節介かもしれない。それに、真剣に運んでいる時に声をかけるのは、驚かせるだけかもしれない。
 
サンジが見守る中、たしぎとの距離が縮まる。
 
まあ、これなら大丈夫だろ。あとは受け取るだけだ。
 
サンジが我知らず詰めていた息を吐いたとき、たしぎのスリッパがつるっと滑った。
 
「きゃっ」
たしぎはこけた。
 
びしゃん。
手に持っていたカップの中身がサンジにむかってぶちまけられた。
 
「うわっ?」
至近距離だったため、避ける間もなく生ぬるい液体がサンジにかかった。だが、そんなことは大したことではない。心配なのは、たしぎちゃんだ。見ていた限りでは、頭は打ってなさそうだったけど、堅い床だったし痛そうだ。
 
「たしぎちゃん、大丈夫?」
転んだたしぎを助け起こそうと、サンジが傍にしゃがみこんだその時。
 
「どうしたんだ」
サンジの背後、高い位置から男の声がした。
 
振り仰ぐと、体格のいい緑色の髪の男が立っていて、たしぎとサンジを不機嫌そうに見下ろしていた。
 
「ごめんなさい。あの、こぼしてしまって。あー、どうしようどうしよう」
たしぎがサンジに謝罪しながらおろおろしている。
 
「アホが、何やってんだ」
状況を見てとったのだろう。男はたしぎを一喝した。
「すみません、ロロノアさん」
たしぎがしゅんとうなだれる。
 
それを見たサンジはすくっと立ち上がった。濡れた薄い診察着が肌にはりついて気持ち悪いが、そんなことに構っていられない。
「ちょっと待てよ、おまえ。そんなに怒ることねぇだろ?」
悪気の欠片もなくただひたすら懸命だったレディが、こんな男に叱責されるのを黙って見ているわけにはいかない。
たしぎを背にかばうようにロロノアとかいう男の前に立ちはだかる。しゃがんでいた時には大男に見えたが、サンジと身長は同じくらいのようだ。体の厚みは向こうの方に分があるが、負けるサンジではない。
 
「誰だって転んだりすることあんだろ?それを一方的に責めるんじゃねぇよ。わざとじゃねぇんだからよ」
「ああ?」
緑髪の男はサンジをにらんだ。その目がサンジを値踏みするように眇められる。並の人間ならば、金目のものを置き命乞いをして即刻逃げ出したくなるような凶悪な表情だ。
 
凄んでみせても無駄だ。おれに脅しは効かねえぞ。
 
サンジは男をにらみ返した。
 
ぽたり。
サンジの体から、バリウムの白い液体が滴となって床に落ちた。粘度のある液体が、体をつたう感触が実に不快だが、ここは一歩も退けない場面だ。
 
しばしのにらみ合いの後、男がふっと視線をそらせた。
 
「とりあえず、とっとと片づけろ」
表情は同じだが、さきほどよりはだいぶ穏やかな口調で男がたしぎに言う。
「はい。・・・・・・サンジさん、本当にすみませんでした」
たしぎが再度サンジに謝る。
「いいよいいよ。大丈夫。気にしないで」
サンジは心配しなくていいよの意味を込めてにっこり笑いかけた。泣きそうだったたしぎの顔が安堵で明るくなる。
 
あー、いいなー。女の子はいいなー。
 
たしぎのはにかんだような控えめな笑顔をみて、サンジの気持ちも明るくなる。
 
まァ、これから仕切り直しで検査なんだろうがよ。どんな検査だとしても、たしぎちゃんの笑顔が困難に立ち向かう勇気を与えてくれるぜ。
 
頬を緩め、鼻の下を伸ばすサンジの耳に、男の無情な声が聞こえた。
 
「たしぎ。今日はもう、中の作業はいい。おれ一人でやるから、外にいろ」
「わかりました」
 
えええ?たしぎちゃん、おれに付き添ってくれるんじゃないの?
 
床をきれいにした後、あっさりと部屋を出ていくたしぎをサンジは呆然と見送った。
 
 

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