付き合ってる人と別れたら、すっかり腑抜けて駄目になってしまう男というものを目の当たりにした。
生気のないどんよりとした空気を漂わせた生物。鬱陶しいことこの上ない。ましてやそれが実の兄ときた。赤の他人だったら関わらずにいられるものを。
ひとつ年上の兄であるゾロは、三日前からリビングのソファで大きな身体を丸めて沈み込んでいる。わたしが目障りと言おうが母が邪魔と言おうが、心ここにあらずで動こうとしない。挙句の果てに似合わないため息をついていたりする。
彼女にふられたのね。
わたしと母はそう見立てた。間違いないと思う。
ゾロというオトコは基本的に身の回りのことに無頓着で無神経でデリカシーがない。でも運動神経がよい上に客観的にみてルックスは悪くなかったから(私の好みではないけれど)、兄の中身を知らない子たちや中身はどうでもいいと思っている子たちからは人気があってよくモテた。そういう子が世の中に意外なほどたくさんいた。
めんどくさがりで、自分が本当に大事にしている事以外のたいていの物事はどうでもいいと思っている兄は、たぶん断るのも面倒だったんだろう。つきあって下さいと言われると、そのときに彼女がいない限りは断らなかった。かといって、つきあう相手を特別扱いもしなかったし自分から働きかけもしなかったから、彼女の方から別れを告げられることも多かった。だから思春期以降、彼女がいない時期もなかったけれど長続きすることもなかった。
わたしはそれをそばで見ていた。
兄のやることに口出しする気はなかった。時々からかうことはあったけれど。
でも。
優しくもないし親切でもないし甲斐性もないし爽やかなイケメンでもないけれど。根っこのところで優しくて、表面的でないところで親切で、他者に対して偏見がなく、どんな時だって堂々として、背筋の伸びた姿でいるゾロのことを本当は自慢にしてたし頼りにもしていた。
だから兄の本質を知りもせずに告白していく女の子たちをちょっと冷めた目でみていたし、そういった女の子とつきあうゾロのことも、なんだか自分を安売りしているみたいで納得のできない気持ちで見ていたことは確かだ。
そんな状況が、しばらく前から変化したのだ。
ゾロのライフワークである幼い頃からずっと続けてきた剣道に熱心に打ち込む姿は変わらなかったけれど、気合の入り方が違うというか。ゾロを包む雰囲気がピリピリとした緊張感をはらんだものじゃなくて、気力が充実している者だけがまとう一種の余裕のある雰囲気に変わっていい感じなのだ。しかも身の回りのことだって以前に比べてずいぶんまともになった。特段うわついた様子は見られなかったけれど明らかに生き生きとして嬉しそうだった。
ゾロ目当ての女の子がプレゼントや手紙を持って家の前で待ち伏せする姿がなくなったし、これはとうとう本命が登場したんだろうと思っていた。
どんな子なのかは知らない。私は聞かなかったし、ゾロは聞かれないことは話さないからだ。でもゾロの様子からすごく大切にしているんだろうなと思った。兄も大切にされているんだろうな、そうだといいなと思っていた。
そう思ってここ数ヶ月間見守っていたのに。それなのに。
ゾロのこの惨状。
今までは彼女と別れたくらいではこんなひどい状態になったことはなかったから、やはり特別な彼女だったのだろう。
鬱陶しくて邪魔である以上に、こんな状態のゾロは見ていたくない。私が気に入っている兄は何があってもふてぶてしいくらいに毅然と頭をあげている姿なのだから。
ゾロの色恋沙汰には口を出さずに来たわたしだけれど、今回は出番だろう。恋愛は必ずしも得意分野ではないけれどゾロよりはマシだ。女の子の気持ちだってわかるはずだし。妹として兄には幸せになってもらわないと。
まずは相手がどんな子なのか知らないことには私としても行動が起こせない。現状把握のためにゾロから事情聴取だ。弱っているのにかわいそうな気がしなくもないがこれも兄のため。必要悪だ、仕方ない。心を鬼にしてあえて聞き出そう。けして好奇心からではない。
まずは第一矢を放つ。
「ゾロ、あんたいつまでそうやってんのよ。」
「うるせえ。」
あら、少しは気力が戻ったのかしら。昨日までは話しかけても生返事だったのに。わるくない兆候だ。
穏やかに聞き出すソフト尋問コースと強硬に問い詰めるハード尋問コースの二つを用意していたけれど、この分だとハードで問題なさそうだ。
「あんたらしくないのよ。彼女と別れたくらいでそんなに落ち込むなんて。」
「うるせえな、ほっとけよ。」
よしよし。こうやって噛みついてくるのは調子がでてきた証拠だ。
「今までのあんただったら、別れたら次の人でしょ?なんでそんなにしょげてんのよ。そんなにその彼女に未練があるの?どんな子だったの?なんで別れちゃったの?」
波状攻撃。どれかに食いついて来たらラッキーだ。
「しょげてねえよ。別れてもねえし。ってか、そもそも彼女じゃねえ。」
はいー?思いがけない返答だ。
別れてないのにこの有り様?彼女じゃないのにこのテイタラク?どういうこと?わたしと母の見立てにハズレはないのに。
「なによ。痴情のもつれで落ち込んでんじゃないの?」
「なんだよ、チジョーのもつれって。」
「男女間の色恋沙汰におけるいさかいよ。」
「男女間?」ゾロの無駄に形の良い眉が片方だけはねあがる。イヤな感じだ。
「だったら、ちげえな。いさかいはしちゃいるがヤツは男だ。」
は ・ い ―――??? ヤツ ??? オトコ???
いや、わたしはそういうのにはあんまり偏見とかないけど。何ですって??
思いがけない返答どころじゃない。思考の死角からの衝撃を喰らいフリーズしそうになる。しかしこんなことで追及の手を緩めてはならない。
「あんた、ホモだったの?!」
「ちげえ!」
「じゃあゲイ?」
「ホモとゲイのどこが違うんだよ。」
「おんなじよ。同性愛のことよ。」
「そんなんじゃねえ。」
「じゃあどんなのよ。」
「おれはあいつじゃなきゃだめなんだ。」
第二の衝撃。この兄が。あの朴念仁のゾロが。こんなセリフを臆面もなく口にするとは。
「だったら、こんなトコでぐだぐだしてないでとっとと仲直りしなさいよ。それとも、ふられたの?愛想尽かしされたの?飽きられたの?」
「うるせえ!!たたみかけるな!」
ゾロは怒鳴ったが、わたしは聞いちゃいなかった。
頭の中で状況を整理する。
別れてはいない。喧嘩して仲直りしあぐねて落ち込んでいるだけ。なんだ、よかった。心配して損した。
犬も食わない痴話げんかに首を突っ込むのもどうかと思うが、非常に興味をかきたてられる。けんか一つでゾロをこんな状態にさせちゃう相手、ゾロがここまでこだわる相手ってどんな人なんだろうか。実に気になる。
よってハードコース続行だ。
「なんでそんなに弱ってるのよ?」
「メシを食ってねえからだ。」
「アンタ、食べてたじゃない。今朝は私が作ったわよ。」
「あれじゃダメだ。」
失礼極まりない発言だ。鉄拳制裁に値する。よってとりあえずグーで殴る。
「なんでアンタにダメ出しされなきゃならないのよ。」
「あいつのメシじゃなきゃ駄目なんだ。」
「何それ、餌付けされてんの?」
「ちげえ!」
「違わないでしょ!おかしいんじゃないの。っていうか、ご飯だけなの?」
「ちげえ!」
ゾロとの会話の不毛さにわたしはキレた。
「うるさい!人の話にいちいちいちいち、ちげーちげーとかって合いの手いれるんじゃないわよ!アンタの話が下手だから、こっちが想像力で補って話をまとめてやってるんじゃないの!!はじめからわかるように説明しなさいってのよ。できないんだったら、黙ってあたしの言うとおりにしなさいよ!!」
「おれが食いたいのは、あいつのメシだけじゃなくて、あいつごとなんだ!!」