1.

 

練習場が消えた。

とゾロは思った。

つい先ほどまで、古びてはいるがよく手入れされた剣道場で部活の仲間達と一緒に夏合宿のハードな練習メニューをこなしていた。
「10分間休憩!」という部長の声に、汗を拭き、水分を補給し、トイレに行き、ふと外の空気を吸いたくなって建物の外へ出て、興味本位でほんの少し辺りをぶらつき、さて道場へ戻るかと来た道をそのままたどったはずなのに、いつまでたっても練習場は現れなかった。

どうしたもんか、とゾロは思った。時計がないから分からないが、そろそろ休憩が終了し、練習再開の時間になるに違いない。練習をサボったと思われるのは心外だが、普段の自分の態度を知っている部員たちは、ゾロが逃げ出したとは思わないだろう。こうなった以上、焦ったところで意味がなく、立ち止まっても仕方ないので、とりあえず、こっちだろうと見当をつけた方向へ足を進める。あるはずの場所が見当たらない、あるいは、あったはずの建物が忽然と姿を消す、という経験を数えきれないほどしているゾロは、今回もいつもの不思議現象だなとあっさりと受け止めて、さほど困りはしていない。

吹く風が気持ちいい。

初めて訪れた合宿所は、ゾロ達が通う高校からは、バスで3時間ほどの高原にあり、木々を渡って吹いてくる風が下界とはまるで違う。何にも遮られずにまっすぐ届く太陽の光が、むき出しの肌にはじりじりと痛いくらいだが、湿度が低く爽やかな大気は心地よい。ゾロは我知らず清々しい空気を肺一杯に吸い込んだ。悪くねぇな、と思う。今年の夏合宿は、予約時の手違いにより、毎年使っている宿舎が使えず、少し遠方の場所になったと事前の説明会で聞いた気がする。施設が少々古いが清潔だし食事は良いとかなんとか。練習さえできれば合宿所なんてどうでもいいと思って聞き流していたが、からっとした気持ちの良い空気は気に入った。問題があるとすれば練習場が未だに現れないことである。

しばらく歩いていると畑にでくわした。真っ赤なトマトが収穫を待っている。別にトマトが好きなわけでもないし悪戯を起こす気もなかった。しかし、はちきれんばかりに熟れたつややかなトマトに、つい触れてみたくなった。手を伸ばす。その途端

「トマト泥棒!」
甲高い声。
「おまえ、こんなとこで何やってんの?」

咎める声にゾロが振り向くと、トマトを入れた収穫籠を持った少年が非難がましい様子で立っていた。半袖の白いTシャツとカーキの短パンからは細くて真っすぐな足がのび、あたまの上にはつばの広い麦わら帽子を目深にかぶっている。つばの陰に隠れて目元はよくわからないが、責めるような目をしているに違いない。全体的にひょろっとしていて華奢な体形で、まだ中学生か下手をすれば小学生だろう。

「別に、何もしちゃいねぇ」
ゾロはゆっくりと両手を挙げた。何も採っていません、のポーズだ。
「ほんとかぁ?」
疑わし気に少年が言う。
「ああ。ちょっと珍しくて、触りたくなっただけだ」
「触りたくなったからって、触っちゃダメだろ?」
「すまん」

ゾロは素直に謝った。トマト泥棒にしちゃ素直だな……とぶつぶつ独り言を言いながら少年は上から下までじろじろとゾロを眺めまわした。それから急に思いついたように言った。

「おまえ、今、合宿に来ている東海高校の人間だろ」

ゾロは頷いた。

「サボり?」
「サボってねぇ」
「じゃー、なんでこんなところにいんの?今、練習中だろ?」
「あー……」

ゾロは言いよどんだ。この不思議現象をどのように説明したらいいのか分からない。分からないので簡潔に答えた。

「……アレだ。練習場が消えた」
「はあ?」
「トイレに行って、戻ろうとしたら練習場がなくなっていた。おれは早く練習にもどりたいのに」

ゾロは真顔で語った。少年は、一瞬きょとんとしたようだ。それから、あはははは!と大口をあけて笑い出した。

「練習場が消えるわけないじゃん。迷子か?」
「違う、そうじゃねぇ」

ゾロは些かむっとした。年下の子供に(しかもよく知らない子供)に迷子呼ばわりされる謂れはない。迷ったことなど一度もないのだ。ただ見つかるのに時間がかかるだけなのだ。少年は可笑しそうにひーひーと笑う隙間からゾロに聞いてきた。

「練習に戻んの?」
「あたりまえだ。そのための合宿だろ」

そう答えるゾロの姿を上から下までもう一度眺めると、さっきとはまるで違う気楽で親し気な様子で、「じゃあ、こっち、連れてってやる」と案内役をかって出た。若干失礼だが親切な少年だ。その軽い足取りの細い後ろ姿に付いて行くと、ほどなく練習場の入り口が見えた。

「ほらほら、でっかい迷子。着いたぜ」

少年がぽんぽんとゾロの背中をたたく。

「助かった。ありがとう」

小さな手の温度を背に受けながら、ゾロは礼儀正しくお礼を言う。

「どういたしまして、迷子ちゃん。がんばれよ」

軽い調子でそう言って立ち去りかけた少年が、くるりとゾロを振り返った。何だろうかと思うゾロに向かい、持っている籠からトマトを一個掴んで差し出す。

「はい。泥棒って疑ったお詫びのスペシャル差し入れ。じゃ、またな」

ひらりと手を挙げて、跳ねるような足取りで去っていく。太陽を浴びてまだ温かい中身の詰まったずしりとした重みがゾロの手の中に残された。消えた体育館に不思議な邂逅。狐につままれたような気持ちで、実に歯を立てれば、生ぬるくみずみずしく青臭く、今まで食べたどんなトマトとも違う。トマトが美味しいと初めて知り、アイツは一体どこの誰だ、と遅まきながら思った。

 

→2.