2.

ぱちりと目が覚めた。
薄暗い部屋の見慣れぬ天井が目に映る。ゾロはむくりと上半身を起こし、周りを見渡した。布団が敷き詰められた6畳ほどの狭い部屋に男ばかりが5人。寝相のいいもの悪いもの、いずれからも深い寝息が聞こえてくる。そういえば、昨日から夏合宿に来ているんだった、と自分の置かれた状況を把握した。

夏合宿は、ゾロの所属する高校の剣道部の夏休みにおける恒例行事で、毎年、8月上旬の一週間、学校とは離れた場所で朝から晩まで稽古に励むことになっている。夏の暑い盛り、少しでも環境のよい場所で稽古を行うことを目的として、例年、学校からほど近い高原の合宿所で寝泊まりすることになっている。今年も山間にある街へやってきたが、去年の合宿所とは若干趣が違っていた。去年はもう少し近代的な大きな建物で、他校の生徒たちも一緒になったが、今年はこじんまりした宿舎で設備も新しくはない。同じ高校の別の部活の連中はいるが、他校の生徒はいないせいで、宿舎内の雰囲気も落ち着いている。(合宿と言うよりは祖父母のいる田舎に遊びに来たような)という感想が仲間内でささやかれていたが、ゾロは頓着しなかった。ゾロにとっては、施設が新しかろうが、古かろうが、他校の生徒がいようがいまいが、田舎だろうが都会だろうが関係なかった。練習して強くなる。強くなるために練習する。ただ、それだけだった。

合宿所に到着したのは昨日の午後であったため、本格的な練習は今日からスタートすると言っていい。

時計を見ると起床時刻まではまだ1時間以上も間があった。ゾロはもう一眠りしようと布団に体を横たえたが、なんとなく目が冴えてしまい寝付けなくなってしまった。仕方ないので、辺りを散歩でもするかと起き上がる。

同室の仲間達を起こさないように、踏みつけないように、畳の上に置かれたスポーツバッグに躓かないように足元に気を付けながら廊下に出る。空気がひんやりとしていた。この場所は標高が高いため、下界よりもだいぶ涼しい。昨夜もクーラー無しで快適に過ごせたくらいだ。窓の外の空は、夜の色が徐々に褪せていこうとしているところだ。静まり返った廊下を足音を忍ばせて歩く。

宿舎の玄関から外へ出ると、さらに気温は低く、日の出前の清々しい空気に満ちていた。鳥の鳴き声が聞こえている。周囲の様子には無頓着なゾロだが、気持ちいいもんだな、と思う。朝露にぬれた草と土の濃いにおいがたちこめるしっとりとした空気を肺いっぱいに深く吸い、深呼吸をする。
少しずつ色味を帯びてくる空の様子が美しい。思いつきで外に出てきただけで行くあてはないが、とりあえずこの辺りを探索してみることにして宿舎に沿って歩き出し、建物の角を曲がる。そこに人の気配があることに気づいて立ち止まった。

細い後ろ姿。

トマト小僧。いや、サンジという名前だった。

昨日の夕食時、「たっぷり食えよ!」と元気よく呼びかけながらご飯をよそっているトマト小僧に食堂で再会し、ちょっとしたひと騒動のあと、本人の名前とこの合宿所で働いていることを知ったのだ。

サンジは鼻歌を歌いながら、なにやら植物に水をやっている。あの植物はたしか朝顔。小学生のときに育てさせられたのでゾロでも知っている。サンジは鼻歌の合間に「おはよー!今日もいい一日だね」などと、機嫌よさそうに朝顔に話しかけている。草に話しかけるなんて、コイツ大丈夫なんだろうか。ゾロは首をひねった。

ふと、サンジが顔をあげた。ゾロの姿を見つけて驚く。

「うお!びっくりした」

目がまんまるに見開かれて、幼い感じの表情になる。それから「おはよー」と、朝顔に話しかけるのと同じ調子でゾロに挨拶を送ってよこした。ゾロはなんとなく居心地が悪い。嫌ではないが慣れない感じだ。

「なんだよ、ずいぶん早起きだな?」

不思議そうに聞いてくるサンジに、ちょっと目が覚めたから散歩、と返す。

「え?散歩?やめとけよ。おまえまた迷子になっちまう」

サンジが遠慮なく言う。またとは失礼な。子供に言われる筋合いはねぇ、と少しばかりムッとする。言い返そうと口を開きかけたゾロより早くサンジが次の言葉を継いだ。

「それより、これ。一緒に見ようぜ」

これ、とサンジが指さした先に朝顔の膨らんだつぼみがいくつもある。よくよく見ると固く巻かれたらせん状のつぼみが、少しずつねじれながら花開こうとしているところだった。

ゾロにとって朝顔の花は、咲いているのを見るか、しぼんでいるのをみるか、どちらかだった。いや、そもそも花なぞ気にも留めたことはなかった。興味なんてまるでない。それでも、目の前にしゃがみこみ、息をひそめるようにしてじっと開花の様子を観察しているサンジの雰囲気には心惹かれるものがあった。朝顔の花開く瞬間など、これを逃したらもう二度とみる機会もないかもしれない。……散歩はいつでもできるんじゃねぇか?そう思って、ゾロは黙ってサンジの隣にしゃがみ込んだ。サンジがちらりとゾロを見上げ、へへっと笑った。

先ほどと同じく、やはり居心地の悪い思いがする。しかし嫌ではない。

言葉も交わさず見守る二人の前で、朝顔のつぼみが、少しずつと花らしい姿になる。

夜明けとともにゆっくりとほどけていく青い螺旋。なんとなくじんわりと頑なな心の中がほどけていく。

目がはなせない。

 

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